大林組80年史

1972年に刊行された「大林組八十年史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第五章 さらに前進を目ざして―

第二節 東京本社の設置

業務活動の中枢を情報化社会の中心へ

大林組の創始者大林芳五郎は、大阪で生まれ大阪で育ち、その力量と信用によって今日の基礎を築いた。明治末年、東京に進出して東京中央ステーション(現・東京駅)を完成し、「日本の大林組」となったが、これを可能ならしめたのは、第五回内国勧業博覧会会場を独力で建設した「大阪の大林組」の実績である。晩年は広く財界にも活躍したが、これも大阪が中心であり、没後の危機を乗り越えたのも、大阪財界人の協力なしには考えられなかった。二代目社長義雄、現社長芳郎はその遺産を踏まえ、今日の大林組の繁栄をもたらしたのであったが、その意味ではあくまでも「大阪の大林組」といえる。それをあえて東京に本社を設け、主力の大半をうつすこととしたのは、前にのべたごとく転換の時代に処するためであるが、これを具体的にいえば、政治、経済の中央集権化がいよいよ進む首都、情報化社会において国際・国内の情報が最も早く集中する東京が、この情勢下での日常業務遂行に最適と判断されたからであった。

拠点から本拠へ―東京支店の歩み

もとより、従来といえども東京は最も重要な拠点であり、政財界の中枢部や官庁に接触し、政治、経済の動向をとらえることは東京支店の任務の一つであった。この使命は時勢の進展、社業の興隆とともにますます重要さを加えたが、同時に管内工事量の増大によって支店そのものも大きく成長した。明治三十七年(一九〇四)六月、京橋区金六町(現・東銀座一丁目)に開設した東京事務所は、同三十九年四月、支店に昇格し、それ以来戦前のみで四十余年の歴史がある。東京駅、日本興業銀行をはじめ当時の代表的建築の施工に当たり、その業績も数多いが、大正十二年の関東大震災に際し、これらの建物が地震によって損傷しなかったことは、特に大林組の名を高からしめた。また復興建設に当たっても、東京業者の多くが被災して活動が意のごとくでなかったのに対し、大阪に本拠をおく大林組は存分に力を発揮した。大林組が東京に不動の地位を確立したのはこの時期であるが、これはまた同時に、その後にくる全社的発展の跳躍台をなすものであった。

はじめ東京支店は東京地区のために設けられ、制度上は他の支店と同等であったが、以上のような経過によって、全支店中の最上位に位置するようになった。支店をここにいたらしめた最大の功労者は、明治四十二年(一九〇九)支店主任となり、昭和十六年(一九四一)相談役に就任するまでの三十二年間、終始東京にあった植村克己である。彼は大正十二年(一九二三)まで取締役、支店長に在任し、支店長が松井清足、鈴木甫に交替したのちも、常務取締役として東京に常駐し、最高統率の任に当たった。

東京支店は、第二次世界大戦が勃発し、建設業も戦時統制化にはいるにおよんで、いよいよ重きを加えた。業界は陸海軍と軍需省の管轄下におかれ、主要工事の配分や資材の割当て等、重要事項はすべて東京で決定された。当時軍部や官庁と折衝し、自社業務のみならず業界活動に当たったのは本田登と宇高有耳の両支店長であるが、この間、前支店長鈴木甫が軍建協力会、海軍施設協力会に迎えられ、両団体の副会長に推されたことは、業界における東京支店の地位を象徴するものであった。戦後、統制は廃されたが、進駐軍工事や国土建設計画等公共工事の比重はむしろ大きく、労働関係法の整備や建設省の設置、建設業法の制定等にともない、官庁方面との折衝はかえって増加した。また業界の地位向上とともに、中央政財界との接触も戦前にくらべて多くなり、これらの事情を反映して支店長も五十嵐芳雄、丸山茂樹、浜地辰助、稲垣皎三、山田直枝、石渡雅男の順で、常務取締役、専務取締役、副社長クラスの大幹部が当たるようになった。

しかしながら、東京支店は機構上あくまでも支店であり、中央的用務を弁じるために設けた機関ではない。また工事面においても、政府が発注する公共工事は増加し、地方に建設される一般企業の工場や営業施設も、本社のおかれる東京で受注交渉が行なわれる傾向が強くなったが、これらの折衝は支店業務の範囲を越えるものであった。こうした事情は管下工事量の増大とともに、しだいに東京支店の負担を過重なものとし、一方、社長以下本店役職員は頻繁に上京しなければならなくなった。昭和三十七年(一九六二)九月、建築、土木の両部門に本部制を採用するに当たり、本店機構の土木本部を東京においたのは、土木の大工事が政府事業を主とする現実に適応させたものである。また前年九月、東京大林ビルを新築したことも、東京支店の業績向上を物語ると同時に、将来東京における本店業務の増大にそなえるためであった。

コンピューター関係の部門や海外工事部も本店機構として創設されたものであるが、業務の必要上、設置の当初から執務は東京とされた。本店研究室を廃し、技術研究所を東京に設置したのも、技術の研究開発には情報化社会の中核である東京以外の他は考えられず、昭和四十五年(一九七〇)七月、原子力室を東京においたのも同じ理由からであった。このように、本店の重要機構は次々に東京に設置され、東京大林ビルで執務する役職員はしだいに本店に在籍するものが増加した。このような経過をたどって全社的業務の東京移行は着々として進行し、同年十月、建築部門の営業体制を強化するために営業部を営業本部制とするに際し、これを東京におくことによってほぼ骨格をととのえた。東京本社の設置は、これに肉づけを与え組織を整備したものであり、きわめて自然かつ必然のなりゆきであったといえる。

東京大林ビル
東京大林ビル
同別館
同別館

東京・大阪二眼レフ―二にして一の体制

東京本社設置は、同年十二月一日、隣接する東京大林ビル別館の新築落成を待って行なわれ、従来の東京支店業務は本社業務に吸収された。ここにおかれたのは企画室、秘書室、総務部、人事部、労務部、経理部、機械計算部、機械部、海外営業部、住宅事業部、プラント部、原子力室、都市開発室の四室九部と、営業本部、土木本部、建築本部の三本部および技術研究所である。この措置にともない、ある程度の人事移動と増員が行なわれた。これによって、東京本社は業務活動の全社的本拠となったが、しかしそれは本店が東京に移転したことを意味するものではない。商法上の本店はあくまでも大阪である。また業務体制においても、営業、土木の両本部は東京本社のみであるが、建築本部は本店にもおかれ、名古屋支店以西を所管して全国を二分する。経理部門も全社的業務については、これまでどおり本店経理部が担当し、住宅事業部、監査室、社史編集室等も本店機構として大阪に存置された。

このように、本社と本店の関係は、二にして一の体制であり、カメラにたとえるならば二眼レフのごときものである。大阪に生まれ大阪に育った大林組は、東京に本社を設置したからといって、父祖の地によせる心情にはいささかの変わりもない。それは次節にのべるように、東京本社設置と期を同じくして地上三二階の超高層、大阪大林ビルの新築に着手したことが物語っている。

東京本社の設置・社長訓示
(昭和45年12月1日)
東京本社の設置・社長訓示 (昭和45年12月1日)
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