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各町の関係
各町は、こうした渡り廊下によって結ばれていたわけだが、とくに関係が深いのは、東南の町と東北の町である。六条院の中心が光源氏の住む東南の町であることはいうまでもないが、東北の町には、それを補助する役割があったと考えられる。「玉鬘」の巻で、夕顔の忘れ形見、玉鬘を東北の町に住まわせる時、西の対が文殿(ふどの)であったのを別の場所に移したとある。この文殿は、六条院全体の施設であり、それが東北の町につくられていた。
また、すでに述べた冷泉帝と朱雀院の六条院行幸啓の折、2人はいったん東北の町の御殿に入られて準備を整えてから、「南(東南の町)の寝殿に移りおはします」とある。これらから分かることは、東南の町と東北の町における、ハレとケの関係である。つまり東南の町は表向き、東北の町は内向き(家政事務所)の役割をもち、相互的に機能していたのである。
こうした視点をふまえて、今回の復元では、東南の町と東北の町との間には大袈裟な塀は設けず、築山や樹木だけの隔てとした。また両町の雑舎群の大半を1つにまとめ、東北の町の北側にあったものと推定した。
これに対し、西北の町と西南の町は比較的独立して機能しているが、それでも完全にそうなっているわけではない。たとえば、明石の御方の住まいである西北の町は、「西の町は、北面築き分けて、み蔵町なり」(乙女)とあるように、北側が蔵町となっていたが、これは機能的には六条院全体の倉庫群といえる。
また、秋好中宮の里邸である西南の町は、紫の上の東南の町と池がつながっていた。「胡蝶」巻は、春の宴の華やかな描写で始まるが、その折、秋好中宮の若い女房たちが着飾って船に乗り、紫の上の御殿の池へ訪ねて来る場面がある。
「南の池の、こなたにとほし通はしなさせ給へるを、小さき山を隔ての関に見せたれど、その山のさきよりこぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人々集めさせ給ふ」。唐風(からふう)に装った龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の華やかな船を池に浮かべ、かじ取りの童子にも唐風の格好をさせ、「まことの知らぬ国に来たらむここちして、あはれに面白く」春の宴は繰り広げられた。『源氏物語』の中でも、とりわけ美しい場面である。その演出を可能にしたのが、2つの池のつながりであった。2つの池の間には、隔ての山があって普段は見えないようになっているが、山の向こう側は水路で結ばれていたのである。
塀と廊、そして隔ての山と池の水・・・「切れているようで、つながっている」、こうした断続の微妙なバランスは、六条院の大きな建築的特徴といえる。と同時に、当時の貴族社会の美意識の一端にも触れるようで興味深いものがある。この感性は、六条院全体の構成の隅々にまで及んでいたであろう。 |