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大林組
源氏物語
 

◎各町の建物について
<東南(春)の町>
春のおとどのお前、とり分きて、梅の香も御簾のうちのにほひに吹きまがひて、生ける仏の御国とおぼゆ(初音)

光源氏と紫の上の住む東南の町は、春の町であった。「乙女」巻に「南の東は山高く、春の花の木、数をつくして植ゑ、池のさま面 白くすぐれて、お前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩つつじなどやうの、春のもてあそびをわざとは植ゑて、秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり」とあるように、春を愛でる庭が造られていた。
その御殿は六条院の中心であり、重要な行事の大半はここで行なわれた。冷泉帝と朱雀院の六条院行幸啓の際、晴れの舞台となったのも東南の町の寝殿である。こうした重要な行事の場であり、また権勢並ぶものなき光源氏の住まいでもあることから、東南の町の御殿はきわめて壮麗な寝殿造りであったことは容易に想像がつく。
『源氏物語』の記述を具体的にみていくと、「初音」巻で男踏歌(おとこどうか)(正月14日、4位以下の人々が催馬楽(さいばら)を歌いながら、終夜貴紳の家を回りあるく行事)が六条院にやって来る場面で、「左右の対、渡殿などに、御局しつつおはす」とあり、見物のための席を左右の対にも設けたとされている。これによって東南の町には寝殿を中心に、東と西の対屋が整っていたことが分かる。
寝殿造りというと、一般に東西の対屋が揃っているのが当然と思われがちだが、実在した邸宅はかならずしもそうではない。『年中行事絵巻』にみられる藤原道長の東三条殿(とうさんじょうどの)は東対のみであり、『小右記(しょうゆうき)』の作者として知られる右大臣藤原実資(さねすけ)の小野宮(おののみや)には、東対がなかったといわれている。歴史的にみると、初期には揃っていた東西の対屋が、次第に簡略化されたとする説もある。しかし、光源氏の理想的な邸宅である六条院では、当然、東西の対が揃っているべきだと、紫式部は考えたのであろう。

東西の対屋のうち、東の対は玄関(中門)に近く、接客空間としての役割が高いことを考慮し、東側に柱間一間延ばし、孫庇をもつ形態とした。これは、藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)、東三条殿の例にならったものでもある。
また西の対は、「若菜(わかな)・上」巻において、朱雀院の姫君、女三の宮が六条院に降嫁された折、「若菜参りし西の放出(はなちい)でに、御帳立てて、そなたの十二の対、渡殿かけて、女房の局々まで、こまかにしつらひ磨かせ給へり」とあり、対屋が2つあった。このうち西二対(にしにのたい)については、「若菜」巻までまったく記述がないので、六条院造営当時にはなかったものを、女三の宮のために増築したと考えるほうが自然である。そこで東南の町の御殿は、まず寝殿を中心に東西の対をもつ寝殿造りの標準形を配し、のちに土地に余裕のある西対の後方(北側)に、西二対を増築した形とした。
北の対については、記述はない。しかし、光源氏の二条東院にはあったことから、六条院にも北の対はあったものと想定した(後述するように、西南の町、東北の町にも北の対を置いた)。

東西の対屋から伸びた中門廊の南端には、それぞれ釣殿があったはずである。釣殿は、池の中、あるいは池畔にあり、夏に涼をとったり、小さな宴を催す場である。「胡蝶」巻にみられる春の宴の際に、秋好中宮の女房たちが船に乗ってやって来たのが、東の釣殿であった。
西の釣殿については、かなり後の話になるが、「蜻蛉(かげろう)」巻で光源氏の子(実は柏木(かしわぎ)と女三の宮との子)薫(かおる)の大将が、六条院の釣殿で休んだ後、西の渡殿にいた女一の宮をかいま見る場面がある。この時の釣殿は、文脈からいって西の釣殿であったといえる。これも後の増築とも考えられるが、『源氏物語』には、西の釣殿の増築、あるいはその契機となりうる話は見当たらない。ここでは東南の町が六条院の中心であることからも、当初からあったものと想定した。また、光源氏の身分の高さからみて、中門近くには侍所、車寄などがあったと推定した。護衛の武士たちが詰める侍所は、各町にそれぞれあったであろう。

ところで今回、懸案となったひとつに、塗籠(ぬりごめ)があった。塗籠は、母屋(もや)の一隅を壁で塗り込め、納戸あるいは寝室として使用する部屋である。寝殿造りの母屋(もや)にはかならずあったものとされてきたが、『源氏物語』の六条院に関する記述の中には、実は一度も登場しない。
二条院では、「南東の戸をあけておはします。寝殿の西の塗籠なりけり」(御法)とあり、また一条御息所の住む小野の山荘では「中の塗籠の戸あけあはせて渡り給へる」(夕霧)、女二の宮の居る一条宮でも「人かよはし給ふ塗籠の北の口より、入れ奉りてけり」(夕霧)とあり、その存在は疑いもない。ところが六条院に関しては、どの町についてもまったく塗籠の記述がない。
そこで実在した建物に塗籠のない例を探してみると、現在の紫宸殿(ししんでん)には塗籠がない。太田静六博士が研究された堀河殿(ほりかわどの)の寝殿にもみられないが、これは当初から里内裏(せとだいり)を目的として建てられたからであろう。また、『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』巻第2の寝殿指図をみると、そこにも塗籠が描かれていない例もある。
塗籠が、歴史的にいつ頃からあったかは不明だが、寝殿造りに不可欠のものとはいえないことになる。さらに紫式部の記述を検討すると、東南の町の寝殿の場合、当初は紫の上と明石の姫君が、そして後半には女三の宮と明石の姫君が同居していたので、塗籠をつくるだけのスペースの余裕がないのである。これらをふまえて、六条院には塗籠がなかったものとして復元した。

一方、寝殿造りは庭に関してもまだ不明の部分が多くある。池の形態にしても、大陸、半島の影響を受けた四角形のものではなかったか、とする説もある。しかし『源氏物語』には記述がなく、光源氏の時代にはたしてどのような形であったかは断定できないが、ここでは絵巻などにみられる従来のイメージを活かすようにした。
また、池に注ぐ遣水(やりみず)については、「若菜・上」巻に「寝殿の東面 (中略)、やり水などのゆきあひはれて」とあり、さらに「梅枝(うめがえ)」巻に「西の渡殿の下より出づる、みぎは近う埋ませ給へるを」とある。『源氏物語絵巻・鈴虫』第1段にも、出家した女三の宮が住む寝殿の西側の渡殿近くを、石組の遣水が流れている絵が描かれている。これらのことから、東南の町には東西両方の渡殿の下を遣水が流れ、それぞれが池に注いでいるものとした。なお、近年発掘調査、復元された平泉の毛越寺(もうつうじ
)は、平安時代の貴重な浄土庭園を有しており、この庭園の遣水を参考とした。

<東北(夏)の町>
北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深く面白く、山里めきて・・・(乙女)

東北の町は、花散里(はなちるさと)の預かる夏の町である。花散里は、第1級の寝殿造りである二条東院を預かっていただけに、六条院のこの町の御殿も、それなりの規模を備えていたであろう。
「篝火」巻に「東の対の方に、面白き笛の音、筝に吹きあはせたり」とあり、また「玉鬘」巻に「丑寅(うしとら)の町の西の対、文殿(ふどの)にてあるを」とあり、東西の対屋が整っていたことが分かる。また、北の対については、東南の町と同様にあったものとした。
東の対からは中門廊が伸び、その南端に東の釣殿があった。「常夏」巻は、「いとあつき日、東の釣殿に出で給ひて涼み給ふ」という夏の日の描写で始まるが、光源氏はこの後、西の対の玉鬘を訪ねていることから、文中の東の釣殿は東北の町の建物であったと考えられる。東北の町に池があったことは、「藤裏葉」の六条院行幸啓の折、光源氏の演出で帝と院にそれとなく鵜飼をおみせした場面から知ることができるが、東の釣殿はその池に設けられていた。
またすでに述べたように、東北の町には馬場殿があり、東端には東南の町まで通して馬場があった。さらに敷地の北側には、東南の町と東北の町を兼ねた雑舎群を配置したことは、前述のとおりである。

<西南(秋)の町>
中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色こかるべき植ゑ木どもを植ゑて、泉の水遠くすまし、やり水の音まさるべき巌(いはほ)たて加へ、滝おとして、秋の野を遙かに作りたる、その頃にあひて、盛に咲き乱れたり(乙女)

西南の町は、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)の好きな秋を楽しむための庭をもつ御殿である。「藤裏葉」の行幸啓の折、冷泉帝と朱雀院のためにわざわざ中の廊の壁を崩し、中門を開いて、西南の町の築山の紅葉をみせる演出をしたことはすでに述べたが、西南の町の秋の風情は、それほど見事を尽くしていたのである。

建物に関する記述を追うと、「若菜・上」巻に寝殿が、また「野分」巻に東の対の描写がみられる。しかし、西南の町についてはそうしたディテールの読み取りよりも、まず秋好中宮の身分が重要となる。冷泉帝の皇后である秋好中宮は、臣籍に下った光源氏よりも身分が高い。六条院の主人は光源氏だが、この身分差を考えると、西南の町の御殿は、東南の町よりも格が上である。このことから今回は、東南の町と西南の町の御殿の規模は、基本的にはほぼ同格と考えた。
玉上氏は、秋好中宮の身分などをふまえて、この西南の町を六条院における寝殿造りの基本形としたいとされている。そこで敷地は一町ちょうどとし、建物については格式を重んじ、寝殿を中心に東西及び北の対をもち、やはり東西の釣殿を整えた、秋好中宮の身分にふさわしい規模の寝殿造りを再現した。
また西南の町の庭には、滝があったという。これは「乙女」巻に「泉の水遠くすまし、やり水の音まさるべき巌たて加へ、滝おとして」とあることから、泉の水を遠くまでひき、その先にあったと解釈できる。したがって建物から遠く、池に近い位置と考えた。

<西北(冬)の町>
西の町は、北面築き分けて、み蔵町なり。へだての垣に松の木しげく、雪をもてあそばむたよりによせたり(乙女)

冬の雪や、朝霜むすぶ景色を楽しむ西北の町は、明石の御方(おんかた)の住まいである。光源氏が須磨、明石に流されていた折の女性である明石の御方は、その父、明石入道の経済力を背景として大堰(おおい)の里に自分の居を構えていたが、六条院の造営に伴って西北の町に移ってきた。
しかし、その建物はいわゆる冒頭に挙げたような寝殿造りではない。「若菜・上」巻に、懐妊した明石の姫君が、出産のために母親(明石の御方)のいる西北の町へと移る場面がある。「かの明石の御町の中の対に渡し奉り給ふ。こなたはただおほきなる対二つ、廊どもなむ廻りてありけるに・・・」とあり、ここの御殿は寝殿がなく、大きな対屋が2つだけ並び、渡り廊下がめぐらされていた。これは明石の御方の身分が、ほかの町の夫人たちよりも低いためだが、紫式部は『源氏物語』において、こうした身分の違いをはっきりと建築面 にも描いていることがよく分かる。
また、西北の町には、北側を区切り倉庫群の立ち並ぶ一郭があったことは、前述したとおりである。

 
 
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