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5. 六条院のモデルと工期
紫式部の描いた六条院は、きわめて具体的であり、細部にも意識が及んでいる。また、「小障子のかみより、妻戸のあきたる隙」をのぞいたといったように、経験した者、知った者でなければ書けないような微妙な描写もかなりみられる。そこで立地のモデルが源融の河原院であったと想像されるように、建物についてもやはり実在した邸宅のどれかをモデルにした、との想像も成り立つ。モデルの可能性としては、内裏、一条院殿、東三条殿、土御門殿などを挙げることができる。
内裏については、紫式部は中宮彰子に仕えたものの、当時の内裏は火災で焼失していたので、実際には知らないのではないかとする説がある。しかし、かりにそうであっても、中宮に仕えていただけに、伝え聞いた内裏のイメージは相当はっきりと持っていたであろう。六条院における棟と棟を次々と廊で結ぶ構成は、ある意味で内裏を連想させるものがある。
一条院殿、東三条殿、土御門殿は、いずれも中宮彰子について暮らした邸宅である。それらの中でも、紫式部がもっとも影響を受けたと思われる邸宅が、御堂関白藤原道長の土御門殿である。栄華を極めた道長の邸宅の様子は、『紫式部日記絵詞』などからうかがうことができるが、随所に建築的な工夫がなされていたであろう。六条院における西二対の増築や馬場(道長は競馬(くらべうま)が大好きであった)の存在は、土御門殿との関連も考えられるが、断定はできない。
むしろ、紫式部はいくつかの経験した邸宅を基に、さらに理想の光源氏邸を頭の中に構築したのであろう。その構成力には、平安期の女性とは思えないスケールの大きさと緻密さを感じる。五十四帖にも及ぶ長編物語に数え切れないほどの場面をちりばめながら、六条院の記述に関して建築的な視点から矛盾した箇所はほとんどみられないのである。
最後に光源氏の六条院の工期についても検討を行なった。光源氏の邸宅で、工期が比較的はっきりしているのは、二条東院と六条院である。二条東院は、「澪標」巻に「二条の院の、東なる宮、院の御処分なりしを、二なく、改め作らせ給ふ」とあるのが、光源氏29歳の2月頃のことであり、さらに「松風」巻の冒頭に「東の院造りたてて」とあるのが31歳の秋である。途中、光源氏は工事を急がせているが、工期は2年半以上かかっている。改築に改築を重ねる形で工事が行なわれているので、完成に時間を要したのであろう。
それに対して六条院は、「乙女」巻によれば、光源氏34歳の秋に着工し、35歳の8月には竣工している。わずか10ヵ月ほどの工期である。同じ「乙女」巻に、式部卿(しきぶきょう)の宮の50歳の賀の祝いを新しい邸宅(六条院)で執り行なおうと考えた光源氏は、「さやうの御いそぎも、同じくは珍しからむ御家居にてと、いそがせ給ふ」とあることから、造営工事を急がせたのである。しかし、4つの町をわずか10ヵ月とは、あまりにも早い。
当時、実際に寝殿造りの邸宅を建設するのに、どの程度の工期を要したのだろうか。藤原道長が新築した土御門殿は、長和5年(1016)11月2日に立柱が行なわれ、寛仁2年(1018)6月27日に道長が新居に移ったとある。約1年8ヵ月かかっている。これと比較しても、六条院の工期はとても短い。
紫式部は1014年から1016年頃に亡くなったといわれるので、新築された土御門殿は知らないことになる。しかし、その前の東三条殿の造り替えなどは、見聞きしていたはずである。当時の工期がどの程度であったかは、当然知っていたであろう。その上で、物語において六条院をわずか10ヵ月で完成させた背景には、何があったのだろうか。
光源氏のような上級貴族が邸宅を建てる場合、実際の工事はその影響下にある地方の受領(ずりょう)階級(国守、地方長官)などが受け持つことが多い。「澪標」巻に、二条東院を建てる時、「よしある受領などを選りて、あてあてにもよほし給ふ」とあることからも、それが分かる。
また藤原実資の日記『小右記』(寛仁2年6月20日付)には、藤原道長が土御門殿の寝殿を造営する際、1間ごとに諸受領に担当させたとある。実資は、それを「未聞之事也」とし、道長のおごりを批判している(余談だが、新居の調度品の一切は源頼光が調え、呈上した)。実際に1間ごとに各受領が受け持ったか否かは不明だが、多くの受領たちが造営に参画したことは事実であろう。
したがって六条院もそうした方法で建設されたはずだが、太政大臣である光源氏の元へは、経済的にも人手の面でも提供を申し出る受領たちがあとを絶たなかったであろう。そうした受領たちが競いあって工事を急いだとあれば、10ヵ月の突貫工事も可能となる。紫式部は、この点でも、藤原家の氏長者である道長にも勝る、光源氏の比類なき栄華を、それとなく表現したのかもしれない。
◎復元作業を終えて
日本の歴史の中でも、もっとも華麗をきわめた王朝貴族の世界。その真髄を今に伝える『源氏物語』の舞台が、寝殿造りの邸宅であった。1年半に及ぶ六条院の復元作業を終えて、寝殿造りの印象を改めて振り返るとき、建物の仕様やデザインは簡素ながら、力強くおおらかな空間構成には、目を見張るものがある。
その内部は、几帳などの調度品によって仕切られるフレキシビリティー(融通性)に富んだ空間である。また「御格子」と呼ばれる蔀戸をあげれば室内と庭が一体化し、その境界に内と外を隔て、かつ結ぶ「御簾」を掛けると、開放性と閉鎖性が渾然一体となった独自の世界が構成される。そこには明暗、色彩などへの微妙で研ぎ澄まされた感性が息づき、たとえば「螢」巻には、光源氏が蛍の光で玉鬘の顔を照らそうとする演出が見られるが、その印象的な闇と光の世界は、宇宙的ですらある。
平安という遠い昔、これほど洗練された生活空間が、すでに完成されていたことには驚くばかりである。寝殿造りの三次元の建築空間が、人々の生活に深みと輝きを与え、文学や美意識の背景となっていたともいえるのではないだろうか。寝殿造りの建築そのものは、まだ解明されていない部分も多く、今後の発掘調査と研究が待たれるが、今回の復元作業が、1000年の時を超えて、寝殿造りの空間に一歩でも近付く手掛かりとなればと願がっている。
最後に、今回の復元にあたり、全体にわたりご監修戴いた文学博士・玉上琢彌氏、発掘調査に関する貴重な助言を戴いた京都市埋蔵文化財研究所所長・杉山信三氏をはじめ、多くの方々に御礼申し上げたい。 |