古代・出雲大社本殿の復元

復元:大林組プロジェクトチーム
監修:福山敏男(京都府文化財保護審議会委員)
協力:出雲大社、馬庭稔(建築家)

出雲市に鎮座する日本最古の神社"出雲大社"には古来不思議な言い伝えがあった。その本殿が大昔、今の2倍の高さの16丈(48m)あったというのだ。現在の大社本殿の全高は8丈(24m)であるから、その二倍にも達する。しかし、歴史の専門家からは「古代にそんな大きな建物を造ることができたはずがない、単なる伝説にすぎない」と、信じられていなかった。そこで、わたしたちは現代の建築技術者として、そのようなものを本当に建てることができたのか検証に挑戦してみた。

出雲大社へ

わたしたちプロジェクトチームは、わが国固有の建築がどのようなものであったのか知りたいと思ったのである。かつて中国から伝来し、いまも奈良や京都に残る古式寺院より以前の、この列島で育まれていたはずの建物の形がどのようなものであったのか知りたかったのだ。そこで神社建築というものが、旧来の姿を踏襲する性格があることを知った。時代ごとに発展と変容を遂げがちな寺院建築とは異なり、できるだけもとの形態をとどめようとする。そして出雲大社は、7世紀初頭に書かれた『古事記』や『日本書紀』にその出自が記してある唯一の存在で、この神社以前にわが国に神社はない。

いまも壮大な姿

現在の本殿(国宝)は延享元年(1774)の造替時のもので、すでに十分に巨大である。その古拙な建築手法のゆえに、いまなお古代の時空をよく伝えている。同大社の宮司様はいま84代目を数え、平均在位期間を20年と見積もっても1700年ちかくも遡る。初代はまさに4世紀、この国が生まれようとする動乱の真っ只中である。往時この地を支配した大国主命が、高天原からの使者に、最大最高の神殿を建てるかわりにこの国土を譲り渡すことを約すと、8世紀初めに書かれた『古事記』や『日本書紀』にも記されている。その後の史書にも、この大社にまつわる記述は多い。たとえば『口遊』(くちづさみ)970年の書には、建物の大きさ比べをして「雲太 和二 京三」とあり、出雲の大社が一番、ついで大和東大寺の大仏殿、3位が京都平安京の大極殿と注釈してある。東大寺の大仏殿は当時高さ45mというから、さらに高かったことになり、話は合う。

復元する

しかしその姿についてはまったく見当がつかない。傍証となる資料を探して復元するしかない。そこで一つ、直接資料が見つかった。同大社の宮司家に古来伝わる、門外不出とされていた『金輪造営図』だ。墨と朱で描かれた奇妙な平面図である。まず、それぞれの部材があまりに巨大である。いちばん細い側柱の直径さえ3mもある。そして、柱の表現として大きな円弧の中に、接するように3つの小円が描かれている。3本の木を一つに組み合わせ、鉄製の金輪で巻き締めた表現だろう。見たこともない奇妙な描きかたである。さらに驚かされたのが、前面に出ている階段が「引橋一町」と記され、長さが109mもあって、異常な大床の高さとなる。われわれはこれらを第一次資料とするしかなかった。



*ここに神殿立像のグリット図と3本組三柱の想定図、田の字造りの平面図を掲げる

立面を起こす

『金輪造営図』の柱と柱の間が芯々間で六メートルであることから、まずこの6mをグリット(単位寸法)とする方眼マスをつくり、ここに建築の立面や平面を当てはめていく作業にかかった。最下の線が地上面である。ここから8グリット、すなわち48mめがこの建物の最高線として千木の先端とする。



*ここに神殿立像のグリット図と3本組三柱の想定図、田の字造りの平面図を掲げる

壁面は壁高と柱間の縦横の比率を正四角にすることで丁度一グリット相当になる。この下位置が大床になる。さらに下の五グリットが地面までの柱部分であり、同時に階段の高さとなる。すなわち、地面から30mの高みへ真っすぐ階段が昇ることなる。全体のバランスもわるくない。

神殿を支える巨大柱は全部で九本である。そのうち木口の径が記してあるのは側柱だけで、直径三メートルである。他の柱はみな少しずつ太めに描いてある。当惑するような大きさである。当然、古代でもそのような大樹はない。わたしたちは、これを1.8m径の木材三本を束ねて幾本かを継いで組み合わせたものとした。また柱の長さは棟持ち柱2本が各42mに、他の柱七本は各36mである。屋根についても古式に沿って、勾配45度の茅葺き切り妻とした。千木も屋根を形作る通し千木とし、堅魚木も茅を留める大きめのものを五本置いた。なお、正面東側の柱の間に板扉を付けて出入り口とし、そのまま前面の階段に連絡する。特に大きな特徴である階段については、引橋一町と非常に高大な記しかたがしてあり、構造上からみて自立するのか不安である。そこで、梁行きの中間部分に横架材を入れて補強し、階段というより文字通り橋脚の構造を採用した。



*下記を表にして別掲する 古代出雲大社神殿の規
▶全高  一六丈(四八㍍)
▶本屋一辺  四〇尺(一二㍍) 大床幅  柱芯より一丈五尺(四・五㍍)
▶岩根御柱  直径一丈二尺(三・六㍍) 長さ一二丈(三六㍍)
▶棟持ち柱 直径一丈(三㍍) 長さ一四丈(四二㍍)
▶引橋  長さ一町(一〇九㍍/一七〇段)

ロクロのこと;

この本殿に用いられている柱はいずれも超大重量である。最も長い棟持ち柱は、自重195tにもなる。最大の径をもつ岩根御柱は235tと推定した。これらを人力だけで引きあげるには6,000人が必要となる。これは無理である。人数を集めることができても、長さ45mの木材に6,000人が取り付くことは不可能である。 そこで、かつて大重量のものを動かす仕掛けとして、寺院建築などで使用されていたロクロを採用することにした。ここで使用するロクロはやはり超巨大なものとなる。真ん中に立つ芯柱が直径1.5m、これに各15m、直径45cmの腕木を4本装着して、さらに腕木には径7cmの麻ロープを二本ずつとりつける。この腕木と麻ロープを総勢188人で引っ張る。一人あたり40kgの負担として、引っ張る力は95.5tになる。さらに、大綱に角度をつけることで支点を生みだす二又という道具を2組採用する。木材を2本三角状に組み、この又部に大綱を掛けるだけで角度をつけ支点を生み出す。この方法で、重さ235tの岩根御柱を最終引っ張り力95tで立ち上げることができる。



*「ロクロ想定図」を掲げる

*以下の4行を別掲表にしてください。表「建設工程の順序」 ①まず土中に堀立て用の穴を掘る
②掘立て柱を建てる
➂大床をふく
④棟木や桁、梁を揚げて組む
⑤垂木を置いて、縄などで留める
⑥屋根上に破風を設け、先端を交差させ千木とする
⑦屋根を茅で葺く
⑧大棟の上に堅魚木を置いて重しとする――完成

建てる;

着工は、まず一方の棟持ち柱から建てはじめる。都合六本ほどの材木を組み合わせて一本とした巨大柱である。そして、柱が振れないように、八方からトラ綱を張って、徐々にロクロを巻いて柱を立て起こしていく。二又には、第二支点で約90tの荷重となり、ロクロを先述の95tの人力で回せば、この巨大柱は立ち上がっていく。先に立て起こした柱は、以降の立て起こしの邪魔にならぬように柱頭をずらした状態にトラ綱で固定しておく。なお、根入れは浅いため、トラ綱は工事中も張ったままである。

次いで、引橋(階段)の柱を事前に門型に組み上げて準備し、やはりロクロをつかって下部から順に立て起こしていく。完成した引橋は高所への資材の搬入路として利用して、まず大床を張り、引橋と連結する。また、この大床が張られたことで、それぞれの柱も緊結され、ここではじめて全体が安定し、トラ綱を外す。さらに大床を作業台として上に本殿を組み立てていく。総工期は6ヵ年、延べ人員数は126,700人にのぼる。さらに総工事費は、現代の労働条件で試算して121億8600万円という膨大なものとなる。

真実だった伝説;

われわれのこの作業から十数年後に素晴らしいことが起きた。西暦2000年3月末、この境内を調査発掘中だった大社町教育委員会の発掘チームが、地下1.5mのところで、偶然に不思議な木柱痕を掘りあてた。直径1mをこえる大木の柱痕が3本組みになって、径3mにもなる形状を現したのだ。伝説が出土したのである。最初に発見されたのは棟持ち柱で、同年9月には目論見通り岩根御柱の発掘にも成功した。文字通り歴史的大発見であり、すぐに本格的な学術発掘に切り替えられ、今も新しい発見が続いている。

――わたしたちプロジェクトチームは、意匠設計と構造設計と工事計画の三者が工学的にまさしく適合すること、すなわち古代においてもこの神殿の高みが実現可能であったことを明らかにした。『金輪造営図』は確かに実現できるものであった、と。しかし、われわれはこれを歴史として作業したのではなく、建築の世界のひろがりとしてアプローチしたのであり、まず最初に「高さ48mありき」という前提を演繹的に、建築世界の可能性として追求したものである。

  • 現在のページ: 1ページ目
  • 1 / 1

この記事が掲載されている冊子

No.27「出雲」

出雲地方には古代に“何か”があった。その残照の幾つかが今もこの地に伝わる。あの巨大な出雲大社であり、神事や神話の数々であり、とくに1984年夏には荒神谷遺跡から一挙に358本もの銅剣を出土している。その数は、それまでに全国から出土した銅剣の総数(約300本)をたった一箇所でかるく凌駕してしまい、専門家の常識を覆してしまった。
それはあらためて、出雲という土地の不思議をクローズアップさせたものである。いまもこの地は、古来の自然がそこなわれず、神々の時代そのままに宍道湖や、斐伊川、簸川(ひのかわ)平野がひろがり、そして日本海の波頭の上に独特の雲が立つ。本号はそんな“八雲立つ出雲”にスポットライトを当てた。
(1988年発行)

「出雲大社本殿の復元」に想う

福山敏男(京都府文化財保護審議会委員)

OBAYASHI IDEA

古代・出雲大社本殿の復元

復元:大林組プロジェクトチーム
監修:福山敏男(京都府文化財保護審議会委員)
協力:出雲大社、馬庭稔(建築家)

ダイジェストを読む 全編を読む

出雲の神話と古代史

上田正昭(京都大学教授)

情報基地としての出雲

加藤秀俊(放送大学教授)

新出雲人国記

グラビア:出雲遊草

写真:植田正治

「出雲」の文献66