現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設

復元:大林組プロジェクトチーム

仁徳天皇陵の建設――巨大土木工事と国の誕生

かつてこの地球上の各所で、まるで申し合わせたように"巨大さ"を指向した建造物がつくられている。古代の闇が薄れて文明の明るみがさし始めたころ、忽然と巨大な建造物が現れるのである。エジプトのあの大ピラミッドや秦の始皇帝陵、マヤ文明の神殿ピラミッドなどなど枚挙にいとまがない。それは日本でも例外ではなかった。まさに"倭"というこの列島で最初の国が誕生しつつあった動乱の5世紀初めに、第十六代仁徳天皇の陵と伝えられる巨大古墳が築造されている――いったいこれはどうした事態なのか? いまも大阪府堺市の東郊外に濃い緑と濠に囲まれてある巨大"前方後円墳"は世界一の規模とされ、かつては現在よりずっと海に近い小高い丘の上に、海岸に沿うように築かれていたようだ。現在は樹々が生い茂って森のように見えるが、本来は径20cmほどの小石が全体を覆い、前部が方形、後部が円形というきわめて人工的な姿をして、大阪湾を一望し、海上遠くからその姿が認められたはずである。

仁徳天皇陵完成想定図

着工する

現場は、まず敷地全体が整然と打ち込まれた多数の木杭と、引かれた縄や水糸が縦横に張り巡らされた姿となる。その上で、内堀・外堀の周囲に沿って縁取るように溝を巡らす。大規模な土木工事には周到な排水計画が必要だ。地下水位は高く、降雨でも排水が不完全だと、現場は泥田のようになる。

「主要工事の設計数量」

敷地面積478,000m2
伐開除根の範囲368,600m2
陵の主要部の面積外濠44,580m2 内濠131,690m2
中堤65,800m2 墳丘103,410m2
墳丘の規模主軸長475m 前方端幅300m 前方丘高 約27m
後円丘径245m 後円丘高約30m
墳丘の土量1,405,866m3
濠の掘削土量内濠599,000m3 外濠掘削量139,000m3
客土量742,000m3
運搬土量1,998,000m3
葺石数量5,365,000個(14,000t)
埴輪数量約15,000個
仁徳天皇陵平面図(現況)

古代の土木工事で、使用する道具は先端に鉄製の刃を付けたスキにクワ、土砂運搬のためのモッコくらいであった。原始的な道具であり、効率もよくない。そこで、掘削の作業効率も現在の50%(1人1日2m3)として、仕事量を試算した。しかし、この二重の濠で陵全体に要する140万m3もの土を得るには、濠全域にわたって深さ10mも掘る必要がある。ところが10mも掘り下げると多量の地下水が溜り、人間は首まで泥水に浸かって作業することになり、無理だ。これらのことから、5mほど掘り下げるのが現実的だと考えた。これならなんとか地下水を排除しつつ掘削作業もできそうである。しかし、濠部から得ることのできる土量は70万m3ほどで、必要量の約半分である。残りの必要分は近隣からの客土でまかなうこととする。

掘削した土はモッコをつかって2人で一度に60kgを運ぶものとする。現場で降ろされた土砂は、その上を足で踏み固めていく。この方法は、作業能率は原始的ではあるが、きわめてきめ細かい効果があがるものだ。

古代工法により建設中の仁徳天皇陵
内堀掘削の順序図

葺石と埴輪

古墳全体に敷かれた葺石は、斜面保護のために有効である。斜面を風雨による崩壊から防ぎ、植物の生育を妨げる。石津川で採取した小石を、運搬専用の水路を開削して、いかだを曳いて運んだと考えた。小石を集める要員や水路開削に携わる人びともふくめ延べ17万人の作業員が要るが、地上を運ぶ場合に比べ、半数の要員で済む。

古墳にはよく知られるように、埴輪が設置されるが、ここでは墳丘や中堤の上に垣根のように並べられる円筒埴輪とした。当初はベンガラなどで表面が赤く彩色されていたという。

この埴輪の設置が完了すると、後円部の中央に、石棺を納めるための深さ2mほどに竪穴式の石室を構築する。これで仁徳陵の土木工事が完了したことになる。この膨大な土を積み上げた、きわめて人工的な巨大な形に、びっしり表面を小石で葺かれ、陽があたると白く輝き、赤く塗られた埴輪が横列に並び、その姿は相当の見ものであったことだろう。

現場の姿

では、これほどの大仕事にどれだけの員数と日数がかかったのだろうか。

ここでは、1週間に1回休み、1日8時間労働と仮定する。さらに技術者などを指導者とした労務管理がシステム化されていたと考えられる。施工管理の大半は、1日数千人にのぼる大集団を広大な現場で把握・統率していかに効率よく働かせるかにつきる。

全工期と総工費を別添の各表にしたので、ご覧いただきたい。この巨大な土木工事を「もし私たち現代人がいま建設するとしたら?」という関心にこたえるため、建設機械やコンピュータを多用した現代工法で実施した場合の工期と工費もあわせて併記してみた。

古代工法工程表
現代工法工程表
工事費見積

この工事のピーク時には1日に2,000人も作業していた。さらに現場で働く人びとのために、膨大な数のスキやクワなどを作る人員、さらに管理や再生産のためには、集団によるシステムも必要であり、専門技術の指導者なども含めると、ここには総勢3,000人もの人びとが常駐したと想定される。

そればかりではない。この大集団に食事なども支給されなければならない。3,000人に毎日食事を用意する"後備え"には、陵を造る直接の労働力とは別個にほぼ同数の要員が必要である。すなわち、この場所に一時に6,000人もが集中したことにも気付きたい。

時代を回転させる

古代に統一国家が形成される前は、どこの社会でもいくつかの部族集団に分かれ、たがいに戦い争っていたものである。それがいったん統一されると、突然に平和がやってくる。もともと戦争ができたということは、それに消費する余剰が人的にも生産的にもあったということにほかならない。その余剰が、平和になると途端に労働力や生産物として余ってくる。

それが、このような巨大建造物工事に振り向けられたとも考えられる。

もう一つここで考えざるをえないのは、戦いが終わった新しい時代や体制の到来を周知させるには、当時にできることは多くない。あらゆる地域から、あらゆる職掌の人間や物資、多様な習俗が大潮流のようにここに出会い、混交し、人と物と知識が交じり合い続けた一五年余であった。このことは、ほかのどんな方法をもってするよりも強力に、確実に、それまで平面的に分散していた各地域の関係を一つに統合し、いわゆる国家構造へ収斂することを可能にしたはずである。

すなわち、このような巨大工事をともなう大事業は、かつてない範囲から人を集め、長い時間をかけざるをえなかったからこそ、一挙に統一国家へ民衆の意識を大転回させる役割を果たしたと考えられる――それは相対的に巨大であったばかりでなく、時代を大きく回転させるための"装置"として、巨大でなければならなかったのである。

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No.20「王陵」

アジアの東端に位置する日本にかつて、世界でも最大級の規模を有する墳墓がいくつも造営されました。3世紀後半から8世紀初頭にかけて、日本各地に造られた古墳の数は20万基いじょうにのぼるといわれています。それは、日本の黎明期における政権の充実ぶりとともに、土木技術とその技術者集団の水準の高さを物語っています。本郷はその「大土木時代」にスポットライトを当てました。
OBAYASHI IDEAでは、往時の土木技術を検証するとともに現代技術による建設計画にも挑戦してみました。
(1985年発行)

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