よみがえる都市の源流

難波宮(後期)の復元

復元:大林組プロジェクトチーム
監修:澤村仁(九州芸術工科大学教授)
協力:財団法人大阪市文化財協会

大化の改新の時代

いま大阪市中央区の「難波宮史跡公園」の広場に立つと、すぐ近くにまで高層ビルや高速道路が立ち並び、ここにあったとされる古代の都の姿を想像することはむつかしい。しかし、1300年前、確かにここにわが国最初の首都が営まれたのである。――645年6月、中大兄皇子は大和王権を脅かすほど権勢を誇った蘇我氏一族を攻め滅ぼし、自分は皇太子となり、弟の軽皇子を孝徳天皇として即位させ、わが国最初の元号「大化」を定めた。いわゆる"大化の改新"である。元号ばかりでなく、大臣や国博士を定め、各地へ国司を新任し、官制や税制から戸籍や婚姻制度にいたるまで革命のように急速度で発令し、新体制を固めていく。その大化元年12月に、永年の王権の地であった飛鳥を初めて離れ、難波に都を遷すと宣言する。同時代、東アジア一帯は激動の中にあった。大陸では618年、大唐が隋帝国を倒して中国を統一し、さらに北方の強国高句麗を攻める。韓半島でも、百済・倭の連合軍が新羅に攻められ、任那日本府が滅亡した。改新から18年後には白村江の海上戦で、唐・新羅連合軍に百済・倭連合軍が大敗を喫し、百済が滅ぶ。これら混迷を経て、8世紀初頭、倭国は国号を「日本」と改めたとされる。

難波津

このような政情不安に臨機に対応するには、内陸の飛鳥では遅れが生じ、海の玄関口ともいえる難波の津(港)は最適であっただろう。現在の天満川が古代の大和川や淀川に通じ、河内や飛鳥、さらに近江など水運が内陸深くに通じ、それは同時に瀬戸内海から海上運輸が西日本一帯へ連絡できる絶好の場所であった。この津は、早くから百済や新羅、高句麗からの使者が来航する国際港でもあった。そのため、外国使節の応接の役所はじめ高麗館、百済客館、新羅館も置かれていた。また、西日本各地から届く貢物品を納める倉も並んでいた。さらに、蘇我氏や物部氏はじめ豪族や有力寺院も出先機関や別邸を構えている。当然、港湾の業務に携わる人びとをはじめ渡来人など多くの人びともいたはずであり、すでに国際都市の様相を呈し、西日本一帯はもちろん、海外からの先進文化や最新の情報もまずここに到着していた。それが、改新とともに遷都がもたらされた大前提であっただろう。

前期難波宮

ここは古代には海にかこまれた細長い岬の先端であった。岬の東側はなだらかに低地と広い湖沼につながり、大阪湾側の西は崖状に海に落ちていたとされ、いま上町台地と呼ぶ長さ12km、幅2~2.5kmの南北に細長い高台である。白雉2年(651)末、孝徳帝は2,100名の僧尼が一斉に読経を唱えるなか、2700余の灯火を焚いた新京へ入ったと『日本書紀』は伝える。それは、わが国初の都城であり、政治ばかりでなく経済や文化活動の拠点として、計画的に建設されたわが国最初の首都であった。それまでの飛鳥は、王権の地ではあっても、都城にまではいたっていなかった。しかし、この宮殿の首都としての期間は、あまりにも短かった。翌年、孝徳帝と中大兄皇子とが対立し、実権を握る皇子は一統を引き連れてもとの飛鳥へ戻ってしまい、帝は失意のうちに亡くなる。

いま明らかとなりつつあるこの宮址は、建物の柱はみな掘立て柱で屋根瓦も使われていない。もっぱら檜皮葺きか板葺きで、日本古来の建築様式と技術が多用されていた。次いで、天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮を首都とし、同時に難波宮を副都とする。唐が長安を首都とし、洛陽を副都としていたことに倣ったとされる。ところが、その二年後の朱鳥元年(686)正月、大蔵省の建物から火を出し、宮室の大半が焼け落ちた。さらに、9月には天武帝が崩御され、この改新の理想を具現化した建築群はいま「前期難波宮」と呼ばれる。

後期難波宮

全焼したとされる難波宮であるが、その後も持統上皇、文武天皇、元正天皇のおりに、難波宮行幸の記録が残る。しかし、その時代の姿がどういうものであったかはまだ判っていない。宮殿の再建が開始されたのは聖武天皇のときだった。『続日本紀』の神亀3年(726)10月の条に、次なる難波宮の新造営が宣せられたとある。しかし、その都市生命も長くはなかった。聖武天皇は延べ九回もここへ行幸しているから、難波動座を考えていたようだし、一度は実際に遷都の勅宣を出している。しかし、各地へめまぐるしく行幸変転して定まらない。そして762年、ここへ回航されてきた遣唐使船が浅瀬に座礁する。河川からの土砂堆積が、港湾としての機能を失わせるまでになっていたのだ。そして、8世紀末、桓武天皇による平安京遷都によって、難波宮は事実上廃止された。

後期難波宮の想定復元

後期の難波宮は、前期のものと同じ中軸線上に重なるように造営されている。回廊に囲まれた内裏、そして大極院殿の前に朝堂院八堂がそれぞれ左右対称に南へ並ぶ。建物に採用されている基準尺は、いわゆる天平尺(1尺=298mm)が用いられている。また、天皇が日常に居住する内裏には伝統的な技法を用いる一方で、公の場には基壇上に礎石を置き、その上に柱を建てる当時中国から導入されたばかりの最新技法を実現している。屋根もまた瓦葺きであった。

内裏と内裏前殿
天皇の日常の住まいである内裏正殿は、一階建て高床式(床高8尺)で、入母屋屋根に四面庇を持つ。内裏の前殿も、9間×2間の単層高床式に切り妻屋根とした。いずれも掘立て柱による建物で、屋根は檜皮葺きであるが、棟瓦を載せたものとした。

大極殿院と大極殿
大極殿院は国家的な大礼など重要な儀式の場であり、その敷地の中央に天皇が座す大極殿がある。とくに荘重な建物であったと考えられ、東西140尺×南北71尺の基壇の上に建つ礎石建築で、柱間9間×4間の単層寄せ棟屋根と想定した。屋根は瓦葺きで、棟の両端にはシ尾を飾った。

朝堂院と朝集堂院、朝集堂
百官が日常の政務を執るのが朝堂院である。儀式や祭祀をおこなうとともに、外国使節の接待のために舞楽や走り馬などの余興もおこなわれた。東西の両側に4堂ずつ合計8堂が並んでいた。いずれも礎石建築で、屋根は瓦葺きである。東西の各第一堂は親王や左右大臣の座す場であるから入り母屋屋根とし、他の切り妻屋根と区別してみた。また、儀式などの際の待機の場が朝集堂院であり、官人たちが衣服を整える場が朝集堂で、礎石建築の瓦葺き切り妻屋根とした。

門と回廊
南面する門が朱雀門である。北へ続く朝集堂院の南門と同じ規模とし、柱間5間×2間の二階造りの入り母屋屋根とした。また、朝堂院と朝集堂院をへだてた朝堂院南門は楼門とし、大極殿院の入口である閤門は単層の切り妻屋根とした。回廊は、中間仕切りに連子格子窓をもつ複廊、屋根は緩やかな軒反りをもつ瓦葺きである。

基壇
ここでは公の主要建物はみな基壇の上に設置されている。壇上積み基壇といわれる古式の形式で、材質は凝灰岩である。大極殿の基壇については、現在、難波宮史跡公園で原寸大に復元された姿を見ることができる。

その他
地表面の化粧については、朝堂院の内庭を白砂敷きとし、その他は玉砂利敷きとした。なお色彩については、木材部分は内裏を白木、他は丹塗りである。回廊や主要建物の連子格子は青丹に彩色した。主要建物の壁はすべて漆喰白仕上げである。このように朱や青緑の極彩色と白が多用され、往時の中国風の景観を現出していたはずである。

工期と工費

宮殿の建築スケールを把握するために、古代工法と現代工法の工費を算定してみた。工期は神亀3年(726)から天平4年(732)の五年半ほどとされる。まず、着工前の段階で、原木の乾燥や石の切り出し、瓦を焼く登り窯の製作など準備期間が3年ほどあったはずである。なお、ここでいう古代工法とは、ヤリガンナ、刀子、手斧など古代の道具を使って現代の大工や職人が人海戦術で作業するものとし、現代工法は、現代の機械力を投入して施工するものとする。賃金はすべて現代換算である。







――いずれも整地工事を含む。現場には1日平均1,400人、最盛期には2,300人の人が働いていたことになる。さらに現場周辺には大きな集落ができ、職人だけでなくその妻子も同居して様々に手伝っていたと想像される。

わが国最初の首都

この一帯は、高台の好位置であったからであろう、一五世紀末には浄土真宗を率いる蓮如が石山本願寺別院を興して、織田信長と10年以上にわたる攻防を繰り広げた。その後に豊臣秀吉が天下普請により「大坂城」を築き、これが大坂夏の陣で焼け落ち、ふたたび徳川家によりさらに大きな城がつくられた。近代には帝国陸軍の大規模な軍事施設が集中して、大空襲をうけた場所でもある――しかし、確かにここに難波宮が営まれていたのである。それは当初から明確な政治意図のもとに、計画的に実践された最初の都城であった。そこでは新しい制度や新しい精神を共有する人びとで情報や文化が再構成され、新たな価値や意味が付加され再発信されていく。以前と以後を主体的にこれほど明快に分けた体制変換は、日本史上でも珍しい。ここから首都というイメージやそのもたらすものが望まれ、決断され、決定的な方向となっていったのである。これより前に首都はこの国には無かった。以降に次なる藤原京、恭仁京、平城京、長岡京から、ついには平安京へといたる。そして、大阪も以降1300年以上にわたり、それぞれの時代にこの国を代表する稀有の都市でありつづけることになる。

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No.31「難波宮」

古代、大阪は難波(なにわ)といわれていた。現在でも「なにわ」は大阪の別名でもあるが、一般にはそれほど知られてはいない。まして古代の難波がわが国で最も初期の国際都市であり、さらに首都でもあったことを知る人は、まだ少ないようだ。
では、古代の難波はどんな都市であったのか。本号では、わが国最古の都城ともいえる難波に焦点をあて、そのシンボルとしての「難波宮」の誌上復元を通して、大阪の源流を探ってみることとした。
なお、難波宮は686年に全焼するまでの前期と726年に再建された後期に大別される。前期難波宮はさまざまな点をめぐる論争が後を絶たないため、今回は後期難波宮を主眼に置き、前期は一部を列記するに留めた。
(1989年発行)

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