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大林組
源氏物語
 

1. 『源氏物語』と寝殿造り

いづれのおほん時にか、女御更衣(にょうごかうい)あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬ が、すぐれて時めき給ふ、ありけり(玉上琢彌・訳注『源氏物語』「桐壺(きりつぼ)」角川文庫)

この雅やかな書き出しで始まる『源氏物語』は、平安中期の一条天皇の時代、中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)に仕えた女房のひとり、紫式部によって創作されたものといわれている。54帖に及ぶ長編物語は、光源氏を中心とした平安貴族たちが織り成す華やかな人間模様と、その裏面に潜む人間的な相克を描いて、世界的にもつとに名高い。
とりわけ「桐壺」から「幻(まぼろし)」の巻に至るまでの主人公光源氏は、藤原氏全盛の世にあって、王家の血筋を代表する文学的ヒーローとして語り継がれてきた。物語の中で、光源氏を始めとした登場人物たちが示す「ものの感じ方」や「美へのこまやかな意識」は、時代を超えて日本人の感性のひとつの手本とされてきたのである。それはハイテク時代の今日でも、多くの人々の心をとらえて放さない。そうした王朝貴族の感情や美意識のひとつの結晶を、彼らの生活の舞台であった「住まい」にみることができる。
光源氏のような王朝貴族の邸宅を、一般に寝殿造り(しんでんづくり)という。「寝殿」の名称は、『宇津保(うつぼ)物語』にすでにみられるが、これを寝殿造りとして建築的な視点から最初に研究したのは、江戸時代後期の和学者、澤田名垂(さわだなたり)であろう。澤田名垂は、その著『家屋雑考(かおくざっこう)』の中で「寝殿造りといふは、一家一構の内、中央に正殿あり。南面 。其東西もしくは北に対屋(たいのや)といふものあり。正殿は主人常住のところ、対屋は家内眷属(けんぞく)の居るところなり」と定義している。
その後の研究もふまえると、寝殿造りとはおよそ次のような建築ということができる。

(配置)
敷地の周囲を築地塀(つきじべい)(土でつき固めた塀)で囲む。
住居の中心に、南を正面とした寝殿(主人の住まい)を置く。
その東西あるいは北に対屋(家族などの住まい)を設ける。
寝殿と対屋は、渡殿(わたどの)(通路を兼ねた建物)で結ぶ。
寝殿の前は広い庭とし、その先に池と築山(つきやま)を造る。
東西の対屋から池に向かって中門廊(ちゅうもんのろう)(廊下)を延ばし、その途中に中門(玄関)を開く。
中門廊の南端の池畔に、釣殿(つりどの)を造る。
池には、遣水(やりみず)と呼ばれる石組の水路を通して、水を注ぐ。

(寝殿の平面構成)
寝殿は、母屋(もや)を中央にして、その周囲に庇(ひさし)の間(ま)があり、その外側に簀子縁(すのこえん)をもつ形式が基本となる。
庇の間の周囲は蔀戸(しとみど)や御簾(みす)で仕切り、また4隅には妻戸(つまど)(扉)を開く。寝殿内部は隔ての障子のほか、必要に応じて几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)などの室内調度を置き、また簾(すだれ)や壁代(かべしろ)を掛ける。
対屋の構成および使い方は、寝殿に準ずる。

以上が、典型的な寝殿造りの概要とされる。
しかし、典型とはいっても、こうした定義に見合う遺構は実際にはまだ発掘されていない。また、中心となる寝殿や対屋などの建物が、どういう基準で建てられたのか、あるいは基準があったのかどうかすらも判明していない。要するに寝殿造りは、その名称がよく知られているわりには、歴史的にも建築的にも未知の部分が非常に多いのである。

そこで大林組プロジェクトチームは、寝殿造りを知るための手掛かりとして、王朝貴族の生活を描いた『源氏物語』に注目した。紫式部はこの長編物語の中に、実際に寝殿造りの邸宅に暮らした者として、建築的な手掛かりを少なからず書き記している。そこには生きた形の寝殿造りの姿をみることができる。とりわけ光源氏の邸宅は、その白眉(はくび)であり、紫式部がもっとも筆を尽くして描いている建物といえるだろう。
それだけに今回は、とくに紫式部の記述を重視し、その背景を読み取りながら、できるだけ原文内容に則した復元を試みることにした。そのため『源氏物語』解釈では第一人者であり、ご自身も光源氏の邸宅復元に情熱を燃やしておられる大阪女子大学名誉教授玉上琢彌氏に、文学及び有職故実(ゆうそくこじつ)などの面からご監修を載いた。また建築面では、『源氏物語絵巻』をはじめとした絵画や古文献、さらに平安京跡の発掘調査報告などを詳細に検討し、平面のみならず立面を復元することにより、具体的なイメージを提示したいと考えた。それは紫式部の考えたフィクションの世界と、現実に存在したはずの建築の世界とを照応させ、虚実の境界をたどる中から寝殿造りの姿を描き出す試みといえる。

 

 

2. 『源氏物語』にみる光源氏の邸宅

◎光源氏の邸宅(二条院と二条東院)
二条院は近ければ、まだ明うならぬ程におはして、西の対に御車寄せて降り給ふ(若紫)

『源氏物語』の中で、光源氏は、平安京の内に3つの邸宅(二条院(にじょうのいん)、二条東院(にじょうひがしのいん)、六条院(ろくじょうのいん))を持っていたことになっている。
そのひとつ二条院は、光源氏の母、桐壺の更衣(こうい)の里邸であり、光源氏その人もここで生まれたと考えられる。桐壺の更衣が病没した後、やがて光源氏は元服して左大臣の娘、葵(あおい)の上(うえ)と結ばれ、左大臣邸と宮中の桐壺、そして二条院に住んだ。光源氏が若紫(のちの紫(むらさき)の上(うえ))を引き取り、慈しみ育てたのも、この二条院である。
のちに光源氏が須磨に流された折には、紫の上が邸宅を譲られ、また「御法(みのり)」巻で紫の上の終焉の場となったのも、やはり二条院であった。その意味では、二条院は物語の中で重要な建物であるばかりでなく、光源氏と紫の上にとってこの上なく思い出深い邸宅であったといえるだろう。
二条院の建築については、物語の中に「さとの殿は、修理職内匠寮(すりしきたくみづかさ)に宣旨(せんじ)くだりて、になう改め作らせ給ふ。もとのこだち、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく作りののしる」(桐壺)とある。光源氏の父である桐壺帝が、庭もふくめて大幅な増改築を行なわせたのである。また「若紫」巻には、少女時代の紫の上が二条院に引き取られた時、その乳母の描写には、「明け行くままに見わたせば、大殿の造りざま、しつらひざま、さらにも言はず。庭の砂子も玉を重ねたらむやうに見えて、かがやくここちするに・・・」とある。
これらのことから、二条院が風情ある第一級の寝殿造りの邸宅であったことが十分に想像される。
その場所について、玉上氏は、二条通りと洞院通りに面している(賢木(さかき))ことから、この洞院が西の洞院であったとすれば、二条城のそばの、現在の京都国際ホテルの東北筋向い付近と推定されている。平安中期、内裏にも近いこの界隈には、貴族の邸宅が数多く立ち並んでいたのである。

続く二条東院は、光源氏が須磨、明石から戻り、権勢の座に復帰した後、自らの力で建設した邸宅である。光源氏は、ここに花散里(はなちるさと)をはじめ、末摘花(すえつむばな)、空蝉(うつせみ)を住まわせ、あるいは明石の御方(あかしのおんかた)、筑紫の五節(ごせち)をも迎えようと考えた。いわば、ゆかりの女性たちを集めた邸宅だが、中でも桐壺帝の夫人のひとりであった麗景殿の女御の妹にあたる、花散里にこの邸宅を預けている。
二条東院については、「二条の院の、東なる宮、院の御処分(そうぶん)なりしを、二なく、改め作らせ給ふ」(澪標(みおつくし))とあり、二条院の東方にあった父の院の遺産の御殿を、光源氏がこの上なく立派に改築させたものであった。また「松風(まつかぜ)」巻の冒頭には、「西の対、渡殿などかけて、まどころ家司(けいし)など、あるべきさまにし置かせ給ふ。ひんがしの対(たい)は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く作らせ給ひて・・・」とある。対(たい)(対屋)とは、前述したように貴族の夫人や家族の住居棟であり、東・西・北と整っていることから、二条東院もやはり本格的な寝殿造りの邸宅であった。

 
 
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