関東大震災からの復興のうちに迎えた昭和は、早々の同2年(1927)震災手形に端を発した「金融恐慌」を引き起こし、多くの銀行や企業が破綻に陥った。
そのまま不況は慢性化し、次いで同4年(1929)には浜口新内閣による予算縮小、金解禁によりさらに景気後退したところへ、同年秋のニューヨーク株式暴落に始まった「世界恐慌」が日本にも波及、わが国も空前の不況に襲われる。
建設需要も工事が激減し、予算縮小、繰り延べ、あるいは計画中止が相次いだ。
この経済基調とともに、時代は戦火への足音を高めはじめていく。
統制経済の名のもと、建設資材も企業活動も制限される中、遂に同6年(1931)に満州事変、同12年に日華事変へと大陸での戦火を拡大しつづけ、同16年には太平洋戦争を開戦するにいたる。
荒廃した国土の再建を開始した建設業は、朝鮮戦争の特需景気で急速に業容を回復する。続いてビル建設ブームと電源開発のためのダム建設が陸続と始まり、発展の基礎が築かれた。
さらに自動車や放送、石油化学工業、合成繊維工業、家庭用電器など今までになかった産業が興りはじめ、これと並行するように建設業も、新材料と新工法の積極的な導入と業界体制の整備を進展させた。
昭和30年代に入って、「もはや戦後は終わった」の合い言葉のもと、経済は活況な輸出とともに高度成長を始め、建設史上空前といわれる繁栄を迎えた。
当社もその時流の中で、数多くのエポックメイキングともいえる大型工事を土木、建築ともに手がけていき、合わせて経営の近代化をすすめ、わが国を代表する総合建設業として成長していく。
さらに40年代に入ると、社会資本の充実が優先され、公共投資が旺盛な需要を持続し、また原子力発電、情報産業などの新規分野への投資が始まり出し、JV施工の急増、海外工事も軌道に乗り始めるなど、建設業全体に飛躍的な発展と新展開の時代となった。