大林組歴史館

大林義雄

神戸ポートタワー(1963)
 
創業時の「大林店」
 
創業時の「大林店」想像図
 
現場従業員指針
 
対象天皇陵 多摩御陵(1927)

1892-1916

株式会社大林組を設立

大林義雄が二代社長を継承した大正5年(1916)前後は、世情騒然たるものがあった。世界のパラダイムが実質的に20世紀へ移行する折である。1914年以来の第1次世界大戦は戦火を拡大し続け、日本も極東における対ドイツ戦に参戦していた。そしてわが国経済は「大戦景気」に沸き、各種工業が興こり、設備投資の急増は建設業界に繁栄をもたらしていた。その中にあって、創業主をうしなった当社は巷間に危機が伝えられる。時に大林義雄は早稲田大学商科に在学中の齢22歳であった。しかし、社内では、代表社員 伊藤哲郎、女婿 大林賢四郎、学位を持って最初に業界入りをした技師長 岡胤信、創業間もない明治31年入社以来、芳五郎の右腕としてあった白杉亀造はじめ社員一同が一丸となって結束を固め、時代の気運に乗じた。受注工事は、大正5年は前年比200%の300万円で、翌6年もさらに前年比60%増の480万円に達し、好調子で推移する。こうして危機を突破した当社は、社員も200名をこえ、さらなる近代化を目指して同7年(1918)12月1日、合資会社大林組を吸収する形で「株式会社 大林組」を設立する。資本金は50万円であった。

新時代と会社組織

世界の流れを受けて、日本全体が新しく脱皮しようとしていた時代である。当社も次々と新しい企業経営のための新機軸を打ち出していた。芳五郎がつくった人材重用、技術者尊重の伝統は、とくに大林賢四郎と白杉亀造によって引き継がれ、新時代にふさわしい陣容が整えられていった。株式会社設立当初の本社組織は、庶務、会計、現業、製材、設計、そして賢四郎を部長兼務とする営業の6部制であり、この時期の設計部の社内設置は業界では一頭他より先駆けたものであった。またこの当時きわめて珍しい社員持ち株制度を採っているのも目をひく。さらに常時出入りする協力業者による「林友会」もこの頃規約・機構を定めている。社内規定も新規に定められたり、また多く更改されたのもこの時機である。社員援護会、給料支給規程、例規類集改訂、現場会計報告整理心得、会計監査規程、工事費予算統制規程など次々に定められた。役員や技術者たちが毎年のように欧米に派遣され、視察や工事現業の修得も実施されている。まだ旧い業態に留まったままの多くの同業他社から逸早く脱し、近代化が活発に探られていた様子が伺い知れる。

技術/施工部門の刷新

技術陣の最高頭脳として積極的に最新の海外知識を取り入れ、土木担当者に腕をふるわせ、みずからは建築部門を組織化し統括したのが、社長義雄の義兄にあたる大林賢四郎副社長であった。土木・建築両部門における組織と技術の近代化を大きくすすめ、特に昭和10年(1935)に刊行された『現場従業員指針』の編集は、現場の経営近代化に大きな役割を果たした。ポケット版で全2,300ページにわたり、事務経理、建築、設備、電気の4部に分かれ、米国のテーラーシステムを導入したものとされ、工事施工計画のシステム化を図った。巻頭に明記された「良く廉く 速い」の言辞は、三つの戒めの意『三箴』と呼ばれ、今も大林組にとって工事における指針となっている。

『三箴』

良く 「機関設備の完璧と卓越せる技能を緯とし、 誠意懇切の下に最善の努力を経として織り出せる優良工作物の提供を期すること。」
廉く 「優秀なる機械器具の応用、巧妙なる材料の購買、統制せる合理的の作業により実質価値豊富なる工作物の廉価提供を期すること。」
速い「斬新なる工法 と卓越せる計画と 周到なる設備と相俟ち、渾身の能力を発揮して凡ゆる時間的の無駄を排除し、 以って工期の短縮を期すること。」

戦時下で

大正15年(1926)12月、大正天皇が崩御され、年号は昭和と改められた。当社は、先の明治天皇の伏見桃山御陵に次いで、このおりも東京・浅川の多摩御陵の造営と、続く翌年の京都での昭和天皇即位御大典の諸工事も特命された。大林義雄はこの間も、日本土木建築請負業者連合会(全国建設業協会の前身)会長や大阪土木建築業組合の組長を歴任し、直営工事の廃止や建設労働者の災害扶助、同失業防止の法制化に奔走する。 昭和11年(1936)の2・26事件以来表面化しだしたわが国の軍国化が、歩を早めだす中、当社の工事も軍関係施設や軍需産業関連のものが急増し、とくに工事消化量で業界第1位を独走しだす。しかし、軍事制限下にあった日本は、国を挙げて決戦体制に入っていき、陸軍の軍建協力会、海軍の海軍施設協力会の統制下に組み込まれ、建設にかかわる機械や資材、労働力は独占され、一般産業はすべて建設が止まってしまうことになる。その同18年10月5日、かねて静養中であった大林義雄が逝去する。ここに養嗣子の大林芳郎がすべてを相続し、新社長に就任した。しかし、芳郎は応召中で和歌山連隊/中部第二十四連隊に入営しており、日夜二等兵としての軍務の中にいた。


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