日本人と食、農業の歴史

原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)

基本的に、日本の古代国家は、畑地を重視せず水田志向を強めて、コメを財政や経済の基本とする政策を推し進めてきた。そしてコメのために肉食を禁じたことから、動物性タンパクの摂収は魚に求められた。コメと魚に象徴される日本の食文化は、こうした国家的な政策によって形成されたことに留意しておく必要があろう。これを受けて中世には、武士を中心とした水田の開発も盛んに行われるが、現実には畑地や山野河海が食料の獲得に大きな役割を果たしていた。浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞が庶民の肉食を許容したのは、そうした事情によるものであった。

しかし膨大な荘園を擁して、そこからのコメ年貢に依存していた公家や寺社家あるいは高級武家は、ムギ飯には眼をそらすほどで、コメ中心の食生活を当然のこととしていた。これに対して社会の下層では、肉を食したり、雑穀やイモ類などで食を維持していたが、歴史の大勢としては、肉を否定してコメを至上のものとする価値観が浸透していった。農民たちは大唐米・唐法師などというインデイカ種のコメを導入して、干害や水害に対処したり、摘田という直播田や湿性の強い掘上田を造成して、コメの生産力の向上に努めた。中世村落の信仰の核となる宮座の行事にも、コメの祭祀に関わるものが多く、コメ志向は中世を通して社会全体に広まっていった。

神に農作物を捧げる神饌(しんせん)の儀式
(住吉神社山口県下関市)
牛馬など五畜の肉食禁忌令を記した「日本書紀」天武天皇4年4月17日条。肉食を禁ずるほか、猟器具の使用を禁じ、漁労期間を定めたと記されている
(林羅山旧蔵本/国立公文書館)

そうした歴史の流れの結果、戦乱の世が統一された後に登場した江戸幕府は、強力な中央集権国家として、古代律令国家の理念を継承しコメを基本とした経済システムを完成させるべく、石高制社会を成立せしめた。日本全国の耕地の全てを、コメの見積り生産量に換算して把握し、それぞれが所有する石高をもって、大名や農民さらには村の経済力を示す指標とした。つまり加賀百万石といえば、金沢藩前田家の領地を全て合わせて、これをコメに換算すれば、100万石の生産能力を有していたことを意味する。まさにコメは経済の基本となりコメを至上の価値とする社会システムが完成をみたのである。

一方、中世を通じて進行した肉食の否定は、近世に最高潮に達し、肉を食べると口が曲がるとか、眼が見えなくなるとかいう俗信が広まっていった。代わりに、コメは力の源と信じられ、仏舎利や菩薩にたとえられて、その聖性を高めていった。それゆえ大規模な土木工事を伴う新田開発が進行し、水田の著しい増加がみられた。中世までは在村していた武士は家臣団として城下に集住し、農民のみが構成する行政村落が成立し、農業の集約化が進んで、質・量両面で生産力が向上をみた。

ただ享保から延享年間(1716-48)頃と推定される「町歩下組帳」(『大日本租税志』所収)によれば、18世紀前半頃の総田畠面積は、対馬国を欠くが約2,960,552町歩で、うち水田約1,643,447町歩、畠地約1,317,105町歩となっており、水田畠地の1.25倍で、水田がやや上回るに過ぎない(下表)。古代末の平安期に較べると、水田はほぼ2倍近くに増加しているが、これは近世初頭以降の本格的な新田開発によるものと考えられる。地域的には、西国では水田が多いが、東国では畠地が卓越する傾向にある。現実には畠地の方が多い村もあり、近世においても畠地の持つ意味は決して少なくなかった。

江戸中期の国別農地面積・石高(『町歩下組帳』より)

原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)

1949年栃木県生まれ。明治大学文学部卒。同大学院博士後期課程修了。史学博士。札幌大学女子短期大学を経て現職。ウィーン大学日本学研究所、国際日本文化研究センターなどの客員教授を歴任。1989年『江戸の料理史』でサントリー学芸賞を受賞。著書に『歴史のなかの米と肉』『中世村落の景観と生活』『江戸の料理と食生活』(編著)など多数。

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