日本人と食、農業の歴史

原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)

そして明治維新に入ると、西洋文化の流入で食文化や農業の在り方にも大きな変化が訪れた。明治4(1871)年12月、明治天皇は肉食解禁令を出して、天武天皇が禁じた肉を自ら進んで食べることを宣言した。これは欧米との対外外交において、公式の会食で出される西洋料理を食するために、必要不可欠な選択であった。これに対して肉食をけしからんとする意見もあったが、"牛鍋喰わぬは開化せぬ奴"の流行語に象徴されるように、牛鍋人気によって牛肉食が広まった。これを理論的に支えたのは、開明派の福沢諭吉で、牛乳の飲用や西洋料理店の推奨に努めた。

その福沢は論文「農業を論ず」で、日本のコメ生産量は年間3,000万石ほどで、酒や菓子などに500万石くらいは用いられるから、明治初年の人口約3,500万人からすれば、一人1日2合にも満たないと計算している。同じように、森鴎外も『日本兵食論大意』において、ほぼ同様の計算を行い、国民が麦飯・粟飯・豆飯・大根飯などの混ぜ飯を食べているから、何とか間に合いコメの輸入をせずに済んでいるのだと主張している。先にみたように、朝鮮半島よりも稲作技術は進んでいたにも拘わらず、白米だけで3度の食事を賄うことは不可能だったのである。

しかし明治期には、さらなる稲作技術の改良が進んだ。いわゆる明治農法という改良運動でその中心になったのは、先に述べたように、農業に精通し農書を著したような在村知識人層で、彼らは老農・精農と呼ばれた。これに対して明治政府は、西洋文化吸収のために、まずはお雇い外国人を呼んで、それぞれの専門分野で知識の導入に努めたが、とくに農業分野では西洋農法の導入を図り、開拓と農事改良に重点を置いた。とくに北海道は、気候的に西洋に近いため、畑作と酪農を中心とする農業を推進したが、コメ作りに執着した日本人は、自らの努力と工夫によって、それまで不可能とされてきた北海道稲作を可能とし、今日では稲作の最も盛んな一つの地域とまでなっている。

一方、西洋農法は、はじめイギリス人教師が中心となって推し進められたが、彼らは日本の稲作には無知で、イギリス農業を教えるだけで空理空論に陥った指導を行っていた。しかし、その後に来日したドイツ人教師たちは、日本の作物・土壌・肥料を研究し、土質調査を行って、耕耘の浅さ、排水の不良、肥料の少なさなどを指摘した。そして、これに呼応する形で、試験水田でのイネの品種改良やイネの選抜育種を行ったりしたのが、各地の老農たちで、彼らは日本農業と西洋農業との利点を融合すべきことを説き、西洋の理論に日本の現実を適用させ、ドイツ人教師の指摘した欠点を克服すべく、混合農業を実践していった。

こうした農業の近代化は、富国強兵・殖産興業の一環として推し進められ、官営の農事試験場の設置や警官を動員した農事の監視など、上からの農事改良が行われた。このため生産力も向上をみたが、水利問題など旧来の農業共同体の変質を迫るものであった。また馬耕の導入や金肥の使用においても資本投下が必要となるなど、産業的農業への転換を強いるものでもあり、農民層の二極化を招いた。このため地主と小作の格差が拡大し明治末期以降には小作争議も急増した。

さらに欧米を模して帝国主義的政策を採用したが、とくに米騒動を機に、日本農業はコメの国内自給政策を転換させ、新たな活路を海外に求めた。日清・日露戦争の末に、植民地とした朝鮮と台湾では、大正期に産米増殖政策が採られ、水田技術が移出された。また昭和期に入ると、傀儡(かいらい)国家である満州国へは、多数の農業開拓移民が送り込まれ、北海道で得た寒冷地稲作技術を生かして食料増産のための対策が図られた。日本の対外進出には、資本主義的生産のみならず、コメを中心とした農業生産の拡大が伴ったのである。

中国における戦線の拡大は、やがて太平洋戦争を招くところとなり、戦時下において、農業生産と国民食料確保のために、政府は食糧管理の強化を徹底した。しかし食料不足は避けられず、帰国者が相次いだ敗戦後しばらくは深刻な状況に陥った。この敗戦により、占領下で強権によって農地改革が実施され、地主制度が解体されたことから、小作人は零細ながら自作農となり、戦後の農業構造は大きく変化した。ところが昭和30(1955)年頃から高度経済成長が進展するなかで、農家の自立経営を促す農業政策を採ったことも手伝って、零細農民が工業労働力として大量流出するという流れが生じた。

一方、高度経済成長とともに、コメの増産が著しくなり、昭和34(1959)年に、過去最高の1,250万tに達し、その後もほぼ同水準を維持し続けて、同42(1967)年の大豊作では、史上最高の1,445万tを記録している。これによって、やっと日本人は腹一杯コメだけの飯を食べられるようになったが、同時に食生活の西洋化が進み、栄養改善運動が起こって、白米偏重の是正が叫ばれたことから、コメ離れが著しくなった。

戦前まで、1人1石すなわち160kgとされていた米の年間消費量は、ついに昭和61(1985)年に、半分以下の71kgにまで落ち込んだ。これは代わりに、副食物が増えたことを意味し、それまでの焼魚・煮魚・刺身といった魚料理から、卵あるいは鳥・豚・牛といった肉料理へと、比較的カロリーの高い食材が食卓の主役に座るようになった。

その結果、昭和46(1971)年から、稲作転換奨励金を支払うなどの減反政策が実施されたため、水田の休耕化が進んだ。こうした中で、日本社会は、著しい経済発展を遂げ、昭和44(1969)年には、国民総生産が資本主義世界第11位となったが、同時に農業人口は20%を割り込んだ。つまり経済大国ではあっても、農業小国となってしまって、その勢いに拍車がかかり、その結果、現在、日本の食糧自給率は、カロリーベースで39%にすぎず、穀物自給率は28%と極めて低い。

しかしコメに関しては、需要率の低下もあってほぼ100%の自給率を維持している。戦後、食生活の西洋化は著しく進んだが、昭和55(1980)年ころから栄養バランスがよくヘルシーな日本型食生活が注目を集めた。そして平成25(2013)年には和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことから、和食は世界的にも広がりをみせ、西洋料理とのコラボレーションも進んでおり、農産物の対外輸出も増大しつつある。

また基本的に日本の風土気候はコメの栽培に適しているほか 、食文化は保守性が高いことから、われわれにコメ抜きの食生活は考えられないだろう。おそらくコメの消費量自体は今後も減少を続けることはあっても、コメそのものが日本の食文化から消えることはないものと思われる。今後、我が国の食糧自給率を引き上げるとともに、日本と世界の食文化の動向を見据えた農業の多様な展開が求められよう。

原田信男(国士舘大学21世紀アジア学部教授)

1949年栃木県生まれ。明治大学文学部卒。同大学院博士後期課程修了。史学博士。札幌大学女子短期大学を経て現職。ウィーン大学日本学研究所、国際日本文化研究センターなどの客員教授を歴任。1989年『江戸の料理史』でサントリー学芸賞を受賞。著書に『歴史のなかの米と肉』『中世村落の景観と生活』『江戸の料理と食生活』(編著)など多数。

この記事が掲載されている冊子

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