大林組70年略史

1961年に刊行された「大林組70年略史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 明治期

■第一節 創業

創業

大林組は、明治二十五年(一八九二年)一月二十五日現社長芳郎の祖父大林芳五郎によって大阪の地で創立された。芳五郎は、幼名を「由五郎」といゝ、明治三十五年、三十九才の年改名した。又、「大林組」という店名は明治三十七年になってから定められた。

創業当時の芳五郎
創業当時の芳五郎

芳五郎の出生

芳五郎は、大林徳七の三男として、元治元年(一八六四年)九月十四日大阪で生れた。徳七は、大阪靱の永代浜付近で塩及び北海道産干鰯問屋を営み、家号を「大徳」と称した。

大林の家系

かような市井の一商家に、家業と全く異なる土木建築業を興し、よく経営の才を発揮し、二十年にしてたちまち業界に確固とした地盤を築き上げ、今日の大林組の始祖となるような人物が出たことについて、一度その家系をみることゝしよう。

大林家は、元河内国志紀郡の人、林臣海主(延暦十二年〔七九三年〕勅して“朝臣”を賜わった。)を始祖とする林家から芳五郎の父徳七が分家して創設した。林家中興の祖林徳兵衛重則は、淀川過書船の取締、検閲、監視等を役向とする「元締」の役に任ぜられ、御用提灯を用い、帯刀を許され、士分の待遇を受けた。次代重孝を経て重淨がその役向を継いだが、重淨は別に海運業を営み家運を益々隆盛に導いた。正固これを継いだが、これに次ぐ篤固は海運業のほかに干物商を営み、産を成すこと歴代を抜いた。篤祐これを継ぎ、徳助に伝えた。徳助の代に至って海運業を捨て、塩、塩干魚類の販売を専業とした。徳七は、徳助の弟で、前述のとおり分家して大林家を創設し、「大徳」の家号で本家と同じく塩、干鰯類の販売を業とした。

これら先人中、重則、重淨、篤固の三人は人物、器量特に秀れ、豪放の風があり、理財にも長けた。芳五郎の禀性はこれらの先人達から受けたものが多いと思われる。

徳七は、明治六年(一八七三年)芳五郎十歳の春病を得、十月六日六十四歳で没した。問屋大徳は、妻美喜子がこれを継ぎ、経営よく七年に及んだが女性の身の心身の疲労濃く、且つ、市況芳しからず昔日の経営が覚束なくなって深い愛惜のうちに店舗を他に譲り、こゝに大林家最初の家業は始祖夫婦一代を限りとして終止した。

芳五郎の修業

芳五郎は、幼時西村太郎助翁塾及び西大組六番小学校に学んだが同窓に後年大阪財界に名を成した志方勢七、田中市太郎、金沢仁作の諸氏があり、芳五郎はこれらの人士と後年永く相遊交した。

十一才の春、芳五郎は当時の商家の慣習に従って大阪西区の呉服商麹屋又兵衛氏店に修業のため入店させられた。修業六年、十七才にして第三番頭に抜擢された。明治十五年十九才の秋、独立を志し、願い出て麹屋を退いた。又兵衛氏はいたくこれを惜しまれたというが、大林家再興のため独立し更に前途を図ろうとする芳五郎の情熱を止め得なかった。かくして、小売呉服店を自営し一年足らずに及んだが、芳五郎独立の年明治十五年(一八八二年)頃は西南戦争の際の濫発紙幣の整理期で、大阪は深刻な不況が三年に及んでいたこともあり、芳五郎最初の独立営業は失敗に終った。失敗は確かに世上の不況もあったが、芳五郎の性格が、呉服販売業に適しないことによるところが大きかったと思われる。

明治十六年(一八八三年)芳五郎二十才の七月、知人の紹介によって東上、宮内省出入りの請負人{註}砂崎庄次郎氏方に入店した。見習を経て、現場に出、出面、帳付、算盤など今日の現場における庶務会計に属する業務に従事した。

こうして芳五郎の人生航路は大きく転針し、土木建築業に身を置くことゝなった。

砂崎氏の下で修業すること四年に及んだが、この間、宮城西の丸山里地形、二重橋、赤羽・品川間鉄道、皇居御造営等の諸工事に従事、事務のほかに、技術、材料などについても自得するところがあった。明治二十年(一八八七年)秋、砂崎氏の友人水沢新太郎氏が大阪鉄道会社の大阪鉄道工事の一部を請け負うことゝなったのについて同氏から懇望され、砂崎氏方在籍のまゝ同工事に従事した。更に二十一年夏、水沢氏が明治工業会社請負の呉軍港工事の一部を下請施工することゝなったのに際し、再び懇望されて同工事に応援従事したが、しばらくして独立を志し、同年乞うて砂崎氏の許を辞した。

註 砂崎家は、累世宮中作事の御用を勤め、中祖安兵衛氏は又運上奉行角倉氏に随って京都高瀬川開鑿のことにも当った。庄次郎氏の先代安兵衛氏は慶応三年、孝明天皇の御陵工事に奉仕し、庄次郎氏は東京遷都後引き続き宮内省その他各宮家の土木建築の御用を勤め、明治三十年、英昭皇太后の泉山御陵工事に奉仕し、当時業界において由緒ある家の当主として尊敬されていた。又、一面、詩歌俳諧に親しみ、裏千家について茶道を嗜み、又画技に長じられる等風格に富む仁であった。

阿部製紙所工場工事の落札と創業

芳五郎がその志を達し、独立して土木建築業を開業するまでには、しかし、なお前後四年の日子と準備を要した。そして明治二十五年(一八九二年)一月十八日、阿部製紙所工場工事の入札に参加してこれを落札契約した。阿部製紙所は近江出身の大阪の巨商阿部市郎兵衛、同彦太郎、同市太郎、宮川彦一郎の四氏を出資者として明治二十三年五月設立され、出資額二十二万円。工場を大阪府西成郡川北村西野新田(現大阪市此花区西野下之町)に創設した。この時芳五郎が施工したのは工場敷地の地上げ整地工事と、煉瓦造の工場及び石造の倉庫十棟の建築である。

請負金額三万六千円。当時としては相当の工事であった。芳五郎は、その日から七日後の一月二十五日を以て創業の日と定めた。店舗は住居を兼ねて大阪市西区靱南通四丁目六十二番地にこれを構えた。この時芳五郎は二十九才であった。

創業の日を一月十八日としないで、二十五日とした理由は明らかでないが、それは十八日は、六曜上「赤口」、“凶日”、“万事用いず”とされる日であって、二十五日は、「先勝」、“万ず吉”、“物事始むるに吉”とされる日であったからであろう。

創業当時の店舗
創業当時の店舗

創業当時の請負業界

当時の請負業界をみると、清水組(現・清水建設株式会社)が、その録するところによると文化元年(一八〇四年)の創業に係り、明治二十五年(一八九二年)当時既に概ね九十年の歴史を有し、東京のみならず全国数地に支店を設け、業界を圧する鬱然たる大店であった。竹中工務店が慶長年間(一五九六年~一六一四年)、鹿島組(現・鹿島建設株式会社)が天保年間(一八三〇年~一八四三年)、安藤組が明治六年(一八七三年)、大成建設株式会社の前身日本土木会社と銭高組が明治二十年(一八八七年)、間組が明治二十二年(一八八九年)の創業と記されており、これらが既に先輩業者として存していた。

以上のほか当時大阪には、木村音右衛門、橋本料左衛門、八木甚兵衛、大溝傳兵衛、川尻五平、稲葉彌吉等の先輩業者があった。

芳五郎の創業を佐けた人達

創業当時の芳五郎の下にあって、これを佐けた職員、従業員というべき人々については記録がなく明らかでない。極めて小人数と思われるそれらの人々の中で名の残っているのは小原伊三郎、福本源太郎、下里熊次郎等の数人に過ぎない。

こうして大林組は、日本の建設業界に新しく船出したのである。

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