大林組70年略史

1961年に刊行された「大林組70年略史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第三章 昭和期

第二節 終戦以後

昭和二十一年(一九四六年)

終戦の混乱のうちに年が明け、敗戦というものゝ悲惨さが身に泌みて感じられるようになった。終戦以来通貨が異常に膨張し悪性インフレーションの懸念が濃厚となった。二月預金の封鎖、新・旧円の切換えという非常の金融措置が断行された。又、食糧事情の窮迫は愈々深刻となりこの年半ば頃には遂に破局的な段階に達した。

一般産業経済界は極度の不調の中にあったが、建設業界は進駐軍関係工事の受注によってかなりの活況を呈した。しかし、工事代金の回収の遅延や経費の膨張等による資金難に見舞われ、又、食糧難、資材難、輸送難等のことがあって施工の面でも並々ならぬ苦心を要した。

厖大な額に上る戦時補償の処置如何は企業の命運を左右する問題であって終戦以来種々論議されて来たのであるが、十月戦時補償特別措置法の施行によって戦時補償は終戦の日を以て打切りとなった。

これよりさき、八月、会社経理応急措置法が施行され、在外資産や戦時補償の請求権を有する資本金二十万円以上の会社は特別経理会社とされ八月十日現在で会社経理を新旧両勘定に分け、新勘定には事業遂行上必要とする資産だけを、旧勘定にはその他の資産と負債を経理することゝされたのであるが、次いで十月には企業再建整備法が施行され、旧勘定を整理清算する一方新勘定によって企業再建の計画を樹てることゝされた。

当社にあっても、特別経理会社として八月十日臨時に決算を行い新旧勘定を分離し、次いで企業再建整備法に基づいて再建整備計画の作成に着手した。

朝鮮、満洲、北支、台湾、南方々面からの職員の引揚げは既に前年の九月頃から始まっていたが、当社ではこれら引揚職員の帰着港たる山口県の仙崎、長崎県の南風崎等に職員を駐在させて出迎えや救恤にできる限りの努力を払った。引揚げは二十二年八、九月頃に大体終った。

二月、相当数の職員を整理した。これが終戦後の第一次の整理である。やむを得ぬ措置であった。

四月、京都出張所を再開し、六月これを支店に昇格した。又、六月横浜支店を再開した。同月仙台出張所を、十一月に札幌出張所をそれぞれ支店に昇格した。

この年三月の決算において株主配当金は更に四分減じて年五分とした。その後、二十六年九月の決算において年一割の配当を復活するまでは、特別経理会社であった期間及びそれに続く整備計画実行未完了の期間であって、無配当を続けた。

この年受託した工事には神町、木月、岡崎、祝園、金岡、倉敷、岡山、防府等の各兵舎、多賀城、浜寺、岩国、西戸崎等の各家族住宅、三菱本館、如水会館等の改修、矢本飛行場、小月地区工事等の進駐軍関係工事や第一京浜国道修築等の工事がある。なお、この年一月から東京駅の戦災復旧工事が開始され当社に下命された。又、完成した工事には、木月、祝園、第二十一兵器部MM中隊等の各兵舎、琵琶湖ホテル、伊藤萬本館及び別館等の改修、柏原地区工事等の進駐軍関係工事のほか、三菱重工業京都機器製作所機械工場、日産液体燃料若松工場等の工事があった。

十一月、大林組従業員組合が結成された。

昭和二十二年(一九四七年)

わが国の経済は危機的様相を示しつゝこの一年を経過した。既に前年末から「三月危機」と呼んで三月には破局的な段階に達するものと予想されていたのが幸いにそのことなく経過したものゝ、インフレーションは愈々悪性化の徴候を呈し、生産の再開は依然として進展を示さなかった。建設業界は一般に不活潑で、当社の請負工事量は前年よりも減じ、反面経費は愈々膨張して業績は好ましいものでなく経営に非常な苦心を要した。

支店、出張所網の拡充整備も不況対策の一つであって、前年来行われて来たが、三月広島支店を再開、四月高松出張所を開設した。広島支店は既に戦争中から開設していたが前年一月出張所としたのを再び支店としたのである。次いで六月大阪支店を開設した。本店と大阪支店の分離の問題は、懸案の事項として相当以前から考究されていたもので、この時初めて断行された。これは本店の中に含まれていた支店業務を本店から切り離して大阪支店とし、本店はその本来の業務である統轄、指導、監督に専念し得るようにすることが目的であった。

六月、宇高有耳が、八月、日比安平が取締役を辞任、十二月、西澤藤生、田邊信、丸山茂樹が取締役に就任した。

三月、大林組従業員組合と労働協約を締結した。

この年外国貿易実業団宿舎工事(当社が施工した東京住友ビルをホテルに改修する工事)、日東化学八戸工場電解工場、日本発送電佐久発電所放水路工事や真駒内、横浜根岸、京都等の進駐軍工事を受託した。

又、この年神町、岡崎、金岡、倉敷、岡山、防府等の各兵舎、多賀城、本牧、浜寺、西戸崎等の各家族住宅、三菱本館、如水会館等の改修、矢本飛行場、小月地区等の進駐軍工事、第一京浜国道修築、三菱電機大阪工場復旧、神戸製鋼所本社工場復旧等の工事を完成した。

十一月、濱地辰助が入社した。

進駐軍浜寺家族住宅
進駐軍浜寺家族住宅
進駐軍本牧家族住宅コミュニティ
進駐軍本牧家族住宅コミュニティ

昭和二十三年(一九四八年)

この年に入ると日銀公定歩合の引上げ、市中金利の引上げ等強力な金融引締政策が実施され通貨の膨張はやゝ速度をゆるめたが、下半年に入り再び速度を早めインフレーションが進行した。しかし、政府支払の遅延や金融機関の貸出し抑制で金融は枯渇し企業は金詰りに苦しんだ。建設業界ではそれが特に深刻であった。十二月に入ってからマッカーサー元帥の「経済安定九原則」が発表され、これに基づいて政府の金融政策、物価政策が策定されることゝなった。

二月、常務取締役石田信夫、本田登、久保彌太郎、妹尾一夫が辞任した。かねて時勢の推移に鑑み後進に道を開くため辞意を申し出ていたのである。又、監査役久米保衛は停年のため退任した。三月、取締役田邊信、河合貞一郎が常務取締役に就任した。

この間、二月、当社は持株会社整理委員会から過度経済力集中排除法によって「過度の経済力の集中」として指定を受けたが、当社は説明書その他所要の書類を同委員会に提出した結果、同年五月指定を取消された。

かねて作成を急いでいた企業再建整備法に基づく整備計画が完成し十月四日計画認可申請書を提出した。計画は、旧勘定整理による損失は従来の積立金等で補塡しうるので減資や債務切捨をすることなく事業を継続すること、計画認可後一年以内に資本金を五千五百万円増加して七千万円とすること、旧債務は新旧勘定併合後一年以内に返済すること等を概要とするものであって、十一月十五日に至って認可された。

六月、本店東京事務所を東京支店内に開設した。東京における本店の業務を処理することを目的としたものである。十月、岡山出張所を支店に昇格した。

この年、三沢、市ケ谷の進駐軍工事、神戸地方裁判所庁舎、大阪瓦斯酉島工場、倉敷絹織倉敷工場、東洋レーヨン滋賀工場等の復旧工事、日本発送電佐久発電所放水路前庭等の工事を受託し、真駒内、根岸、岩国等の進駐軍家族住宅、三沢モータープール工事等の進駐軍工事、外国貿易実業団宿舎改修、倉敷絹織倉敷工場、近鉄阿倍野店、大阪瓦斯酉島工場等の復旧工事、日東化学八戸工場電解工場、日本発送電佐久発電所放水路及び放水路前庭等の工事を完成した。

進駐軍根岸家族住宅
進駐軍根岸家族住宅

昭和二十四年(一九四九年)

四月、ドッジ政策が強行されインフレーションは漸く収束し経済界は次第に安定するに至ったが、国家財政の緊縮、金融の引締めによって産業界は整理と再編成を余儀なくされるに至った。官公庁、民間を通じて工事の発注が少なく建設業界は稀有の難局に当面した。当社でも再建を図るため相当数の人員を整理するのやむなきに至り九月実行に入った。この問題について組合との間に多少の経緯があり漸く年末に至って解決した。

これよりさき、三月、賃金問題に関し組合との間に紛争を生じたが、四月解決した。

四月二十六日の臨時株主総会で、企業再建整備計画による資本増加を議決した。その大要は、新たに資本金を五千五百万円増加し新資本金を七千万円とすることゝし、額面五十円の株式百十万株を発行してこれを整備計画認可日(昭和二十三年十一月十五日)現在の株主に対しその所有株式一株につき三・六六株の割合で割当てることであった。八月末日の決算において旧勘定の損益計算を完結、九月増資を完了、同時に新旧勘定を合併して当社は特別経理会社を離脱した。

なお、この総会において稲垣皎三、濱地辰助、久野二男が取締役に就任した。

七月、取締役丸山茂樹が辞任した。

八月、建設業法が施行され、十月、当社は同法に基づき建設大臣に登録手続をした。

十一月、定款を改正し株式譲渡の制限を撤廃した。

同月、小田島兵吉、塚本浩、寶来佐市郎、畠山隆三郎、徳永豊次、矢澤貫一が取締役に、武岡四郎、手島政男が監査役に就任した。十二月、西澤藤生、稲垣皎三、濱地辰助が常務取締役に就任した。

十二月、本店東京事務所を廃止した。

この年、佐賀県庁舎、倉敷レイヨン富山工場新築、同西条工場増築、同丸岡工場復旧、新光レイヨン(三菱レイヨン)岐阜工場再建、東洋レーヨン瀬田工場復元、国鉄信濃川発電所余水路溢流池等の工事を受託し、三沢基地格納庫、市ケ谷の進駐軍宿舎、京都及び比叡山の諸施設等の進駐軍関係工事、東京駅、神戸地裁庁舎、阪神競馬場、倉敷レイヨン丸岡工場、東洋レーヨン瀬田工場、同滋賀工場等の復旧工事、松山専売局々舎、片品川護岸、日本発送電佐久発電所防水堤等の工事を完成した。

阪神競馬場
阪神競馬場
倉敷レイヨン丸岡工場
倉敷レイヨン丸岡工場
日本発送電佐久発電所水堤
日本発送電佐久発電所水堤

昭和二十五年(一九五〇年)

年初来デフレ傾向が顕著となり、金融は引続き著しく梗塞したが、各方面で建設工事計画が漸く表面化してきた。六月、朝鮮に動乱が勃発し、所謂新特需が起り一部の産業部門に好転の兆をみるに至り繊維関係産業の拡充計画が具体化して来た。自然工事の発注も増加し、当社の受託工事高も漸く増加するに至った。

二月、経費節減委員会と工事費低減委員会を、五月、技術改善委員会を設けた。

六月、組合と新労働協約を締結した。従来の労働協約を大幅に改正したものであって、その後の協約の基本となっているものである。

九月、社長芳郎は建設業界視察のため渡米、十二月帰朝した。

九月二十七日故大林賢四郎の未亡人、芳郎の実母ふさが死去した。享年五十九歳であった。

この年、福井地方裁判所、永楽ビルディング、新光ビルディング、国際見本市会館、千代田銀行大阪支店増築、大洋漁業東京冷蔵庫増築、東洋紡績浜松工場、大日本紡績大高工場、日清紡績名古屋工場、同富山工場、近江絹絲大垣工場、新光レイヨン大竹工場増築、倉敷レイヨン岡山工場ビニロン製造施設、同西条工場増築、札幌真駒内地区、青森県三沢地区及び神奈川県相模原地区の進駐軍住宅、渡良瀬川足尾砂防堰堤、日本発送電箱島発電所第五工区、米国第五空軍千歳航空基地、同三沢航空基地等の諸工事を受託した。

なお、沖繩の米国極東軍基地強化のため大工事が実施されることになり、既に前年末米軍当局から要請があり、同業十社が現地測量及び設計に協力することゝなり当社からも技術員を提供したが、この年に入って逐次工事が実行に移され初めだ。当社は鹿島建設、竹中工務店と協同し、米国のモリソン・クヌーゼン会社とのジョイント・ベンチュアーの方式で受託した準備工事のうち工事用材料製造工場工事を担当施工した。当社はこの工事に引続き昭和三十年までに同地で多くの軍工事を単独又はジョイントベンチュアー方式で受託施工した。

この年佐賀県庁舎、山口市庁舎、倉敷レイヨン富山工場、同西条工場増築、大日本紡績大高工場、新光レイヨン岐阜工場再建、真駒内地区、三沢地区及び相模原地区の進駐軍住宅工事、米国第五空軍三沢航空基地等の工事を完成した。

山口市庁舎
山口市庁舎
新光レイヨン岐阜工場
新光レイヨン岐阜工場
進駐軍相模原家族住宅
進駐軍相模原家族住宅

昭和二十六年(一九五一年)

朝鮮動乱により活況を呈したわが国産業経済界は、この年動乱の休戦気構えを契機として早くも鈍調に転じ、又輸出の不振もあり下半年には景気が下降した。

終戦以来不振を続けてきた当社の業績は、前年の後半頃から漸く立ち直って来た。企業再建整備も終り六月「整備計画実行完了報告」を提出した。この年九月決算における完成工事高は四十三億円で、純利益三千二百万円を計上、年一割の株主配当をした。昭和二十一年三月以来五年ぶりの配当であった。

三月、大阪支店を廃止し、同支店において処理していた業務は本店において吸収処理することゝした。

七月、沖繩工事に関する臨時の部として本店に沖繩工事部、東京支店に東京沖繩工事部を設けた。

五月、本田登が常務取締役に就任し再び当社の人となった。

十二月、取締役が増員され監査役武岡四郎、同手島政男がこれに就任した。

この年五月十七日皇太后陛下には、にわかに崩御あらせられ、大喪儀に当り御陵所多摩東陵御造営につき当社は工事奉仕の恩命を拝した。当社はさきに伏見桃山御陵、伏見桃山東陵、多摩御陵の御造営工事に奉仕し、無上の栄誉としているのであるが、この恩命を拝し恐懼感激ひたすら自戒精進工事を進め幸いに恙なく大任を果した。

引続き御陵御造営本工事奉仕の特命を拝し、翌二十七年三月、工期に余裕を残して完成した。五月一日山陵竣功奉告祭が執り行われ当社長も参列し、宮内庁から次の感謝状が贈られた。

感謝状

株式会社 大林組

右は貞明皇后多摩東陵の造営を担当し誠実事に当りよくその責任を全うしたことは深く多とするところである。よってここに感謝の意を表する。

昭和二十七年五月一日
宮内庁長官 田島道治

多摩東陵・御斂葬御施設
多摩東陵・御斂葬御施設
多摩東陵・着工報告祭
多摩東陵・着工報告祭

この年受託した主な工事には、日本興業銀行本店増築、東京日本生命館増築、三和銀行京都支店、新阪神ビルディング、大和ビルディング、日綿実業本社、大阪銀行備後町ビルディング、米国大使館員アパート第一期、日東紡績泊工場、富士紡績小坂井工場、呉羽紡績鈴鹿工場、帝国人絹名古屋工場、新光レイヨン名古屋工場、東洋レーヨン瀬田工場増築、大阪瓦斯酉島工場第三期増築、山陽パルプ岩国工場増築、千歳基地軍用上水道、北陸電力伊折発電所、北海道電力然別第二発電所等の工事や沖繩米軍カデナ弾薬庫、ナハ基地将校宿舎等の工事があった。

この年竣功した主な工事には、国際見本市会館、大洋漁業東京冷蔵庫増築、東洋紡績浜松工場、富士紡績小坂井工場、日清紡績名古屋工場、近江絹絲紡績大垣工場、帝国人造絹絲名古屋工場、新光レイヨン名古屋工場、同大竹工場増築、倉敷レイヨン岡山工場ビニロン製造施設、国鉄信濃川発電所、日本発送電築上発電所、米国第五空軍千歳航空基地建設及び千歳地区兵舎等の工事があった。

大洋漁業東京冷蔵庫
大洋漁業東京冷蔵庫
国鉄信濃川発電所余水路
国鉄信濃川発電所余水路

昭和二十七年(一九五二年)

輸出振わず、国内需要又冴えず、一般産業界は前年に比し一層沈滞した。工事の発注も電源開発、パルプ、セメント、鉄鋼等極めて一部の部門を除いて不活潑であった。しかし、当社の業績は引続き向上し、この年三月決算において純利益五千百万円を計上、株主配当金を五分増加して年一割五分とし、九月の決算においては純利益九千九百万円を計上、特別配当三割五分を加え株主配当金を年五割とした。

九月、資本金を八千万円増加して一億五千万円とした。

十一月十八日創業六十年記念式を挙行した。又、同月二十三日、昭和二十年以降中止していた慰霊祭を復活挙行した。

十一月、徳永豊次が常務取締役に就任した。又、取締役岩崎甚太郎、久野二男、矢澤貫一が任期満了により退任、藤井虎男が取締役に、矢澤貫一が監査役に就任した。

この年、朝霞米軍庁舎、米国大使館員アパート第二期、大阪第二船場電話局、神戸銀行大阪支店、関東逓信病院、旭ダウ鈴鹿工場、川崎製鉄千葉製鉄所岸壁、東京電力幸知発電所、佐波川ダム等の工事を受託し、日本興業銀行本店増築、東京日本生命館増築、永楽ビルディング、新光ビルディング、米国大使館員アパート第一期、三和銀行京都支店、大和ビルディング、大阪銀行備後町ビルディング、千代田銀行大阪支店増築、明電舎大崎大型機器工場、日東紡績泊工場増築、トヨタ自動車挙母工場、大阪瓦斯酉島工場第三期増設、日本パルプ米子工場、山陽パルプ岩国工場増築、日本発送電箱島発電所第五工区等の工事を完成した。

明電舎大崎大型機器工場
明電舎大崎大型機器工場
トヨタ自動車挙母工場
トヨタ自動車挙母工場
日本パルプ米子工場
日本パルプ米子工場
大阪瓦斯酉島工場第三期増設
大阪瓦斯酉島工場第三期増設

昭和二十八年(一九五三年)

産業経済界は、世界各国の景気の後退と貿易の不振の影響を受けて前年に引続き低調のうちに推移したが、産業設備の更新拡充の動きがあらわれ、又、電源開発五ヵ年計画がその緒につき、沖繩の米軍工事又盛況であったので建設業界は概して繁忙で、当社の受託工事量は前年を相当上回った。

三月の決算において株主配当金を年二割とした。

四月、宮村次郎が、八月、手島政男が停年により取締役を辞任した。

十一月副社長中村寅之助が退任して相談役となり、常務取締役田邊信が専務取締役に、塚本浩が常務取締役に就任した。

この年の主な受託工事には、羽幌炭砿鉄道大五ビル、鉄道会館・東京駅八重洲本屋、東京放送会館新館、髙島屋東京支店増築、専売公社仙台地方局たばこ工場、明電舎大崎変圧器工場、大東紡織鈴鹿工場第一期、呉羽紡績鈴鹿工場第二期、東京芝浦電気姫路工場THG及びTHK工場、電源開発糠平ダム、東北電力八久和発電所仮堰堤等の工事がある。又、主な完成工事には、福井地方裁判所、朝霞米軍庁舎、米国大使館員アパート第二期、新阪神ビルディング、日綿実業本社、大阪第二船場電話局、大東紡織鈴鹿工場第一期、旭ダウ鈴鹿工場、川崎製鉄千葉製鉄所岸壁、北海道電力然別発電所第二工区、北陸電力伊折発電所、東京電力幸知発電所第四工区、米空軍千歳基地拡張、沖繩米軍カデナ弾薬庫等の工事がある。

大阪第二船場電話局
大阪第二船場電話局

昭和二十九年(一九五四年)

この年も又全般的に緊縮財政の影響を受けて産業経済界は不況沈滞の度を加えつゝ経過、工事の発注も漸減したので工事獲得の競争が激しかった。したがって、当社の受託工事量は前年よりも相当減少した。

九月の決算においては、完成工事高は初めて百億円を超え、純利益又二億円に近く好調であった。

二月、資本金を倍額に増加して三億円とした。

六月、平田昌三が、八月、取締役小田島兵吉と富田哲輔がそれぞれ米国及び欧州へ出張した。

十一月、宮原渉が取締役に就任した。

この年の受託工事の主なものには防衛庁々舎、三和銀行本店、毎日大阪会館北館、蔵前国技館改装、専売公社金沢地方局たばこ倉庫、日本鋼管川崎製鉄所平炉工場、大阪瓦斯舎密工場、関西電力姫路火力発電所第一期、九州電力苅田火力発電所第一期、美和ダム、電源開発芽登発電所第一工区等の工事がある。

この年の完成工事の主なものには、鉄道会館・東京駅八重洲本屋、羽幌炭砿鉄道大五ビル、髙島屋東京支店増築、蔵前国技館改装、神戸銀行大阪支店、近鉄会館、専売公社仙台地方局たばこ工場、明電舎大崎変圧器工場、同品川工場、東京芝浦電気姫路工場THG及びTHK工場、渡良瀬川足尾砂防堰堤、三井金属神岡鉱業所和佐保隧道、沖繩米軍ナハ基地将校宿舎等の工事がある。

羽幌炭砿鉄道大五ビル
羽幌炭砿鉄道大五ビル

昭和三十年(一九五五年)

この年は下半年に入って輸出の振興、産米の未曽有の豊作等のことがあって景気は漸く上昇傾向を辿り、初秋の頃まで減少していた工事の発注もやゝ増加するに至った。

三月の決算においては倍額増資後のことであり株主配当金は五分減じて年一割五分とした。

一月、浪速土地株式会社を設立した。同社は不動産業務と損害保険の代理店業務を営むことを目的とし、資本金一千万円、本店を当社本店内に置いた。

五月、取締役五十嵐芳雄と石井敬造がビルマ国へ出張した。

この年の主な受託工事には、香川県庁舎、伊藤忠商事東京支社、相鉄横浜駅及び西口名品街、日本大学医学部大学院・医学部付属板橋病院、東洋レーヨン名古屋工場第二工場、東京電力千葉火力発電所第一期、関西電力姫路火力発電所第二期、東北電力八久和本堰堤、北陸電力栃尾水力発電所第四工区、防衛庁築城飛行場滑走路等の工事があり、又主な完成工事には三和銀行本店、東京放送会館新館、ラジオ東京テレビ放送局々舎、愛知県文化会館美術館、専売公社金沢地方局たばこ倉庫、帝国人造絹絲松山工場、関西電力姫路火力発電所第一期、九州電力苅田火力発電所第一期、佐波川ダム、筑後川大石堰等の工事がある。

愛知県文化会館美術館
愛知県文化会館美術館

昭和三十一年(一九五六年)

輸出の伸長、内需の盛況、雇用の増大、二年続きの豊作等のため産業経済界は、いわゆる神武景気の活況を呈した。建設業界も戦後初めての好況を迎えた。当社のこの年の受託工事高は前年に比し大巾に増加して三百十四億円となった。

三月、社長芳郎は汎アジア建設業会議出席のためフィリッピン国へ出張、四月帰朝した。同月、大林芳茂が米国へ、石井敬造、中川貞雄がタイ国へ、五月、取締役五十嵐芳雄と浅賀博澄がパキスタン国へ、九月、江口馨、井上忠熊がタイ国へ、十月、常務取締役稲垣皎三と河田明雄、永井久雄が米国及び欧州へそれぞれ出張した。

八月、資本金を倍額に増加して六億円とした。

九月の決算においては完成工事高は再び百億円を上回り、純利益又二億五千万円を超え、株主配当金を年二割に復した。(当社はこの後数次の増資をしたが、株主配当金はこの時以来二割を据置いている。)

十一月、五十嵐芳雄、藤井虎男が常務取締役に、牧毅、石渡雅男、山田直枝、江口馨、嶋道朔郎が取締役に就任、監査役矢澤貫一が任期満了により退任、広田穰太郎が監査役に就任した。

この年の主な受託工事には、三菱商事ビル、千代田電電ビル、東京丸物百貨店・池袋駅東口本屋、相鉄文化会館、ラジオ東京テレビジョン局々舎増築、梅田阪神ビル、新大阪ビル、毎日大阪会館南館等のビル工事、芝浦精糖北見製糖所、川崎製鉄千葉製鉄所冷間圧延工場、日本鋼管川崎製鉄所中径管工場、日本板硝子若松工場増改築等の工場工事、東北電力八戸火力発電所、東京電力千葉火力発電所第二期、東京西新井橋、防衛庁八戸飛行場滑走路等の工事がある。又、この年竣功した主な工事には、電源開発糠平ダム、同芽登発電所元小屋ダムのほか、防衛庁々舎、相鉄横浜駅及び西口名品街、毎日大阪会館北館、関東逓信病院、日本大学医学部大学院・医学部付属板橋病院、専売公社仙台地方局たばこ工場、日本鋼管川崎製鉄所平炉工場、東洋レーヨン名古屋工場第二工場、川崎航空機岐阜製作所組立工場、玉島レイヨン玉島工場、東京地下鉄丸の内線東京工区、防衛庁築城飛行場滑走路等の工事がある。

糠平ダムは、堤高七十六米、堤頂長二百九十米、堤体積四十七万立方米で、わが国最低気温圏における高堰堤として注目されたものであり、昭和二十八年七月以来三ヵ年鋭意施工に当り、この年恙なく完成して電源開発株式会社の負託に応えた次第であった。コンクリートの打設可能期間の少い寒冷地における短期施工の記録を作ったものであり、コンクリート用骨材をすべて現地の原石山から採取した石材を破砕して製造するため、大規模な骨材製造設備を現地に建設したこともわが国で初めてのことであった。又、ダムのみならず水路隧道、発電所建家等発電施設のすべてを受託施工したのであって、種々の意味で意義深い工事であった。

糠平ダム工事
クラッシング・プラント
糠平ダム工事
クラッシング・プラント
糠平ダム工事
大発破による原石採取
糠平ダム工事
大発破による原石採取

昭和三十二年(一九五七年)

この年に入ると、国際収支が悪化し日銀の公定歩合引上げ等一連の金融引締め措置が講じられたゝめ、民間の設備投資は抑制され景気は再び後退した。そして工事の発注も下半年に入って減少したが、当社の受託工事量は、前半年が好調であったので大して減少しなかった。

一月、東京支店を東京都千代田区丸ノ内から中央区新富町三丁目五番地に移転した。

九月、資本金を倍額に増加して十二億円とした。

四月、原子核学術会議出席及び原子核施設視察のため菅田豊重が米国へ、土木工事視察のため取締役江口馨が米国及び欧州へ出張した。

十二月十日、大阪証券市場で当社株式の店頭売買が開始された。社外の株主が増え、当社株式の取引が相当頻繁になっているので公正な価額による円滑な流通を図り、且つ、広く一般から資金を調達するため公開に踏み切ったのである。

この年の受託工事の主なものには、野村證券ビル、日本生命南館、大阪新歌舞伎座、中国電電ビル、航空技術研究所、日本鋼管水江製鉄所熱延工場、東洋レーヨン三島工場紡糸工場及び後処理工場、三菱アセテート富山工場、八幡製鉄戸畑転炉工場、東京電力千葉火力発電所第三期及び第四期、関西電力姫路火力発電所第三期、中国電力坂火力発電所、九州電力苅田火力発電所第二期及び第三期、北陸電力新中地山発電所圧力水路隧道、米国第五空軍三沢基地滑走路拡張等の工事がある。又、完成工事の主なものには、伊藤忠商事東京支社、相鉄文化会館、京都瓦斯ビル、大阪桜橋ビル、住友ビル別館、東京大学医学部付属病院新病棟、大阪難波地下街、芝浦精糖北見製糖所、日本鋼管川崎製鉄所中径管工場、大東紡織鈴鹿工場、大阪瓦斯舎密工場増築、日本板硝子若松工場増改築、東京電力千葉火力発電所第一期及び第二期、関西電力姫路火力発電所第二期、九州電力苅田火力発電所第二期、北陸電力栃尾水力発電所第四工区、東北電力八久和本堰堤、防衛庁八戸飛行場滑走路等の工事がある。

大阪難波地下街(掘削工事中)
大阪難波地下街(掘削工事中)
相鉄文化会館
相鉄文化会館

昭和三十三年(一九五八年)

この年も前年に引続いて景気不振のうちに経過した。いわゆるなべ底景気である。

一月、高松出張所を支店に昇格した。

三月、社長芳郎はアジア及び西部太平洋建設業者団体連盟第一回総会出席のためフィリッピン国へ出張、同月帰朝した。一月、菅田豊重が再度原子力施設調査のため欧州及び米国へ、三月、関口真二が米国及び欧州へ、十月、福田勇雄がドイツ国及びイラク国へ、十一月、間野貞吉、古橋栄三が欧州及び米国へそれぞれ出張した。

五月、株主及び株式取得者の便宜を図り、併せて事務の合理化に資するため、野村證券株式会社を当社の名義書換代理人とした。なお、前年来大阪証券市場で店頭売買が行われて来た当社株式は十二月六日から大阪証券取引所に上場された。

十一月、専務取締役田邊信が副社長に、常務取締役濱地辰助、徳永豊次、五十嵐芳雄が専務取締役に宮原渉、山田直枝、江口馨が常務取締役に就任した。なお、常務取締役河合貞一郎、西澤藤生、藤井虎男、取締役本田登、小田島兵吉、武岡四郎が任期満了により退任、別所武三郎、荒川初雄、栗山丈一、山田新三郎、大林芳茂が取締役に就任した。

この年の主な受託工事には、青森県庁舎、丸ノ内東銀ビル、池袋東武会館、横浜髙島屋、福岡三和ビル、旭化成富士工場、トヨタ自動車元町工場組立塗装工場、大阪瓦斯北港工場、三菱ボンネル広島工場、電源開発十津川第一発電所風屋ダム、関西電力読書第二発電所等の工事がある。又、主な完成工事には、香川県庁舎、中国電電ビル、三菱商事ビル、千代田電電ビル、日本銀行松本支店、梅田阪神ビル、毎日大阪会館南館、新大阪ビル、武田薬品研究所、大阪新歌舞伎座、川崎製鉄千葉製鉄所冷間圧延工場、東洋レーヨン三島工場紡糸工場及び後処理工場、三菱アセテート富山工場、三菱ボンネル広島工場、阪奈道路第二、三工区、東北電力八戸火力発電所、美和ダム等の工事がある。

十二月、武田良一が入社した。

昭和三十四年(一九五九年)

わが国経済は、海外景気の好転に伴う輸出の堅調と旺盛な内需に支えられ、順調な回復過程を経て逐次上昇過程へと推移し、建設業界は非常に繁忙となった。

十月、社長芳郎はアジア及び西部太平洋建設業者団体連盟第二回総会出席のためオーストラリア国へ出張し、同月帰朝した。一月、専務取締役徳永豊次、取締役畠山隆三郎と吉野鉄治、小川伸四郎がウジミナス製鉄所建設工事調査のためブラジル国へ、六月、樫根英郎、石井敬造、松本崇がカンボジア国へ、八月、再び石井敬造がカンボジア国へ、九月、専務取締役五十嵐芳雄が欧米へそれぞれ出張した。

五月、武田良一が取締役に就任した。

九月十五日から東京証券市場で当社株式の店頭売買が開始された。

十二月資本金を倍額に増加して二十四億円とした。

この年受託した主な工事には、新住友ビル、電力ビル、日比谷電電ビル、日本生命日比谷ビル、東京放送会館第二新館、東海銀行本店、都ホテル本館増築、大阪興銀ビル等のビル工事、三菱アセテート富山工場第二期、日本鋼管鶴見製鉄所大径熔接管工場、日本電気玉川事業所第四十工場、研究所及び第五十一工場、旭化成富士工場第二期、トヨタ自動車元町工場ボディプレス工場等の工場工事、九州電力新小倉火力発電所第一期等がある。又、完成した主な工事には野村證券ビル、札幌放送会館、東京放送会館新館増築、東京丸物百貨店・池袋駅東口本屋、横浜髙島屋、日本生命南館、日本鋼管水江製鉄所熱延工場、日本電気玉川事業所第四十工場及び研究所、旭化成富士工場、トヨタ自動車元町工場組立塗装工場、松下電子工業高槻CRT工場、八幡製鉄戸畑転炉工場、東京電力千葉火力発電所第三及び第四期、関西電力姫路火力発電所第三期、中国電力坂火力発電所、九州電力苅田火力発電所第三期等の工事がある。

新住友ビルディング
昭和37年6月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
新住友ビルディング
昭和37年6月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
日本生命保険相互会社日比谷ビル
昭和38年4月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
日本生命保険相互会社日比谷ビル
昭和38年4月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
九州電力株式会社新小倉火力発電所
昭和37年12月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
九州電力株式会社新小倉火力発電所
昭和37年12月竣功予定
(昭和36年6月撮影)

昭和三十五年(一九六〇年)

この年も前年に引続き好況のうちに経過した。民間の設備投資が活潑を極めるとともに、国土の保全、開発、産業基盤の造成等に関する公共事業投資も活潑で、建設業界は繁忙を続けた。工事のスケールが大きくなって来たので大業者は特に繁忙であった。このような情勢下にあって建設業では技能労務者の不足が顕著となって来た。当社のこの年の受託工事高は前年に比し飛躍的に増加して、六百五十億円に達した。三月の決算においては、完成工事高は初めて二百億円を超え、純利益は九億五千万円に達し、九月の決算では完成工事高は百六十七億円、純利益は十三億円を超えた。

六月、社長芳郎は瑞典産業視察使節団の一員として渡欧し、帰途中近東及び東南アジアを視察して七月帰朝した。又、二月、斎藤二郎、鈴木四郎がフィリッピン国へ、同月、常務取締役江口馨と渡辺正三が同じくフィリッピン国へ、四月、常務取締役宮原渉と藤田豊平、新開信之がカンボジア国へ、六月、藤田豊平がカンボジア国へ、十二月、村上勤、小川隆三が同じくカンボジア国へそれぞれ出張した。

十一月、副社長田邊信、取締役牧毅が任期満了により退任し、専務取締役濱地辰助、徳永豊次、五十嵐芳雄が副社長に、常務取締役稲垣皎三、塚本浩が専務取締役に、嶋道朔郎、荒川初雄が常務取締役に、久木力、都丸芳男、府川光之助、河田明雄が取締役に就任した。監査役廣田穰太郎が任期満了により退任し、藤岡忠雄が監査役に就任した。この時工学博士近藤市三郎が取締役に就任し、当社の人となった。

当社株式は六月八日から名古屋証券取引所に、十一月一日から東京証券取引所に上場された。

この年受託した主な工事には、日本生命札幌ビル、太陽生命本社増築、日比谷会館、虎の門電気ビル、相鉄ビル、北陸銀行本店、京都中央郵便局、日本生命本館増築、毎日放送千里丘綜合社屋、東海ビル、朝日麦酒大森工場、東京芝浦電気小向工場第六十二号建家、日本鋼管水江製鉄所冷延工場、日産自動車追浜工場、いすゞ自動車藤沢工場第一期、東海製鉄冷延工場、住友化学名古屋工場電解工場、ダイハツ工業池田第二工場、倉敷レイヨン岡山工場FO工場、八幡製鉄戸畑第二転炉工場、東北電力上郷発電所、天ケ瀬ダム、関西電力姫路火力発電所第四期、九州電力一ツ瀬発電所、戸塚ゴルフ場、愛知用水第九、第十工区、名神高速道路伏見工事、国鉄東海道新幹線大磯二宮間、同大阪駅基礎、堺港埋立第二及び第五区等の工事がある。又完成した主な工事には、青森県庁舎、電力ビル、丸ノ内東銀ビル、東京放送会館第二新館、武蔵野音楽大学コンサートホール、都ホテル本館増築、大阪国際貿易センター、福岡三和ビル、日本鋼管鶴見製鉄所大径熔接管工場、旭化成富士工場第二期、東洋レーヨン岡崎工場製糸工場、三菱アセテート富山工場第二期、トヨタ自動車元町工場ボディプレス工場、大阪瓦斯北港工場、倉敷レイヨン岡山工場FO工場、北陸電力新中地山発電所圧力水路隧道、電源開発十津川第一発電所風屋ダム等の工事がある。

風屋ダムは、堤高百一米、堤頂長三百二十九・五米、堤体積六十万立方米という関西最大の大堰堤で昭和三十三年六月以来専心工事を進めこの年完成した。この間、地勢が峻嶮で人員器材の輸送に甚だしい困難があり、又現地一帯はわが国で稀に見る多雨多湿地帯で気象上の障害もあり、台風による洪水の被害を受けること再度に及ぶ等のことがあったが、よくこれを克服、併せて受託した取水口、水路隧道、水路橋等とともに工期を約一年余して見事に完成したのである。なお、十津川第一発電所は十月一日から発電を開始された。

朝日麦酒株式会社大森工場
昭和37年3月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
朝日麦酒株式会社大森工場
昭和37年3月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
日本生命保険相互会社本館(増築)
昭和37年1月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
日本生命保険相互会社本館(増築)
昭和37年1月竣功予定(
昭和36年6月撮影)
関西電力姫路火力発電所(第四期)
昭和37年7月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
関西電力姫路火力発電所(第四期)
昭和37年7月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
九州電力株式会社一ツ瀬発電所
昭和38年4月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
九州電力株式会社一ツ瀬発電所
昭和38年4月竣功予定
(昭和36年6月撮影)

昭和三十六年(一九六一年)

こうして昭和三十六年当社は創業七十年の意義深い年を迎えたのであるが、この年に入ってから工事の受託は益々増加し業務は更に繁忙を加えつゝある。六月までに受託した主な工事に、国民金融公庫ビル、三菱仲十三号館等増改築、大阪神ビル、新大阪ビル増築、倉敷レイヨン中条工場、東洋レーヨン三島工場第二製糸工場、日本碍子小牧工場、同知多工場、林兼産業大阪工場、新三菱重工業高砂工場、大阪梅田地下街、京阪電鉄淀屋橋延長線淀屋橋北浜三丁目間地下線、関西電力天ケ瀬発電所、名古屋港第二区埋立等の工事がある。又、六月までに完成した主な工事には、日比谷電電ビル、東海銀行本店、日比谷会館、大阪興銀ビル、本町ビル、明電舎沼津工場、関西電力読書第二発電所、東京都西新井橋等の工事がある。

この間三月、資本金を十六億円増加して四十億円とした。又、三月一日から当社の株式は福岡証券取引所に上場された。

五月、専務取締役塚本浩は病気のため専務取締役を辞し、取締役になった。

なお、かねて東京都千代田区神田司町二丁目三番地に新築中であった東京大林ビルが九月竣功し、東京支店を中央区新富町からこゝに移した。

大阪神ビルディング
昭和38年6月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
大阪神ビルディング
昭和38年6月竣功予定
(昭和36年6月撮影)
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