大林組70年略史

1961年に刊行された「大林組70年略史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第一章 明治期

■第二節 創業十年

阿部製紙所工事の顛末

阿部製紙所工場工事については、当時同業者の中には工事の完成を危ぶむ者もあったが、店を開けたばかりの新参であったからそれも強ち無理ともいえまい。しかし、芳五郎は契約の工期内に見事にこれを完成したばかりでなく、施工も優れていて、阿部製紙所の賞讃を得ることができた。芳五郎がこの工事で同所の信任を博し得たことは、五年後の明治三十年五月、この工場が火災により烏有に帰した際、抄紙場、配合場その他の工場建物等十四廉、機罐、機械基礎等十九廉等の復旧工事を受託したことがそれを物語っている。この工事は同年暮完成し、同工場は翌三十一年七月再開された。

明治二十六年(一八九三年)~明治二十八年(一八九五年)

創業の翌年明治二十六年三月朝日紡績株式会社の今宮工場及び倉庫工事を、二十七年十月、金巾製織株式会社の四貫島工場工事を、更に二十八年十一月、大阪硫曹株式会社の工場工事及び大阪府立第二尋常中学校工事を受託した。

朝日紡績株式会社今宮工場工事については、芳五郎は先輩業者の驥尾に付し辛うじて指名に加わり得た有様であったが、無事落札し煉瓦造の工場、倉庫等十八廉、追加工事を加えて請負金額八万三千円の工事を工期に三日の余裕を残して完成した。当時紡績需要が旺盛で、工場の竣功が急がれ、工期について会社側に懸念の空気のあるのを察した芳五郎は、工期に遅延した場合遅延日数一日について一千円の違約金を支払う旨を会社に申し入れた。これに対して、会社側も契約期日よりも早く完成した場合は一日について二千円の褒賞金を贈る旨を約され、結局前述のとおり期日に三日の余裕を残して完成したので、約に従って会社から褒賞金を贈られた。芳五郎は有り難くこれを受け、改めて同社発展の祝として呈上し会社側に大きな感銘を与えたという。三年後の明治二十九年五月、同社は広島県能美島に能美島工場を建設されるに当り、その工事の施工を大林に特命された。朝日紡績株式会社、金巾製織株式会社は、いずれも合併を経て東洋紡績株式会社となり、大阪硫曹株式会社は大日本人造肥料株式会社となった。

阿部製紙所工場
阿部製紙所工場
大阪硫曹株式会社工場
大阪硫曹株式会社工場
朝日紡績株式会社能美島工場
朝日紡績株式会社能美島工場

明治二十九年(一八九六年)

創業の年の明治二十五年から二十七年までの三年間の請負工事は前述のとおり一年各一件、四年目の二十八年には前述の大阪硫曹会社工事と大阪府立第二尋常中学校工事との二件に止まったが、二十九年に入ると讃岐鉄道会社延長線、大和紡績工場、日本刷子工場、朝日紡績能美工場(前述)、近江麻糸紡織、日本絹糸紡績工場、日本繊糸工場、尼ケ崎紡績工場、近江銀行と受注工事の件数は九件に急増し、営業地域も大阪以外の地域に延びた。しかし、「建設業の五十年」(東京建設業協会編、槇書店版)で白杉嘉明三が語っているように「大林の店というのは二十五年に出来た新店ですから、顧客というものがなかった。入札をあさって仕事を貰う以外には特命も指名もありゃしませんから、一万円内外、その時分に三万円といったら相当な仕事ですが、そんなものをさがしていたわけです。」という状況であった。もっとも、この白杉の言には、同業会社幹部数人による座談会におけるものである関係か多少の遠慮があるようである。朝日紡績の能美工場工事が十四万、日本繊糸の工場工事が十五万、その他も大体二万から五万の工事である。又、同書で安藤徳之助氏は特に東京方面での当時の建設業者の気風について「つまり、あの当時の考えなんというのは今考えるとはなはだおかしなもので、非常に気楽に暮していたのだ。だから余り手を拡げる必要もなかった。お顧客さんだけ二つ、三つ守っていれば、余る程だ。……今から考えてみると夢みたいですよ。電話局一つやると一万両くらいになる。一万両あれば一年楽に食って行けるのだ。だからあとは内職でやっているくらいな程度で済むのだ。いかにも呑気で欲もなかったね。年中集まれば呑んだとか食ったとか、面白おかしく世の中を渡っていたのだな。」と語っておられる。大阪ではそうでもなかったようであるが、それでも皆出入りの顧客を持っていて入札には行かなかった。そういう時勢の中にあって芳五郎は敢然として入札に加わり奮闘を続けたのである。

明治三十年(一八九七年)~明治三十一年(一八九八年)

越えて明治三十年に入ると大阪舎密工業会社工場、九州に手を伸ばして九州倉庫会社倉庫、大阪製薬会社工場、阿部製紙所火災復旧(前述)、毛斯綸紡織会社工場等の工事を受託施工し、更に三十一年には大阪府立第三、第四尋常中学校、日本繊糸会社寄宿舎、大日本武徳会京都支部演武場等の工事を受託施工、六月大阪市の大事業である築港工事を受託するに至るのであるが、こゝで一応この間の芳五郎の身辺や、店内の様子をみることゝしたい。

創業の年の明治二十五年(一八九二年)七月、芳五郎は前年迎えた妻ミキとの間に長女ふさを得、翌々二十七年九月長男義雄を、二十九年一月二男永三郎を得た。長女ふさは後大正三年四月福島県人{註}藤泉賢四郎を迎えて分家し「新宅」と称し、長男義雄は芳五郎の没後(大正五年一月二十五日)その後を襲ぎ、二男永三郎は早逝した。母美喜子は、明治二十六年夏以来芳五郎が母のために靱の地に構えた居宅(貸家数軒を控え、人呼んでこれを「大林裏」と称した。)に隠棲していたが、二十七年十月十八日死去した。

明治二十六年六月、伊藤哲郎が入店した。伊藤は阿部製紙所の主席事務員松本行政氏の甥であって、その入店は松本氏が芳五郎の人物を見込んで託するに至ったものとされている。伊藤は当時二十三才。逸材で、後年芳五郎に重用され、これを佐けて功があり、明治四十二年七月、合資会社大林組設立に際し、白杉嘉明三とともに選ばれて無限責任の出資社員となり、且つ業務執行社員とされた。白杉の入店は伊藤に遅れること五年、大林が大阪築港工事を受託する直前の明治三十一年五月で、当時年歯二十二才であった。白杉も又、芳五郎に重用され、合資会社大林組の業務執行社員兼支配人となり、株式会社に改組に際し取締役に列し、常務取締役に任じ、後専務取締役、取締役会長を経て、相談役となり現に在任中であり、入店以来六十年を超え、なお当社のために献身している。

註 藤泉賢四郎は、福島県田村郡三春町藤泉栄の三男として明治十八年(一八八五年)十一月七日生誕。明治四十四年七月東京帝国大学建築学科を卒業し、直ちに合資会社大林組に入社。大正七年十二月株式会社に改組せられるに際し常務取締役に、翌々大正九年十二月副社長に就任、社長義雄を佐けたが、昭和十年三月病を以て没した。享年五十一才であった。
ふさとの間に長男一郎(大正三年四月九日生)、二男芳郎(大正七年四月十七日生)及び長女文子(大正六年四月二十日生)、二女敏子(大正十年六月三十日生)の二男二女をもうけた。二男芳郎は、叔父に当る二代社長義雄の養子となり本家を継ぎ、その後を襲って社長となり現在に至っている。長女文子は大阪府岸和田市岡田惣吉の二男芳茂(大正元年十一月二十日生。昭和十一年四月東京商科大学卒業)を婿養子として迎え分家、「大林」姓を名乗る。芳茂は現に当社取締役企画室長。二女敏子は現鴻池組社長鴻池藤一に嫁した。

白杉入店当時の店の様子について白杉は、「大林芳五郎伝」所載の手記中で、「大阪市靱南通四丁目岡崎橋北詰東へ入る南側に、間口七、八間、表は格子造で事務所風の総二階建の日本家、裏は川に沿うて高塀が繞り、庭前には見越しの松がそばだち、これに煉瓦造の土蔵が列び、広くはないが数奇を凝らした離れの二階が人目を惹いた。新町の九軒(地名)には七百坪ほどの敷地に多数の貸家を新築中であり、本邸の間近には数軒の貸家を構え、経済向も相当余裕あるよう見受けられた。」と語っており、又、職員について「店員は、支配人三村久吾氏を総元締に、副支配人長田桃蔵氏、工務部長に伊藤哲郎氏、京都支店長に小原伊三郎氏、外に長老の下里熊次郎氏や福本源太郎、菱谷宗太郎、関根鉄造、伊丹幸次郎、高田松次郎、吉田剛三、安部貞次郎、高橋清信氏等の敏腕家が、建築、土木、材料、総務等の各方面に配置され、萩真太郎、小原孝平、菱谷常太郎、佃已之助、三上良三の諸氏等将来を嘱目された小店員を合わせて三十五、六名であった。」と語っている。又当時の芳五郎の交友について次のように語っている。「友人知己中当時先主―編者註・芳五郎をいう。―と最も昵懇で常に往来せられた人々は、今西林三郎氏、片山和助氏、佐々木伊兵衛氏、山岡千太郎氏、宗像半之助氏、神戸萬太郎氏、松尾和助氏、土橋芳兵衛氏、顧問工学士鳥井菊助氏、柴田直正氏等で、志方勢七氏及び金沢仁作氏は近隣の先輩として往来があった。」

明治三十一年六月、大林はこの年から大阪市が着手した{註}築港工事の最初の工事―防波堤に使用するコンクリートブロック製造用地(ブロックヤード)の埋立造成工事―の入札に参加し十一万六千円でこれを落札した。この工事は木津川尻の海面二万五千坪を埋立て、用地を築造する工事であって、周囲に「シガラ」を組んで土留としその内域に大和川尻から舟で運んだ土砂を投入する工事であった。時化になると投入土砂が流出し難工事であったが、同年暮無事完成した。

「大阪の土木建築業界を回顧して」(大阪建設業協会編)で、白杉が語るところによると「それ(編者註・ブロックヤード)が出来るとコンクリートのブロックを製作する装置が出来て、盛んにこれを製作したものです。(編者註・「大阪築港誌」によるとコンクリートブロックの製作数は「約六万箇」と記されている。)それが出来、沖にブロックを置くまでの沈床工事として、一個十五貫以上の石材を海の中に投入するわけでありますが、元来築港の本工事というものは部分的には請負もあったが工事は大体直営です。捨石は物品調達で関西石材会社、日本土木会社、杉井組、それから私の方の大林組等の間で随分激甚な落札競争が起ったが、落札価格が安過ぎると納入不良となるので、築港事務所は中途から単価を一定し、調達量の多寡によって懸賞をかける制度を設けた結果、非常に好成績になりました。毎朝未明に数十百艘の石船が入港し、積載量の検量が終ると、ボートで指定の場所まで曳行され搬入石材を投入するのですが、何分海底の泥が深いので、仲々沈床の石材が水面に顕われず、数年がかりで漸く上部にブロックを置くことができるようになったのでありまして、容易ならぬ大事業でありました。その当時ブロックを造る材料の砂利は大林が納めました。各陸上に五十立坪入りの枠を作り、検量を受けて納入したのですが、一立坪五円五十銭乃至六円でした。(中略)石材調達は当初三年程の間は約半ケ年位の納期で公入札でしたが前申しましたとおり過度の競争が起り石船が散逸して調達が不良になりましたので、中途から単価を一定し、納量の多寡に応じて懸賞を付けられることになった。大阪築港は、日露戦争後に予算の関係で縮少され、又仕事も大体一段落となったので私の方も引揚げました。」とある。

かような次第で、大林は、この年―明治三十一年から三十八年までの前後八年の間、大阪築港工事に参加し、上述のブロックヤード造成工事のほかに、築港事務所庁舎、倉庫桟橋等の建設、木材、捨石、間知石、栗石、砂利等の材料調達、人夫供給等を受託し、大阪築港事業に大きく貢献することを得た。工事の最盛期は三十三年から三十八年にかけてであって、全期を通じての大林の請負金の総額は二百万円を超えた。もっとも、大林はこの大工事を決して事なく完成したのではない。明治三十四年三、四月を中心とする国内パニックは大阪においても深刻な様相を示し、銀行の破綻、閉鎖が続き、貿易その他の商社の倒産するものが多く、ために金融が極度に逼迫し大林にあっても工事資金の融通に苦しんでいたところへ、平行して請負施工していた学校建築に莫大な欠損を生じ、万策を尽したが築港工事を継続することが不可能となり返上を決意するのほかない苦境に立ち至った。大林に下された最初の試錬ということができる。芳五郎はこの時大阪市築港事務所当局に対する負託の責に顧み、且つは大阪市民から寄せられた期待に背く苦痛に堪え得ず引退を決意したといわれるが、幸いにこれを知られた築港事務所の西村所長以下幹部当局が、肝胆を砕いて大林救済の策を講じ融資を斡旋され、大林は辛うじて難局を脱し爾後順調に工事を継続し、且つこれを完了することができたのであった。こゝまで大林を援けられたのは、芳五郎が適正価額主義を堅持しつゝ誠実に築港造成事業に精励したことを極めて高く評価され、事業を順調に進めるためには引続き芳五郎をこの事業に関与させる必要があると判断せられたことによるとされている。

註 大阪築港事業は、早く明治五年大阪府権知事渡辺昇氏の時企画され、その後大阪市民有力者の熱烈な促進運動により大阪市の事業として遂行することゝされ、明治二十九年大阪市参事会から政府に起工の許可と国庫の補助を禀請、翌三十年九月着工の許可を受け、大阪市築港工事事務所を開設して事業に着手した。所長は元大阪府知事西村捨三氏が聘され、工事長に第五区土木監督署長工学博士沖野忠雄氏が嘱された。工事長の下に工務課長の職があり、工学博士岡胤信氏がこれに任ぜられた(岡氏は後年〔明治四十二年三月〕当社に入社、取締役となり技師長に任じた。)。工事の概要は、安治川、木津川の両川尻から沖合に向かって二条の防波堤を築設、これによって囲まれた海面中二百万坪を三十尺の深さに浚渫し、その浚渫土砂によって百五十万坪の埋立地を造成するとともに大桟橋と繋船突堤二本を建設しようとするもので、総予算二千万円、国庫補助四百万円、八ケ年の継続事業として計画された大事業であった。

大阪築港工事・犬島採石場
大阪築港工事・犬島採石場
大阪築港工事・ブロック製造用セメント倉庫
大阪築港工事・ブロック製造用セメント倉庫

明治三十二年(一八九九年)~明治三十三年(一九〇〇年)

明治三十一年には大阪築港工事と前述(第七頁)の諸工事のほかに住友銀行広島支店の工事を受託し、三十二年には日本銀行大阪支店、日本繊糸工場復旧、住友本店倉庫の工事のほか大阪府立第二師範学校、滋賀県立師範学校の両工事を受託施工した。三十三年には大阪府立師範学校工事のほか五工事を請負った。この大阪府立師範学校工事は公入札で新聞に公告され、規模からいえば相当の工事であったが、入札に参加した者は大林只一人であったため、他に嘱して辛うじて別の応札者一人を得、競争入札の結果大林が十九万円で落札した。別に築港工事という大工事をかゝえながら、他に参加する者もなかったような公入札にも敢然応札したことは、一面には芳五郎の新進の意気を物語るものであろうが、又一面には、既に触れたように当時既存の請負業者はそれぞれお出入りの顧客を持っており、入札保証金を積んでまで公入札に参加するにも及ぶまいという風潮のあったことを物語るものである。

明治三十四年(一九〇一年)~明治三十六年(一九〇五年)

明治三十四年に入り、八月滋賀県立第二中学校の寄宿舎工事を受託、翌年三月これを完成したのであるが、この間三十四年十一月、大林は創業以来始めて農商務省の指名を受け、翌々年大阪で開催された第五回内国勧業博覧会の会場施設工事の競争入札に参加、これを落札、その後、追加発注される工事を悉く受注、翌々三十六年四月全部の完成をみるまでの間十七ケ月、大林はほとんど店の総力を挙げて工事の施工に従い、請負金の総額は八十万円を超えた。当初の入札について指名を受けたのは清水組、大倉組と大林の三者であって、多少の経緯を経て大林が落札し、爾後ほとんど全工事を受託したのであるが、この工事の受託は大林にとって重要な意義があった。その第一は、大林が先輩同業の多い大阪の業界から唯一の入札参加者として指名されたこと、そして指名者が中央の本省であったことである。創業十年にして大林は遂に儕輩を抜いて大阪随一の建設業者としての折紙をつけられたのである。その第二は、大林はこの入札戦において、先輩であり日本の業界の超一流業者である清水組、大倉組と角逐するに至ったことである。そして何よりも重要なことは、大林が頗る好成績にこの大工事を完成し、郷土大阪市民の期待に応え、且つ広く世上にその実力を顕示するとともに、確固とした営業の基盤を築き得たことである。同業竹中工務店相談役竹中藤右衛門氏はこのことに関し「建設業の五十年」の中で「その時初めてわれわれは俄然として大林組の出現を見た。私はそれまで関係がないものだから知らなかった。あれで非常に大林さん売出しましたね。」と発言、白杉が「そうですね。」と応じている。第五回内国勧業博覧会の会場には当時大阪市の南郊未だ天王寺村と称されていた土地の一角、現在の天王寺公園から新世界にかけての一帯十万四千坪が選ばれた。先ず整地工事を実施、こゝに工業館、機械館、美術館、教育館、林業館、建築及び機械館、農産館、水産館、動物館、水族館、通運館、その他各地方の特別館、陳列場、売店等の諸建物、事務館、郵便電信室、汽罐室等の附属館、噴水塔、イルミネーション等の電気照明設備その他の施設を建設した。もとより博覧会の建物であるから仮設建物ではあるが、芳五郎は用材、構造に最も意を用い秀れたものであった。特に美術館の建物の如き、爾後三十年にわたって大阪市民博物館として使用された。蓋し異例といえよう。

博覧会は、明治三十六年四月華々しく開場され、畏くも明治天皇の行幸を仰いだ。会期四ケ月、悉く大阪市民の人気に投じた。当時の大阪電燈株式会社の取締役技師長木村駒吉氏は、博覧会が夜間開場されたのは、わが国でこれが嚆矢であって、イルミネーションその他の電気照明設備に工夫と苦心があり、電気の博覧会とまで持囃されたが、実はこの大仕掛けな電気工事に予算が全くなく故人(編者註・芳五郎を指す。)のような利害を越えた人によるのでなければできない仕事であったといっておられる。(「大林芳五郎伝」)

十年はこうして過ぎた。大林は、この十年という短い間に遂に営業の基礎を築き上げるとともに、建設業界にその地位を確立したのである。日清戦争後の好況と事業勃興による工場新設の波に乗り、又、一時はその反動によるパニックの大波に抗しつゝ―。

第5回内国勧業博覧会 会場全景
第5回内国勧業博覧会
会場全景
第5回内国勧業博覧会 美術館
第5回内国勧業博覧会
美術館
第5回内国勧業博覧会 台湾館
第5回内国勧業博覧会
台湾館
第5回内国勧業博覧会 参考館
第5回内国勧業博覧会
参考館
OBAYASHI CHRONICLE 1892─2011 / Copyright©. OBAYASHI CORPORATION. All rights reserved.
  
Page Top