第二節 昭和改元まで
大正九年(一九二〇年)
戦後の好況はなお続き各種の企業が勃興したので、前半年は建設業界は殷賑を極めたが、反動は忽ち来て四月に入るや財界に大恐慌が襲来し、銀行、会社を初め諸企業に破綻するものが続出し、一般産業界は萎靡沈衰に陥り、業界も不況となった。そして、工事の発注の多かった前半年においては、材料、労銀の昂騰、後半年においては既約定工事の中止、貯蔵材料の下落、工費回収の困難等により経営に困難が多かった。もっとも、当社のこの年の受託総額は一千三百万円を超え、業績も順調に伸びた。
この年、社長義雄は、建設業視察のため建築部長松本禹象を伴って四月二十九日横浜を出帆、アメリカに渡航した。ニューヨークその他主要地を訪れた後、単身欧州に赴き各地を視察、アメリカを経て十一月十三日横浜着、帰朝した。十二月、加藤登、塚本浩が上海へ出張した。
十二月、松本禹象と植村克己が取締役に就任、野田文敏が監査役に就任した。
この年当社は、鉄道省東京市街線第一工区、同吹田工場、郡山専売支局煙草工場、京都専売支局庁舎、住友銀行川口支店、大阪商船神戸支店、東京電気川崎工場第二十五号建家、森永製菓園田村工場、大阪合同紡績小松島支店工場、第十六師団航空第三大隊飛行場兵舎他、呉海軍兵学校等の工事を受託し、第十二師団野戦重砲兵第五聯隊大隊本部兵舎、兵器庫他、京都専売支局煙草工場、同印刷工場、阪神急行電鉄神戸線第六工区、金華紡織岐阜工場、旭人造絹糸膳所工場、三国紡績豊津工場等の諸工事を完成した。
五月、岩崎甚太郎、十月、寶来佐市郎が入社した。
大正十年(一九二一年)
この年、初めは前年の恐慌の余波を受け財界は容易に衰運を脱せず、一面、入超の勢甚だしく、しかも物価の下落は緩慢で労働争議が相次ぐ等社会情勢は不安を呈していたが、物価の安定に伴い繰り延べられていた工事が順次着手の機運に向うとともに、政府事業や都市計画に伴う建設工事等が実施せられるに至り後半年において繁忙となった。この年の受託工事は一千六百万円を超え前年よりも二割五分を増加した。
六月三十日、株金の第二回の払込として一株について七円五十銭、総額三十万円の払込を徴し、払込済資本金は百五十万円となった。
八月、常務取締役大林賢四郎は建設事業視察のため社員今村三郎を伴って渡米、サンフランシスコ、ニューヨークその他の各地を視察、十二月二十五日帰朝した。
十月東京において鉄道五十年祝典が挙行せられ、社長義雄これに列し、表彰せられた。
三月、神戸市と名古屋市に常設の出張所を開設した。又、かねて大阪市西区(現在大正区)千島町六番地に新築中であった製材部新工場が六月完成し、従来の大阪市西区南境川町から移転した。製材部は次の年「大林組工作所」と改称された。
この年当社は、国勢院庁舎、福井県庁舎、東京中央電話局牛込分局、日本興業銀行本店、日本信託銀行本店、大阪松竹座、日本楽器浜松工場、日清紡績名古屋工場、富山紡績富山工場、鉄道省東京市街線第二、第三工区、阪神電鉄伝法線第三、第四工区、信越電力中津川第二発電所水路、大阪電燈春日出第二発電所等の工事を受託し、住友銀行川口支店、郡山専売支局煙草工場、京都専売支局庁舎、鉄道省吹田工場、同岡山駅機関庫、呉海軍兵学校、大阪合同紡績小松島支店工場、日本電気第九、第十一工場、東京電気川崎工場第二十五号建家、森永製菓園田村工場、阪神急行電鉄今津発電所、鉄道省東京市街線第一工区等の諸工事を完成した。
三月、田邊信が入社した。
大正十一年(一九二二年)
この年は恐慌後の不況期に入り金融の硬塞甚だしく産業界の萎靡はその極に達した。当社のこの年の受託工事量は前年に比し約一割八分を減じた。十月の決算において、株主配当金は会社設立以来据置いていた年二割を五分減じ年一割五分とした。
三月一日、株金の第三回払込として、一株につき十二円五十銭、総額五十万円の払込を徴し、当社の資本金二百万円は全額払込済となった。
この年受託した工事には東京歌舞伎座、住友ビルディング、大阪三品取引所、野田醤油第十七工場、鉄道省山手線第五工区(新宿駅)本屋等の建築工事及び信越電力中津川第一発電所水路、鉄道省東京市街線第三工区(高架橋)等の土木工事があり、又、三月大阪毎日新聞本社が、八月日本信託銀行本店がそれぞれ完成したほか日清紡績名古屋工場、大阪電燈春日出第二発電所等が竣功した。
四月、小田島兵吉、五月、西澤藤生、九月、今林彦太郎が入社した。
大正十二年(一九二三年)
九月一日、関東大震災が起った。死者九万九千、行方不明四万三千、損害百億円とされている未曽有の大災害であった。この災禍によって当社の東京支店は全焼し、東京支店管内の工事現場も僅か四ケ所を残して全滅した。しかし、社員もその家族も幸いに無事であった。支店は直ちに工事中の歌舞伎座の工事場内に仮事務所を設置した。又、本店では早くも翌日の二日から救援その他の応急活動を開始した。すなわち二日シカゴ丸、三日ハルピン丸、四日華山丸というように海路を利用しての連絡を開始、多数の職員を派遣するとともに医療品、食糧品、資材類を急送した。白杉常務取締役は早くも四日の華山丸便で東上した。勝部嘱託医以下救護班員八名や社員が同行した。又、社長義雄も六日チャーター船玄海丸で多数職員とともに芝浦に向うという風であった。
白杉一行は翌々六日着京、直ちに指揮活動に入り、同行の救護班は支店の仮事務所である歌舞伎座工事場に本拠を置き、上野公園に救護所を開設して、同月十五日まで一般の人々の教護治療に当った。当社はこの大災害に際して資材類の輸送等のため汽船住ノ尾丸等を購入したが、そのほかに汽船玄海丸、越洋丸、東華丸、第十大運丸、三福丸、海正丸、六甲丸等の諸船をチャーターして大いに活用した。
当社は大阪府及び関西六県が連合して寄付した東京及び横浜の罹災者収容所、応急病院、救護事務所及び東京市営罹災者収容所の建設を受託し僅々一ケ月でこれを完成したほか、官庁、銀行、商店、学校、工場等の仮建築十万余坪や多数の道路、橋梁工事を受託施工した。又、丸ノ内ビルディングの補強修繕工事をも施工した。こうして震災善後の応急処理体制は概ね次の年の十三年の三月まで続き関係者は年内ずつとこれに忙殺された。その間、社長義雄、常務取締役大林賢四郎、常務取締役白杉が屢々大阪、東京間を往復したが、白杉が最も多く往来し劇務に当った。この間にあっても当社は全国的に工事を受託施工しつゝあるのであるから、それらの工事に渋滞を生じさせないよう慎重に配慮されたことはいうまでもない。当社はこの年福井県庁舎、福岡市庁舎、大阪中央電話局難波分局、大阪松竹座、大阪三品取引所、日清生命大阪支店、住友銀行道頓堀支店、大阪船場小学校、大阪久宝小学校、大日本紡績郡山工場、日本楽器浜松工場、鐘淵紡績岐阜製糸工場、富士瓦斯紡中津工場、名古屋市第一号線記念橋等の工事をそれぞれ予定のとおり完成したのである。又、兵庫県港務部庁舎、鴻池銀行本店、住友銀行名古屋支店、日本麦酒鉱泉東京工場、日本電力尼崎発電所、鉄道省東京市街線第五、第六工区橋梁、同山手線第五工区地下道等の諸工事をこの年受託した。
なお、震災で焼失した東京支店の営業所の代りに「麹町区永楽町一丁目一番地」に仮営業所を新築、十一月六日支店をこれに移した。十二月一日横浜出張所を開設した。この大震災において当社がわが意を得たことの一つは、さきに施工した東京駅、この年六月完成をみたばかりの日本興業銀行本店や工事中の歌舞伎座に些かの損傷もなく、当社の施工の堅実さを最も如実に証明し得たことであった。
四月、畠山隆三郎が、十月、武岡四郎が入社した。
大正十三年(一九二四年)
大震災で受けた損害は甚大であり、貿易又入超続きで、産業界は依然不振の域を脱しなかった。建設業界は震災直後の応急工事、これに続く修補、再築、新築等の工事で繁忙を呈し、地方でも耐震耐火建築が要望せられ相当の工事の起工をみたが、政府事業の中止、繰延が多く受注競争は激しかった。
当社では震災善後のための応急体制はこの年三月概ねこれを解いた。
四月臨時株主総会を開き資本金を三百万円増加して五百万円とし、新株一株につき二十円、総額百二十万円の払込を徴することを決定、五月四日払込を了し、六月四日資本増加の登記をした。これによって当社の払込済資本金の額は三百二十万円となった。
又、業務の発展によって本店建物が狭隘となったので、大日本人造肥料株式会社所有の隣地を買収し、旧建物を撤去し新築工事を行い、その間一時本店を他に移すことゝなり五月大阪市西区江戸堀上通一丁目二十五番地所在の日本海上ビルに移した。このビルは当社の施工によって前々年の十一年五月完成したものである。
二月、大西源次郎、伊藤義弘が米国へ出張した。
十二月、新たに副社長制が定められ、大林賢四郎がこれに就任、又、松本禹象と植村克己が常務取締役に就任し、常務取締役は白杉、松本、植村の三人になった。監査役野田文敏は任期満了により退任、加藤芳太郎が就任し、監査役は大林亀松、加藤の二人になった。
この年当社は大阪ビルディング、江商ビルディング、三菱仲二十八号館、東京府美術館、東京帝国大学工学部応用化学教室、横浜生糸検査所、岸和田紡績津工場、愛知電鉄、飯山鉄道、新京阪鉄道天神橋新淀川間高架線等の工事を受託し、鴻池銀行本店、住友銀行名古屋支店、萬歳ビルディング、野田醤油第十七工場、甲子園野球場、明治神宮外苑競技場、信越電力中津川発電所等の諸工事を完成した。東京歌舞伎座もこの年十二月竣功した。
三月、酒井彌三郎が、四月、久米保衛、五十嵐芳雄が、六月、徳永豊次が、九月、松井清足が入社した。
大正十四年(一九二五年)
政府の緊縮政策、銀行の貸出抑制、引続く貿易の入超等により産業界は沈衰状態を続けた。その上関東方面の復興意のように捗らず、政府事業も引締められ、建設業界は依然として競争が激しかった。
二月横浜出張所を横浜市山下町から太田町二丁目四十番地十五ビル内に移し、五月これを支店とした。七月名古屋出張所を名古屋市中区丸太町から中区新柳町六丁目三番ノ一住友ビル内に移し、支店とした。この支店新設によって当社の支店は東京、横浜、名古屋、小倉の四支店となった。
四月、久保彌太郎が欧米へ出張した。
十二月、松井清足が取締役に就任した。
この年に受託決定した工事に東京中央電話局、大阪中央電信局、大阪府庁舎、東京帝国大学図書館、日本銀行神戸支店、時事新報社(岸本ビル)、順天堂病院、先斗町歌舞練場、大阪新京阪ビル、大軌ビル、大阪灘万総本店(灘万ビル)、日本勧業銀行大阪支店、宝塚ホテル、大丸呉服店神戸店、日本セメント佐伯工場、飯山鉄道第四期、大阪堂島大橋、広島電気江ノ川熊見発電所、東津水利組合貯水堰堤等の工事があり、三菱仲二十八号館、東京帝国大学工学部応用化学教室、大阪ビルディング、兵庫県港務部庁舎、日本毛織名古屋工場、岸和田紡津工場、和泉紡忠岡工場、東京八重洲橋、飯山鉄道第三期、新京阪鉄道天神橋新淀川間高架線等の工事を完成した。
四月稲垣皎三、牧毅、別所武三郎、荒川初雄、宮村次郎が、十一月、廣田穰太郎が入社した。
大正十五年(一九二六年)
わが国経済は未だ不振の域を脱しなかったが、国際収支の改善、物価の漸落、金融の緩和等により産業界は漸く生気をとりもどした。建設業界においても人絹工業の勃興による工場の新設、鉄道・電気事業関係の工事、都市計画に伴う道路橋梁工事等が実施されたゝめ順調な回復過程を辿った。
二月、東京支店を麹町区永楽町一丁目一番地の震災後の仮事務所から同町二丁目一番地三菱仲二十八号館に移した。この建物は前年当社の施工で竣功したものである。この事務所は昭和三十二年一月、中央区新富町の仮事務所に移転するまで三十二年の長きにわたった。
この年五月二日午前七時、社長義雄の母、初代店主芳五郎妻ミキが死亡、六日午後一時から大阪四天王寺本坊で葬儀を執行した。葬儀は京都知恩院門跡代理岩井智海僧正を導師に、菩提寺龍淵寺住職河原秀孝師以下十一ケ寺諷韻により執行、会葬三千余、弔詞弔電五百余、供花百八十余に及び盛儀であった。当日本店は業務を休止して弔意を表し、支店、工事現場等では午後二時を期して遥拝した。
前々年五月以来新築工事を進めていた本店建物が竣功したので、六月二十五日江戸堀の日本海上ビルの仮事務所から復帰した。
九月、取締役技師長岡胤信が辞任し顧問に就任、工学博士直木倫太郎が取締役技師長に就任して当社の人となった。
十一月、鈴木甫、小田島兵吉が米国へ出張した。
この年、神奈川県庁舎、八重洲ビル、高麗橋野村ビル、東洋レーヨン滋賀工場、日本麦酒鉱泉西宮工場、鉄道省東京市街線第八工区、神岡水力高原川第四発電所、宇治川電気木津川発電所、阪神国道佐門殿川橋梁等の工事を受託し、東京府美術館、大阪府庁舎、横浜生糸検査所、時事新報社(岸本ビル)、住友ビル、江商ビル、灘万ビル、大阪新京阪ビル、大軌ビル、日本勧業銀行大阪支店、宝塚ホテル、順天堂病院、住友伸銅所製板工場及び管棒工場、帝国人造絹絲岩国工場、広島電気坂発電所、阪神急行電鉄新淀川橋梁、同西宮今津間線路、阪神国道西成大橋等の工事を完成した。
十二月二十五日大正天皇崩御あらせられ、「昭和」に改元された。
四月、久野二男、藤井虎男が、十二月、上草直清が入社した。