大林組70年略史

1961年に刊行された「大林組70年略史」を電子化して収録しています。
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第三章 昭和期

第一節 終戦まで

昭和元年(一九二六年)

大正天皇御斂葬の御儀執り行わせられるにつき、十二月二十七日、多摩山陵及び東浅川仮駅新設工事を当社に仰せつけられた。さきの明治天皇の伏見桃山御陵工事、昭憲皇太后の伏見桃山東陵工事に次いで、この度は三度目の大命である。恐懼感激、直ちに現地の東京府南多摩郡横山村字下長房に事務所を設置し、昼夜兼行奉仕に挺身、恙なく大任を果した。

多摩御陵玄宮
多摩御陵玄宮
東浅川仮駅
東浅川仮駅
多摩御陵御造営工事
多摩御陵御造営工事

昭和二年(一九二七年)

明けて昭和二年二月八日多摩御陵御斂葬の御儀執り行わせられ、社長義雄は特に玄宮奉仕の恩命に浴した。九日山陵翌日祭が執り行わせられ、翌々十一日大喪使事務官宮内技師森泰治氏から次の感謝状を贈られた。

謹啓

今般多摩御陵墓構築工事滞リ無ク竣功シ無事御式取行ワレ工事関係者一同其奉仕ヲ完ウシ得タル事ハ共ニ御同慶ノ至リニ候処去二月九日山陵翌日祭ニ聖上陛下御参拝ノ傍ラ特別ノ思召ニヨリ小官ニ拝謁ノ光栄ヲ賜ヒタルハ全ク工事関係者一同ノ労苦ヲ御思召サレタル大御心ト拝察シ感泣ニ堪ヘス単ニ小官一個ノ光栄タルニ止ラス以テ広ク工事関係者全員ノ光栄トス可ク特ニ御陵墓工事ノ大部分ヲ担当致サレタル貴組ノ光栄最モ大ナリト存候願クハ此ノ聖恩無窮庶民ニ及フ有難キ大御心ノ程ヲ関係全員ニ周知セシメラレ向後益邦家ノ為ニ精励スルノ資ト致サレ度候

四月十二日大喪使からも次の感謝状を贈られた。

大正天皇大喪儀ノ際山陵及東浅川仮駅新設工事ニ関シ急速且遺憾ナク其工事ヲ竣功セシメタルハ特ニ奉公ノ念慮篤キノ致ス所トス仍テ謝意ヲ表ス

当社は引続き多摩御陵御造営本工事の御用を仰せつけられ只管工を進め、この年十二月滞りなく大任を全うした。

四月二十日神戸、京都に営業所を開設した。京都にはそれまで常設の出張所が置かれていたのを営業所に改めたのである。

七月、新株式一株につき十円の払込を徴し、当社の払込済資本金の額は三百八十万円となった。

十二月、常務取締役松本禹象が任期満了により退任し監査役に就任、鈴木甫が取締役に就任した。

この年上半年において我が国金融界は未曽有の大混乱に陥り、銀行商社の休業破綻するもの続出、人心の不安その極に達したが、支払猶予令その他の財界安定策が講じられ漸く平静に復した。建設業界もこの影響を受け不振であった。

この年当社は、簡易保険局庁舎、九州帝国大学医学部付属病院、住友ビル増築、東神倉庫東京箱崎町倉庫、倉敷絹織倉敷工場、大日本人造肥料富山工場、東京地下鉄万世橋上野間地下線、省線三宮神戸間高架線、奈良電鉄本線及び伏見線、阪和電鉄天王寺田辺間線路、岐阜電力金山発電所等の工事を受託し、大阪府庁舎、東京中央電話局、大阪中央電信局、京都先斗町歌舞練場、東洋レーヨン滋賀工場、日本麦酒鉱泉西宮工場、日本電力尼崎発電所、宇治川電気木津川発電所等の工事を完成した。

四月、宮原渉、山田直枝、矢澤貫一、手島政男が入社した。

昭和三年(一九二八年)

十一月、今上天皇の御即位大典が京都御所において執り行わせられることになり、三月御儀御供用の京都御苑饗宴場、第一朝集所、第二朝集所等の諸工事を当社に仰せつけられた。当社は謹んで御奉仕申し上げ十月恙なく大任を全うした。

前年の金融界の大恐慌により痛手を受けたわが国経済は、逐次整理改善が進み、政府の特別融資もあって、この年下半年には漸次安定に向うかに見えた。かゝる状態を反映して、公共関係工事や都市計画に伴う工事が少なからず実施されたが、業界の競争又激甚であった。

当社はこの年から株主配当金を年一割二分に減じた。

この年は東京野村ビル、東京博物館(現国立科学博物館)、徳島県庁舎、名古屋市公会堂、東京劇場、三井銀行川口支店等の建築工事、参宮急行電鉄青山隧道、新京阪鉄道第八、九工区高架線、東京白鬚橋、桜の宮大橋等の土木工事を受託し、八重洲ビル、東京帝大図書館、神奈川県庁舎、東神倉庫東京箱崎町倉庫、東洋レーヨン滋賀工場拡張等の建築工事、鉄道省東京市街線第八工区、神岡水力高原川水力発電所、奈良電鉄本線及び伏見線、東京地下鉄万世橋上野間地下線等の土木工事を完成した。

四月、石渡雅男、都丸芳男、府川光之助、久木力が入社した。

饗宴場棟木搬入
饗宴場棟木搬入

昭和四年(一九二九年)

前年回復に向うかに見えたわが国経済は、七月成立の浜口内閣による緊縮財政の実施と金輸出解禁政策の提唱によって一時動揺したが、海外貿易の好転と物価の低落によって不振の中にも平静を保った。業界も緊縮政策の影響で下半年から不振となった。

三月、新株式一株につき十円の払込を徴し当社の払込済資本金の額は四百四十万円となった。

七月三日、東久邇宮稔彦王殿下には京阪神地方商工業御視察に際し当社工作所を御視察遊ばされた。

七月、吉井長七、伊藤公顕が米国へ出張した。

この年受託した工事は、日本銀行新館、新潟県庁舎、宮城県庁舎、米国大使館、常盤生命本社、三信ビル、南海ビル、日本劇場、大阪駅高架橋及び乗降場、新京阪鉄道京都地下線、鉄道省東京汽力発電所、日本電力東京火力発電所等で、完成したものは大阪鉄道病院、大日本人造肥料富山工場、省線三宮神戸間高架線、阪和電鉄天王寺田辺間線路、阪神電鉄大石住吉間高架線、桜の宮大橋、岐阜電力金山発電所等であった。

四月、栗山丈一、江口馨が入社した。

岐阜電力金山発電所
岐阜電力金山発電所

昭和五年(一九三〇年)

前年十月ニューヨークにおける株式の暴落を契機として深刻な世界経済恐慌が発生、わが国もその影響を受けた。

この年一月、政府は金輸出解禁を行い為替相場の安定を図り、又、消費節約政策を具体化して物価の下落を促進した、他面産業の合理化のため企業の整理統合が行われた。しかし、その効果があがらぬうちに銀塊相場の暴落により印度、支那両市場が不振に陥り、米国又不況であったので輸出の沈滞は甚だしく各種企業の萎縮を招来し、わが国経済はかつてない不況に直面した。当時の失業者は約二百五十万人といわれた。

建設業界もその影響を受け、資材費及び労務費の下落により工事費は低下したが、反面官公庁、民間を通じて既定計画の縮少、中止、繰延等が相次ぎ工事の発注は激減した。当社においてもこの年の受託工事高は前年の半ばに止まるという状態であった。

二月、小倉支店を小倉市米町から福岡市中島町五十九番地に移転して福岡支店と改称した。

三月、新株式一株につき十円の払込を徴し、当社の資本金五百万円は全額払込済となった。

十二月、監査役松本禹象、加藤芳太郎が任期満了により退任、富田義敬、安井豊が監査役に就任した。

八月、稲垣皎三、堤多計士が米国へ、十月、木村得三郎が欧米へ出張した。

この年の受託工事の主なものには、東京日本生命館、日清生命館、東京住友ビル、三菱石油本社、横浜越前屋百貨店、大阪瓦斯ビル、大阪安田ビル、大阪歌舞伎座、芝浦製作所鶴見工場第八号館、大阪地下鉄淀屋橋本町四丁目間地下線、大江橋淀屋橋改築及び大阪地下鉄河底線路等がある。

この年竣功した東京劇場は、当社々員木村得三郎の設計に係り、地下二階地上六階、延三千三十坪の大劇場で、歌舞伎座とともに東都歓楽街の花と謳われた。そのほか、この年には住友ビル、東京野村ビル、日比谷三信ビル、常盤生命本社、大ビル東京支店二号館等の大ビルディングをはじめ、東京博物館(現国立科学博物館)、簡易保険局庁舎、徳島県庁舎、名古屋市公会堂、三井銀行川口支店、鐘ケ淵紡績長浜工場、住友肥料窒素工場等数多くの建築物及び参宮急行青山隧道、十三大橋々脚等の土木工事を完成した。住友ビルディングは、土佐堀川に面して地下一階地上六階、延一万坪を超え、当時大阪最大の建物であった。当社は現在同ビルの隣りに日本有数の巨大なビル―新住友ビルディングを施工中である。

四月、嶋道朔郎が入社した。

大阪ビルディング東京支店二号館
大阪ビルディング東京支店二号館
鐘淵紡績長浜工場
鐘淵紡績長浜工場
住友肥料新居浜窒素工場
住友肥料新居浜窒素工場

昭和六年(一九三一年)

この年に入ってもわが国経済界は不振を続けた。政府は低金利政策を実施し、民間産業においても合理化が促進せられたが、世界経済の恐慌状態は更に拡大して深刻な様相を呈し、その上九月実施された英国の金本位制の停止は国際金融機構に異常な衝撃を与え、その影響でわが国正貨の急激な流出を来し、わが国においても十二月犬養内閣によって金輸出の再禁止及び紙幣の兌換停止が行われた。それに加えて九月十八日勃発した満洲事変により金融は梗塞の度を加え、産業界は萎靡沈滞して容易に回復の兆を見せなかった。建設業界においても新規工事は激減し、政府が実施した失業対策としての土木事業等も業界を刺戟するに足らず、業者間の競争は激化し経営は困難を極めた。このような情勢に対処し当社においても経費の節減に意が払われるとともに種々の合理化方策が講じられた。

株主配当金もこの年から二分減じて年一割とした。

この年一月、大連に出張所を設置し、満洲方面進出の第一歩を踏み出した。

十月一日子会社内外木材工芸株式会社を設立した。同社は、当社が大阪市港区千島町六番地の工作所において行っていた造作、建具、家具等の木工業務を独立させたもので、資本金百万円、会長に大林義雄が、常務取締役に富田義敬が就任した。

十一月、富田義敬は内外木材工芸株式会社常務取締役就任に伴い監査役を辞任、十二月小原孝平が監査役に就任した。

この年の主な受託工事には、文部省庁舎、宮崎県庁舎、横浜高等工業学校、神戸商業大学、千葉医科大学附属病院、東京帝大伝染病研究所、日本銀行旧館改造、同大阪支店金庫館、本嘉納ビルディング、伊藤萬商店、鉄道省高山線萩原久々野間線路、阪神電鉄神戸岩屋間地下線、台湾電力日月潭発電所、天神橋、釜山渡津橋等がある。又、この年大阪市の昭和御大典の記念事業である大阪城天守閣再建工事が竣功した。わが国最初の鉄骨鉄筋コンクリート造の天守閣である。そのほか米国大使館、宮城県庁舎及び県会議事堂、新潟県庁舎、大阪安田ビルディング、新京阪鉄道京都地下線、日本電力東京火力発電所、大阪地下鉄淀屋橋本町四丁目間地下線、東京白鬚橋等が完成した。

九月、丸山茂樹が入社した。

安田ビルディング
安田ビルディング

昭和七年(一九三二年)

前年十二月に断行された金輸出再禁止によっても積年の不況は未だ回復の機運を示すに至らなかった。国内の金融は円滑を欠き、中小商工業、農林漁業の疲弊は深刻で、遂にこの年五月、五・一五事件が起り首相犬養毅が暗殺され、政治経済は未曽有の不安状態を呈した。建設業界にあっても工事の発注は少なく、業者間の競争は一層熾烈を加えた。当社においては、株主配当金を更に三分減じて年七分とした。

この年一月一日から「労働者災害扶助法」及び「労働者災害扶助責任保険法」が施行された。従来工場労働者には工場法が、鉱山労働者には鉱業法があって、業務上の傷病を補償していたが、この法律の施行により建設関係労働者の業務上の災害にも補償が行われることゝなった。

三月、満洲国の建国が宣言された。

十二月、近藤博夫、中村寅之助が取締役支配人に就任し、当社の人となった。同月取締役鈴木甫が東京支店支配人に就任した。

この年の主な受託工事は、大阪帝大理学部教室、日本徴兵保険大阪支店、阪神電鉄三宮停留所、日本光学大井工場、日本化学製絲新居浜工場、関西共同火力尼崎第一発電所、京成電鉄日暮里上野公園間地下線、東洋紡績仁川工場、鮮鉄満浦線大八工区、満鉄敦図線第四工区、同天図線第五工区等である。

この年竣功した南海ビルディングは、南海電鉄のターミナル及び髙島屋百貨店として使用され、大阪の御堂筋の南端に今に偉容を誇っている。大阪歌舞伎座もこの年竣功した。なお、戦後当社は千土地興行株式会社から前述の南海ビルの近く、御堂筋に面して新歌舞伎座を受託施工した。旧大阪歌舞伎座は改修されて千日デパートとなり当時の面影はない。その他東京では日本銀行新館、東京住友ビルディング、日清生命ビルディング、本嘉納ビルディング、英国大使館々員住宅等が、その他では宮崎県庁舎、大阪駅構内高架橋第一期、大阪地下鉄本町四丁目北久太郎町間地下線等が竣功した。

四月、藤岡忠雄が入社した。

本嘉納ビルディング
本嘉納ビルディング

昭和八年(一九三三年)

この年も世界経済は不況の域を脱しなかったが、米国でルーズベルトが大統領に当選、五月ニューディール政策を実施するに及んで漸く回復の兆をみせはじめた。我が国においては二月国際聯盟の脱退を声明、各国の軍備拡張競争の中で漸次軍国化の様相を濃くし、満洲開発もその歩を進め、軍需インフレの浸潤に伴い市況活潑化の傾向がみられた。

建設業界も軍需工業や繊維工業に工場の新設拡張がみられたが、その他の部門においては工事の発注は低調で当社の受託工事高も前年度に比しやゝ向上を示したに過ぎない。

四月、大連出張所を支店に昇格、満洲及び関東州方面の工事の増大に対処した。

十二月、取締役直木倫太郎が辞任、同月、取締役が増員され、本田登、高橋誠一、石田信夫が就任した。

この年の主な受託工事は、大阪株式取引所、阪神競馬倶楽部、日本電気第八、第十工場、東洋高圧工業本工場、帝国人造絹絲三原工場、昭和レーヨン敦賀工場、大湊航空隊格納庫、小倉兵器支廠兵器庫、飛行第七聯隊格納庫、呉海軍航空隊廠舎、日本電力黒部川第二発電所、関東軍司令部庁舎、同野戦航空廠々舎、満鉄図寧線第四工区等であって、軍工事及び軍需産業関係の工事が多くなった。

この年竣功した主な工事は、文部省庁舎、日本劇場、東京日本生命館(髙島屋東京店)、日本電報通信社、大阪瓦斯ビルディング、伊藤萬商店、日本銀行大阪支店金庫館、日本赤十字社静岡支部病院、鉄道省高山線、京成電鉄日暮里上野公園間地下線、阪神電鉄神戸岩屋間地下線及び三宮停留場(十合神戸店)等である。日本劇場は、地下三階、地上七階、延五千坪、有楽町のアミューズメントセンターの一角を占め、わが国有数の大劇場である。日本生命館は日本橋髙島屋として知られる。戦後当社の施工で増築された。

日本電報通信社
日本電報通信社
日本赤十字社静岡支部病院
日本赤十字社静岡支部病院
日本銀行大阪支店金庫館
日本銀行大阪支店金庫館

昭和九年(一九三四年)

長らく低迷を続けたわが国の経済は、低金利政策の浸潤と、輸出貿易の旺盛を背景に、この年漸く立ち直り、各国経済がなお不振であるにかゝわらず比較的順調に経過した。

建設業界もこのような情勢を反映して、久方振りに相当の活況を呈した。しかしながらその反面、鋼材の払底、材料費、労務費の昂騰が著しかった。

一月、大連支店所管の下に新京と奉天にそれぞれ出張所を設けた。この年三月には満洲国に帝政が実施された。

九月二十一日関西一帯を襲った室戸台風により当社の施工中の工事にも多少の被害があったが、よく短時日でこれを復旧した。又、幸いに職員及び家族にも大きな被害はなかった。

この年から当社の株主配当金は年一割に復した。

十二月、監査役安井豊が任期満了により退任、中島茂義が監査役に就任した。

この年の受託工事は、宮内省庁舎、帝室博物館、東京帝国大学法文経教室、仙台簡易保険局庁舎、大阪中央放送局、三菱銀行本店増築、関西共同火力発電所本館、中国合同電気三蟠発電所、浅野セメント香春工場、大日本紡績垂井工場、同高田工場、鐘淵紡績住道工場、新興人絹大竹工場、東邦人造繊維徳島工場、阪神電鉄元町神戸間地下線、満洲国々務院庁舎、満洲中央銀行、南満洲電気甘井子火力発電所、満鉄図寧線第十一工区及び牡丹江機関庫等であって、満洲国及び繊維関係の工事が多い。

この年竣功したものは、神戸商業大学、第四師団輜重兵第四大隊、帝国人造絹絲三原工場、鐘淵紡績住道工場、昭和レーヨン敦賀工場、日本化学製絲新居浜工場、日本電気第八、十工場、東洋高圧工業本工場、長柄橋、天神橋、関西共同火力尼崎第一発電所、台湾電力日月潭発電所、関東軍司令部庁舎、釜山渡津橋等の工事である。

鐘淵紡績住道工場
鐘淵紡績住道工場
釜山渡津橋
釜山渡津橋

昭和十年(一九三五年)

この年、我が国の輸出は大いに振い総額五十二億円という空前の活況を示し、重化学工業の躍進、電気事業の好転等があって産業経済は一般に好況のうちに推移した。建設業界においては繊維産業その他に設備過剰の傾向がみられ、工事の発注が手控えられたが、電力、重化学工業の部門で工事の発注があり相当繁忙であった。

三月十四日副社長大林賢四郎が突然腎臓病で病床につき、同三十一日脳溢血を併発して急逝した。永く社長義雄を佐けて会社の発展に尽瘁し今後一段の貢献が願われていた折柄の急逝であって社内は深い悲しみに閉された。

十二月、取締役の補充選任が行われ久保彌太郎が就任、又、専務取締役制が定められ、白杉亀造が専務取締役に就任し、鈴木甫、近藤博夫、中村寅之助が新たに常務取締役に就任した。同月取締役東京支店長松井清足が辞任した。

この年受託した主な工事は、大阪駅、三菱本社別館、京都祇園弥栄会館、大阪株式取引所事務所、大鉄百貨店阿倍野店、熊谷陸軍飛行学校、富士繊維工業工場、日本板硝子四日市工場、東洋紡績敦賀工場、中国レーヨン(倉敷絹織)岡山工場、第二帝国人絹三原工場、倉敷絹織西条工場、傳法大橋、東邦電力川辺発電所、満鉄凌承線、朝鮮軍飛行第九聯隊本部等である。

この年竣功した主な工事は、帝室博物館(現東京国立博物館)、仙台簡易保険局庁舎、大阪株式取引所、大阪中央放送局、阪神競馬倶楽部、済生会大阪府病院、大日本紡績垂井工場、同高田工場、富士繊維工業工場、第二帝国人絹三原工場、東邦人造繊維徳島工場、浅野セメント香春工場、東京電燈鶴見発電所、関西共同火力尼崎発電所本館、中国合同電気三蟠発電所、大阪地下鉄九郎右衛門町難波新地間、阪神電鉄元町神戸(三宮)間地下線、南満洲電気甘井子火力発電所、満鉄凌承線等である。

三月、山田新三郎が入社した。

満鉄凌承線
満鉄凌承線

昭和十一年(一九三六年)

数年来の好況を支えていた輸出の伸張はこの年に入りやゝ不振となったが、二月、二・二六事件が勃発し、非常時の意識が昂揚され、わが国経済は漸次準戦時体制への道に入り、軍備拡充に関する産業が活況を呈し初めた。

このような事情を反映して軍需産業関係工事が増加した。又、政府の電力統制案の発表により発電工事の発注が盛んであった。

三月、京城出張所を支店に昇格して、この方面の工事の増大に対処した。

十二月、宇高有耳が取締役に就任、監査役中島茂義が任期満了により退任、妹尾一夫が監査役に就任した。

なお、当社ではかねて資本の増加を計画しつゝあったが、いわゆる合併増資の方法によることゝし、そのため同月株式会社第二大林組を設立した。資本金は十万円で役員は次のとおりであった。

社長大林義雄 取締役白杉亀造 同近藤博夫 同中村寅之助 監査役大林亀松

株主配当金はこの年三分を増加して年一割三分とした。

この年受託した主な工事は、日本電気三田第四~七工場、同玉川向第四~八工場、三菱重工業横浜造船所増築、同東京及び玉川機器製作所、川崎造船各務原飛行機工場、昭和鉱業竹原電錬工場、昭和人絹高萩工場、東京地下鉄四谷見附御苑前間地下線、大阪地下鉄阿倍野線、阪神電鉄大阪地下線、東北振興電力蓬萊発電所水路、東京電燈信濃川発電所、日本電力黒部川第三発電所、東邦電力下原水力発電所、東洋紡績京城工場等である。又、この年竣功した主な工事は、宮内省庁舎、大正生命本社、千葉医科大学付属病院、京都祇園弥栄会館、日東紡績富久山工場増築、日本板硝子四日市工場、倉敷絹織岡山工場、同西条工場、昭和人絹高萩工場、東洋紡績敦賀工場第二期、熊谷陸軍飛行学校、日本電力黒部川第二発電所水路、東邦電力名倉発電所等である。

祇園弥栄会館
祇園弥栄会館
東邦電力名倉発電所
東邦電力名倉発電所

昭和十二年(一九三七年)

三月株式会社第二大林組は、従来の株式会社大林組を吸収合併し、その際資本金を一千十万円に増加するとともに、商号を株式会社大林組に改めた。役員は次のとおりであった。

社長大林義雄 専務取締役白杉亀造 常務取締役植村克己 同鈴木甫 同近藤博夫 同中村寅之助 取締役本田登 同高橋誠一 同石田信夫 同久保彌太郎 同宇高有耳 監査役大林亀松 同小原孝平 同妹尾一夫

当社の登記上の設立日は昭和十一年十二月二十四日となっているが、これは株式会社第二大林組設立の日なのである。

七月七日、中国の蘆溝橋で勃発した中国軍との衝突は後に日中事変へ、更に太平洋戦争へと拡大する口火となった。これとともにわが国の経済も急速に戦時体制化が推進された。「臨時資金調整法」、「輸入品等に関する臨時措置法」、「鉄鋼工作物築造許可規則」等の戦時経済法令が矢継早に公布され、軍需産業のみが殷賑を呈する状況であった。

日中事変勃発の直後七月二十九日、北支通州で冀東防共自治政府軍による邦人虐殺事件が起り、通州市場新築工事のため同地にあった当社の職員、下請六人が不幸殉職した。

この年の工事は、軍工事及び軍需産業関係のものが多く、前年の約二倍に達する盛況であった。この年当社が受託した工事には軍工事のほかに、滋賀県庁舎、三菱新ビルディング、梅田阪神ビル、京都競馬倶楽部、日本光学工業戸塚工場、日産化学工業富山工場増築、トヨタ自動車挙母工場、三菱重工業名古屋航空機製作所機体工場、日本製鉄広畑製鉄所コークス炉、同戸畑錻力工場、古河電気工業関西伸銅工場、庄内川レーヨン工場増築、昭和人絹錦第二工場、中部共同火力名港火力発電所、東邦電力相浦発電所、東京海上新京ビル、大日本紡績清津工場等の工事がある。この年の完成工事は、軍工事のほかに、三菱銀行本店増築、三菱本社別館、大ビル新館、大阪株式取引所事務所、三井銀行福岡支店、日本電気三田第六、七工場、同玉川向第四~八工場、三菱重工業東京及び玉川器機製作所、川崎造船各務原飛行機工場、昭和人絹錦第二工場、富士繊維工業工場増築、傳法大橋、東邦電力川辺発電所、台湾電力日月潭第二発電所、東洋紡績京城工場等がある。

大阪株式取引所事務所
大阪株式取引所事務所
日本電気三田工場
日本電気三田工場

昭和十三年(一九三八年)

日中事変も第二年目を迎え戦局は拡大し、五月国家総動員法が施行される等わが国経済の戦時体制は愈々強化された。国防資材生産に関連する工事が著しく増加した反面一般市街地建築、非軍需産業部門等の工事計画は一斉に激減し、その上物資の使用制限及び配給統制のため資材の調達に円滑を欠き、価格統制外の資材及び労務賃金の騰貴著しく、経営は必ずしも容易ではなかった。

当社にあっても内地外地を通じて軍関係工事の受託が増加を続けた。

この年満洲、北支方面の情勢の進展に即応するため二月奉天出張所を支店に昇格、更に北京支店を新設した。

二月、監査役妹尾一夫が辞任し取締役に就任、今林彦太郎が監査役に就任した。

四月一日、監査役大林亀松が死去した。大林亀松は西島芳兵衛の四男として明治三年十一月八日大阪に生れ、芳五郎の妹たかの婿養子となり、長く当社の監査役として社業に尽瘁した。享年六十九才であった。

十一月、監査役小原孝平が任期満了により退任、田邊信が監査役に就任した。

この年の受託工事には、三菱鉱業研究所、東北振興パルプ石巻工場、川崎航空機明石工場、三菱重工業名古屋航空機製作所機体工場増築、三菱鉱業手稲選鉱場、山陽パルプ麻里布工場、三井鉱山石油合成三池工場、三菱鉱業清津工場、満鉄奉天綜合事務所、同綏南線第七工区、国華ゴム奉天工場、東洋タイヤ工業奉天工場、東棉紡織錦州工場、満洲合成燃料錦州工場等があり満洲方面の工事が多くみられる。又、この年完成した工事には、日本興業銀行名古屋支店、京都競馬倶楽部、川崎航空機各務原工場増築、トヨタ自動車挙母工場、日産化学富山工場増築、三菱電機神戸製作所、昭和鉱業竹原電錬工場、三菱重工業長崎製鋼所圧延工場、東洋紡績岩国工場増築、東洋絹織愛媛工場増築、東邦人造繊維徳島工場増築、東京地下鉄四谷見附御苑前間地下線、大阪地下鉄阿倍野線、満洲国々務院民政部庁舎、満洲中央銀行、東京海上新京ビル、満鉄通古線第四区等があった。満洲中央銀行は昭和九年四月着工、四年二ケ月の日子を要し、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下二階地上四階、延八千坪、満洲で最も秀れた建物であった。

東洋絹織愛媛工場
東洋絹織愛媛工場
東邦人造繊維徳島工場
東邦人造繊維徳島工場

昭和十四年(一九三九年)

前年十月の武漢三鎮及び広東の攻略に続いて、この年三月南昌を占領する等日中事変は益々拡大した。又、五月ノモンハン事件が起る等のこともあって、わが国経済は愈々長期持久の戦時体制に入った。工事の発注は多かったが、前年同様軍工事と軍需産業関係工事が多く、その他の部門の工事は益々少なくなった。他方、資材の調達難、労力及び輸送力の不足等によって工事の遂行には多くの困難が伴った。

又、戦局の拡大に伴い職員の軍務に服する者が多くなり、人手不足が顕著となった。

八月、上海に常設出張所を設けた。

この年の受託工事には、多数の軍工事(名称省略)のほか、日本製鋼所室蘭製作所、北海道人造石油滝川工場、東京鋼材深川工場、東邦重工業四日市工場、大阪瓦斯酉島工場、日本製鉄広畑工場製鋼工場、帝国人造絹絲麻里布工場機械工作工場、日本アルミニウム黒崎工場、東北振興電力十和田発電所、同松川発電所、日本発送電牧発電所、日本製鉄清津工場、鮮鉄輸城富寧間線路、旭電化工業高雄工場、台湾電力円山発電所、華北交通京漢線、華北東亜煙草青島工場等があった。又、この年竣功した工事には多数の軍工事のほか滋賀県庁舎、大鉄百貨店阿倍野店、三菱鉱業研究所、東京鋼材平炉工場及び圧延工場、日本光学戸塚工場、三菱重工業名古屋航空機製作所、古河電気工業関西伸銅工場、日本製鉄広畑工場発電所、山陽パルプ麻里布工場、阪神電鉄大阪駅前延長線、中部共同火力名港火力発電所、東北振興電力蓬萊発電所、東邦電力下原水力発電所、同相浦発電所、京城丁字屋、満洲三菱機器工場、満洲光学工業奉天工場、東棉紡織錦州工場等があった。

十月八日、顧問岡胤信博士が死去した。

三菱鉱業研究所
三菱鉱業研究所
京城丁字屋
京城丁字屋

昭和十五年(一九四〇年)

戦局は愈々拡大しわが国経済は国家総動員法による高度国防国家の建設に集約せられ、全部門にわたり生産、消費の統制が強化されたが、軍工事及び軍需産業関係工事によって建設業界は引続き繁忙であった。綿糸、繊維製品は統制され、生活必需品に切符制が採用される等消費規制は厳しく、鉄鋼、セメント、硝子なとの主要建築資材についても厳しい配給統制が行われるようになった。

従来建設業者の団体としては日本土木建築業組合があったが、この年これに代って工業組合法による日本土木建築工業組合が設立された。

三月、満洲国法による子会社、株式会社満洲大林組を設立し、当社の満洲及び関東州における事業をその経営に移した。資本金は満洲国々幣五百万円(全額払込)で、本店を新京特別市吉野区永楽町三丁目五番地に置き(翌月奉天市に移転)、取締役社長に大林義雄、常務取締役に高橋誠一、取締役土木部長に中安治郎、取締役本店支配人に塚本浩が就任した。

四月、渡部圭吾が監査役に就任、十月、石田信夫が常務取締役に就任した。

この年当社は多数の軍工事のほか、日本鋼管大阪工場、尼崎人造石油尼崎工場、三菱電機大阪工場、武田化成本工場、大阪製鎖造機茨木工場、神戸製鋼所本事務所及びA、B、D、E工場、住友金属和歌山工場、東洋アルミ三池工場、三菱重工業大橋工場、東北振興電力新田川大谷発電所、塘沽新港函船渠及び岸壁等の工事を受託した。又、この年当社は多数の軍工事のほか大阪駅、三菱新ビル、東邦重工業四日市工場、神戸製鋼所本事務所、三菱重工業長崎製鋼所鋼板工場、東京電燈信濃川発電所、日本電力黒部川第三発電所、台湾電力円山発電所、旭電化工業高雄工場、華北交通京漢線、同京古線、華北東亜煙草青島工場等の工事を完成した。大阪駅は、時局柄当初計画の六階建を三階までに止め、既に六階まで組立てを了していた鉄骨をとりはずすというようなことであった。一月、大林芳茂が入社した。

東邦重工業四日市工場
東邦重工業四日市工場

昭和十六年(一九四一年)

この年は創業五十年に当り、五月十八、十九の両日にわたり記念行事を行つた。第一日には大林家墓所における墓前祭、生国魂神社における神前祭、大阪府実業会館における慰霊祭その他の行事、大阪市中央公会堂における永年勤続者の表彰と記念式を順次行い、第二日には下請人等の表彰を行つた。なお、記念事業の一つとして大林組創業五十年記念医療補助金、同奨学金の給付を共済会を通じて行うことゝした。医療費補助金給付制度はその後健康保険制度の実施により廃止したが、奨学金の給付は現在もなお行っている。

この年から職員の勤続表彰を当社自体が行うことゝなったので、十一月、社員援護会が解散し、柏葉会が創立された。柏葉会は当社の株式を保有し、勤続表彰を受けた当社職員に株式を譲渡するほか不時の用費や住宅資金の貸付等職員の福祉増進に資する事業を行うことを目的とするもので、その後事業内容に変更はあったが、現在もなお存続している。

六月独ソの開戦があり、十二月には遂にわが国も米英に宣戦を布告して太平洋戦争に突入した。このような情勢から産業界全般にわたり総力戦体制が一段と強化された。産業界の工事の発注は厳しく規制され、資材は愈々入手困難となって来た。自然建設業者の営業活動は厳しく制約されることゝとなった。この年二月「軍建協力会」、翌十七年三月「海軍施設協力会」がそれぞれ陸軍、海軍の指導によって結成され、軍工事の消化について軍民一体の体制がとられた。

四月、大林芳郎が入社した。芳郎はこの年三月東京帝国大学工学部建築学科を卒業、昭和十八年十一月社長に就任、現在に至っている。この間各関係会社の社長を兼ね、昭和三十三年二月大阪建設業協会の会長に就任、同年四月全国建設業協会の副会長に、翌々三十五年四月同協会会長に就任、現に在任中である。

六月専務取締役白杉嘉明三、常務取締役植村克己、取締役高橋誠一、監査役今林彦太郎、渡部圭吾が辞任し、白杉嘉明三と植村克己は相談役になった。同月、中村寅之助が専務取締役に、今林彦太郎、渡部圭吾、日比安平が取締役に、高橋誠一、木村得三郎が監査役に就任した。

この年受託した工事には軍工事のほかに、宮内省御文庫、日本建鉄船橋工場ロ工場、大同製鋼星崎工場、住友金属名古屋工場、大阪製鎖造機貝塚工場、三菱鉱業清津工場第二期、台湾電力天冷発電所等の工事があった。又、この年完成した工事には軍工事のほかに、梅田阪神ビル、日本建鉄船橋工場イ工場、大阪製鎖茨木工場、武田化成本工場、三菱電機大阪工場、尼崎人造石油工場、東洋アルミ三池工場、塘沽新港函船渠等の工事があった。

昭和十七年(一九四二年)

前年ハワイ急襲、マレー沖海戦等で大戦果をあげたわが軍は、一月マニラを占領、二月シンガポール及びパレンバンを攻略、更に三月にはバタビヤ、ラングーン、スマトラを相次いで占領、六月にはキスカ、アツツ島を占拠して所謂大東亜共栄圏の各地に絶対優勢を誇ったが、六月ミツドウエイの海戦に敗れ、八月から十一月にかけての第一次乃至第三次ソロモン海戦で次第に制空制海権を失い、八月には米軍のガダルカナル島反攻上陸があって、劣勢漸く蔽い難いものがあった。六月内務省告示によって、京浜、京阪神、北九州の諸地域における一般工場の新改築は事実上禁止され、軍の施設及び軍需産業を除いては工事の発注がみられなくなった。

この年、当社は営業所を整理して三月、横浜、京都及び神戸の各営業所を廃止し、九月広島営業所を支店に昇格させた。又、戦局の拡大に伴う南方地域の諸工事施工のため同地域に職員を派遣した。

十一月、取締役が一名増員され加藤登が就任、監査役高橋誠一が任期満了により退任、上草直清が監査役に就任した。

十二月十五日政府は産業経済の代表者を招致し戦力増強に関し一段の協力を要請するところがあり、社長義雄もその一人として天皇陛下に拝謁仰せつけられる光栄に浴した。

当社の職員で応召入営する者が日毎に増加したが、十二月大林芳郎も臨時召集により中部第二十二部隊(和歌山聯隊)へ入営した。

この年の受託工事には軍工事のほかに、日立航空機千葉工場、三菱重工業名古屋製作所、同水島工場、神戸製鋼所H工場、川崎重工業明石工場増築、日本発送電岩本発電所等重工業や航空機工業関係の工事が多かった。又、この年完成した工事には宮内省御文庫、北海道人造石油滝川工場、大阪製鎖造機貝塚工場、日本発送電牧発電所、東北振興電力十和田発電所等がある。

昭和十八年(一九四三年)

二月わが軍はガダルカナルを撤退、五月にはアツツ島の守備隊が全滅する等敗色漸く濃く、欧州でも二月スターリングラードにおいて独軍が潰滅し、九月には枢軸国イタリーが無条件降伏した。

この戦局あわたゞしい中において当社は社長義雄を失った。義雄はかねて病を得て療養中のところ十月五日午後二時三十五分心筋梗塞症のため兵庫県御影の自邸で死去した。享年五十才。葬儀は十月八日午後一時から四天王寺本坊において時局柄質素荘厳に執り行われた。当社は本店の業務を休止して敬弔の意を表した。

専務取締役中村寅之助は当社及び関係会社を代表して次の弔辞を献げた。

弔辞

吾等ノ敬慕措カザリシ社長大林義雄殿曩ニ病ヲ得、只管療養ニ努メラレ一時ノ如キハ病勢著シク衰へ御快癒ノ日近キヲ思ハシメタルニ去ル七月以来病勢次第ニ昂進シ五日病遽ニ革リ遂ニ午後二時三十五分卒然トシテ長逝セラル

今其ノ葬儀ニ列ルモ慈愛溢ルル温容眼前ニ彷彿シ幽明境ヲ異ニスルノ感ナキニ再ビ声咳ニ接スルヲ得ズ、嗚呼悲シイ哉

社長ハ明治二十七年九月先代社長大林芳五郎殿ノ長男トシテ大阪ニ生ル、長ズルニ及ンデ暁星中学校ヲ経テ早稲田大学ニ学ブ大正五年一月先代社長歿セラルルヤ其ノ業ヲ継ギ同七年十二月大林組社長ニ就任セラル、爾来二十有六年常ニ溢ルルガ如キ温容ヲ以テ吾等ニ接シ天成ノ統率力ヲ以テ吾等ヲ率ヰ大綱ヲ把ツテ嚮フトコロヲ示シ楽ンデ業務ニ精進セシメラレ社内一家ノ実自ラ挙ガル是レ大林組ノ今日在ル所以ナリ

而シテ其ノ間内外木材工業株式会社、株式会社大林農場、三宝鉱業株式会社、株式会社大林精器工業所、株式会社満洲大林組、大林木材工業株式会社ヲ創設シテ之ヲ統裁シ、日ヲ逐ウテ社礎固ク業績挙ガル、是レ亦社長ニ負フトコロナリ

斯クノ如ク社長ノ統裁セラレタル事業ハ戦力増強ニ関スル施設工事ノ完遂、主要食糧ノ増産、地下資源ノ開発、精密機器ノ製作等是レ悉ク刻下喫緊ノモノタリ、従ッテ之ガ振否ハ実ニ聖戦必勝ニ至大ノ関係ヲ有シ瞬時モ忽セニスルヲ許サス愈万難ヲ排シテ之ガ振興ニ努ムベキ秋ニ当リ社長ノ急逝ニ遭フ痛惜哀悼何ゾ堪ヘン、然レドモ社長ノ遺風ハ炳トシテ泯ビズ

其ノ遺業ハ戦局ノ進展ニ伴ヒテ愈其ノ重要性ヲ加フ吾等ハ茲ニ深ク思ヲ致シ悲痛ノ中ヨリ決然トシテ起チ、協心戮力、各其ノ職域ニ挺身シ以テ戦力増強ニ資シ延イテ社長ノ遺訓ニ応へ奉ランコトヲ誓フ

冀クハ在天ノ英霊吾等ノ決意ヲ照覧セラレ永ヘニ吾等ニ加護アランコトヲ、茲ニ謹ミテ敬慕哀悼ノ誠ヲ捧グ

昭和十八年十月八日
株式会社 大林組
株式会社 満洲大林組
内外木材工業株式会社
大林木材工業株式会社
株式会社 大林農場
三宝鉱業株式会社
株式会社 大林精器工業所
右代表 中村寅之助

義雄の死去に伴い、十一月大林芳郎が軍務奉公中のまゝ社長に就任、相談役白杉嘉明三が取締役会長に、中村寅之助が副社長に就任した。芳郎は社長就任に当り次の挨拶文を社内に発表した。

予今先考ノ後ヲ承ケテ大林組社長ニ就任ス、然リト雖モ目下軍務奉公中ニシテ親シク社務ヲ見ルコトヲ得ズ、就テハ重役一同ハ申スニ及バズ全員一致団結、当組伝統ノ精神ヲ発揮シテ職域奉公ニ邁進シ以テ決戦下当組ノ負荷スル建設ノ重圧ヲ完ウセラレンコトヲ望ム

予他日幸ニシテ軍務ヲ了ヘ帰還セバ諸君ト共ニ社業ニ邁進シ之ニ一段ノ光輝ヲ添ヘンコトヲ期ス、其ノ間予ハ只管軍務ニ精励スベキヲ以テ諸君ハ呉々モ和衷協同各其ノ職務ニ挺身セラレンコトヲ望ム

二月、子会社大林木材工業株式会社が設立された。この会社は当社子会社内外木材工芸奉天工場の事業を独立させ、これに満洲大林組の牡丹江製材工場及び奉天工場の木材関係事業を併せ、満洲及び関東州における木工事業を一元的に経営するため設立されたものである。資本金は満洲国々幣弐百万円で大林組、満洲大林組、内外木材工芸の三社が出資した。本店を奉天市に置き、社長に大林義雄、常務取締役に高橋誠一、取締役支配人に中西博が就任した。

四月、当社の資本金を四百九十万円増加して壱千五百万円とした。

七月、常務取締役鈴木甫が辞任し、本田登が常務取締役に就任、同月、子会社内外木材工芸株式会社は商号を内外木材工業株式会社に変更した。

八月、ジャカルタ出張所を設けた。

この年九月決算の株主配当金は一分減じて年九分とした。

この年受託した工事は、軍工事のほか、日東化学八戸工場硝酸工場、日本製鋼所宇都宮製作所、日本光学工業大宮工場、川崎重工業岐阜工場、三菱重工業京都工場、住友金属工業和歌山製鉄所第一工場、神戸製鋼所長府工場増築、日本製鉄八幡製鉄所戸畑工場鋳鋼工場、日本発送電寺沢発電所等で、超重点産業部門の緊急工事に限られた。又、この年完成した工事は、軍工事のほか、日本製鋼所室蘭製作所、川崎重工業一宮分工場、神戸製鋼所長府工場増築、報国造船七尾工場、三菱化成黒崎工場、台湾電力天冷発電所等であった。

昭和十九年(一九四四年)

米英の反攻は愈々激しく七月サイパン島の日本軍が玉砕し、同島に基地を設定した米軍は十一月東京を空襲した。決戦非常措置要綱が実施され、銀行店舗の整理、高級娯楽の停止等が行われ、又学生生徒の勤労動員、学童の疎開が行われた。欧州においても六月米英連合軍はノルマンディーに上陸、八月にはパリの独軍が降服した。戦局が決戦段階に入るに伴い国土防衛、戦力増強に関する緊急工事が多く、建設業界は限られた人員器材によって幾多の困難と闘いながら建設戦士たるの覚悟を新たにしてその完遂に邁進した。

この年三月決算の株主配当金は一分増加して年一割に復した。

前年二月設立された大林木材工業株式会社はこの年十月社名を大林航空機工業株式会社と改め、航空機の部品及び部材並びに積層材及び強化木の製造に進出した。造作、建具、家具の会社が軍事目的に動員されたのである。

この年の受託工事は軍工事のほか三菱重工業茨城機器製作所、日本鋼管特殊工場電気炉工場、神戸製鋼所中津工場、大同製鋼四日市工場製鋼工場、石川島芝浦タービン松本工場、武田薬品本工場第七工場、日産液体燃料若松工場等で、竣功工事には三菱重工業水島工場、日本製鉄八幡製鉄所戸畑工場鋳鋼工場、住友化学新居浜製造所、北支那製鉄石景山製鉄所等があった。

昭和二十年(一九四五年)

米空軍の本土空襲は熾烈を加え、わが軍は本土決戦を呼号していたが戦局の帰趨は漸く明らかとなった。三月及び五月の大空襲で東京がほとんど灰燼に帰し、大阪も六月以後数次の空襲で大被害を受けた。五月、ドイツの無条件降伏、八月、広島、長崎に原子爆弾の投下、ソ連の対日宣戦布告、満洲侵入等があって敗戦は動かし難いものとなった。かくして八月十五日ポツダム宣言受諾による終戦の詔勅を拝した。九月二日米艦ミズリー号上での降伏文書調印をもって永い戦争の幕を閉じ、わが国は米軍占領下に置かれた。

この間当社は引続き戦力増強、国土防衛に関する多量の緊急工事を受託施工していたが、終戦により施工中の工事はほとんど総て中止され暗澹とした局面に立たされるに至った。

この年九月決算の株主配当金は再び一分減じて年九分とした。

六月、常務取締役近藤博夫が戦時建設団総務部長に就任のため、七月、監査役田邊信が同団経理部長に就任のため辞任、久米保衛が監査役に就任した。同月、久保彌太郎、妹尾一夫が常務取締役に就任した。

十一月、取締役会長白杉嘉明三が任期満了により退任し相談役に就任、取締役今林彦太郎、渡部圭吾が任期満了により退任、河合貞一郎、小津利一、岩崎甚太郎、宮村次郎、五十嵐芳雄が取締役に就任、監査役木村得三郎、上草直清が任期満了により退任、小田島兵吉、酒井彌三郎が監査役に就任した。

十二月、社長芳郎が復員した。

この年の受託工事には、軍工事のほかに三菱電機伊丹製作所二十三工場、川崎重工業知多工場、神戸製鋼所本社工場復旧等があり、完成工事には、三菱電機伊丹製作所二十三工場、日本発送電岩本発電所、台湾電力明治発電所等があった。

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