大林組70年略史

1961年に刊行された「大林組70年略史」を電子化して収録しています。
なお、社名・施設名などは、刊行時の表記のままとしていますので、あらかじめご了解下さい。

第二章 大正期

■第一節 八年まで

大正元年(一九一二年)

明治天皇崩御につき京都府下伏見古城山一帯の御料地を御陵の霊域と決定せられ、八月五日その御造営工事の施工方を当社に下命された。工事は御宝壙掘鑿、御石廓築造、御須家、御拝所、祭場殿その他各種営造物の築造、域内の産塡その他これに付帯する土木建築の工事で、期間三十余日間という急施工の工事であったが、昼夜兼行工期に一週間の余裕を残して滞りなく竣功、よく大任を果し、九月十五日御予定の如く御埋棺式を行われた。芳五郎と岡胤信は当日幄舎参列の光栄に浴した。なお、御大葬儀のため実施された院線の奈良線桃山停車場の拡張工事も当社が受託、八月十日着手、九月上旬これを完成した。

この年完成した工事に、北浜銀行堂島支店、武徳会大阪支部武徳殿本館、事務所等の工事がある。前者は十月竣功、地下一階地上三階の煉瓦造(床は鉄筋コンクリート造)の建物、後者は六月竣功、木造二階建の建物であるがいずれも当社の設計である。

又、この年請負決定したものに百三十銀行曽根崎支店、大阪曽根崎新地歌舞練場の工事がある。前者は、鉄筋コンクリート造地上三階建で大阪最初の鉄筋コンクリート造の銀行建築である点、後者は、わが国古来の社寺建築、寝殿造等の様式を主調とした純日本式の木造建築(一部に鉄骨乃至鉄筋コンクリート構造を併用)で大阪で初めての秀れた美術建築と称され、当社の設計である点に意義を有する。

七月、鈴木甫と石田信夫が、八月、高橋誠一が入社した。

桃山御陵工事奉仕
桃山御陵工事奉仕
桃山御陵工事奉仕
桃山御陵工事奉仕

大正二年(一九一三年)

一月二十六日午後三時二十分、工事中の生駒隧道内に大崩壊事故が突発した。事故発生の箇所は東口坑口から二千三百三十呎附近の煉瓦積作業終端であって、崩壊は前後四十呎にわたりこれによって支保工が破砕され、坑内は全く閉塞された。この時導坑の進程は三千八百四十六呎に達しており、隧道内で作業中の監督員及び工員計百五十二名が外部との交通を遮断された。直ちに救援に着手、同日七時までに百二十八名を救出することができたが、翌二十八日救出用の坑道に崩壊事故があり、三十日に至って漸く煉瓦工、人夫等四人を救出し得たに止まり、監督者以下二十人の殉職者を出した。

崩壊箇所の復旧については幾多の困難があったが鋭意これを促進し、五月末には煉瓦巻立工も完全に終了した。

この崩壊は当社に激しい衝撃を与えた。とりわけ芳五郎の傷心は甚だ深いものがあり、事故後直ちに現場に赴いて応急の処置に身を挺したが、事が終ると数日自宅に引籠った。犠牲者を悼み、且つ又世間を騒がせた責任に顧みて門を閉して謹慎したものと察せられる。

この年六月上毛モスリン岐阜工場、九月京都停車場、十月大阪倶楽部、倉敷紡績萬寿工場、十一月伊藤忠商店、新難波橋等の諸工事を受託し、受託工事の総額は三百五十万円に近かった。

京都停車場工事は、次の年大正三年に京都で挙行された大正天皇の御即位式に備えて施行されたのであって、駅本館及び附属家、駅官舎、プラットフォーム上屋、跨線橋等の工事のほかに、駅附近線路の拡張に伴う路盤、築堤、橋梁その他の土木工事をも併せて受託した。上毛モスリン岐阜工場工事は、敷地造成の土木工事と、工場、事務所その他の建家五十三棟の建築工事とを含むもので、設計、施工とも委託された。大阪倶楽部は、大阪で最初の社交倶楽部建築であって、外装、内装ともに高雅な美術的配慮が施されており、当時の大阪の洋風建築を代表するものとされた。新難波橋は、中之島公園を南北に跨って土佐堀川、堂島川の両川に架設せられ、延長四百八十呎、幅員六十呎、径間七十二呎の鉄構拱五連と、二十四呎の鉄筋コンクリート拱五連から成り、橋脚は七十二封度の軌条を鉄筋に使用した鉄筋コンクリート造で、花崗岩で外装され、橋面はコンクリートとアスファルトで鋪装された。翌々大正四年五月竣功したが、大阪の名橋として世評が高く、永く大阪名所の一つに数えられた。この橋脚工事の締切用として米国から鉄矢板を輸入した。大阪における締切用鉄矢板使用の嚆矢であろうとされている。

六月、妹尾一夫、七月、本田登が入社した。

生駒隧道落盤事故に関する大阪毎日新聞記事
生駒隧道落盤事故に関する大阪毎日新聞記事

大正三年(一九一四年)

一月、東西から掘進を続けていた生駒隧道は、二十日に至って両坑の間隔が二百三十三呎に近づき、懸賞を附して導坑貫通作業の促進を図っていたところ、三十一日午前四時三十五分東口から五千六十二呎の箇所で遂に貫通した。

当時の状況について「大阪電気軌道株式会社三十年史」は「生駒隧道貫通の報に接した当社の人々の歓びも、非常なものであった。殊にこの時、岩下社長は北浜の某所に片岡直輝氏と会談中であったが、この吉報を得て喜色満面『たうとうやった。これで岩下も死なずに済んだ。』と真に手の舞ひ足の踏むところを知らぬ有様であったと謂ふ。またこの夜当社と大林組連合の下に山の神を祭って貫通の祝莚を張った。」と叙しておられる。そしてその後、工事を続けること三ケ月、四月二十九日遂に全部竣功を告げ、隧道内外全線の試運転も終り、当社は重大な責任を全うすることができた。

再び「大阪電気軌道株式会社三十年史」の記事を借用させて頂く。

「(生駒隧道工事は)叙上の如く難工事であり、不測の変事に遭ったため、予定期日より遅れること八箇月、明治四十四年七月四日に起工して以来、二年十箇月の日子を要した。其の総工事費金二百六十九万余円。(一呎当工事費二百四十三円)此の内訳は金二百三十二万余円工費、金三十四万余円材料費、金三万余円その他(用地費を除く。)である。尚ほ、大林組の前記請負金額は、その後支保工の延長其の他設計変更により二十七万余円を増加することゝなった。生駒隧道の大工事は、請負者が大林組でなかったならば、その完成は期し難かったであろうと請われる位それほど困難なる工事であった。(中略)また大林組が、この工事のために多大の犠牲を払ったことは云ふまでもない。而も当時、当社が資金難のため苦しみ、その工事費の支払も渋滞勝で、遂には支払困難なる状態に陥った。同組社長大林芳五郎氏は、よくその事情を察して自己の手許の苦痛を忍んで、当社のため便宜を与へ、殊に隧道崩壊の際の如き、当社幹部の落胆せるを見て、大林氏は金森支配人に向い『金森さん、決して失望なさるな。資金に困れば建設費は会社の開業後に払って貰へば宜しい。それよりも将来に望みを託して努力しようではありませんか。』と熱誠を以て激励し、絶えず義侠的態度で当社のため尽すところが多かった。」

生駒隧道導坑貫通(大正3年1月31日)
生駒隧道導坑貫通(大正3年1月31日)

一方明治四十四年三月以来営々として工事を進めて来た東京停車場工事も竣功してこの年三月引渡を了した。八月二十日鉄道院から当社に対し「中央停車場ノ新築ニ際シテ諸般ノ工事ヲ請負ヒ爾来約三箇年間鋭意励精毫モ遅滞ナク完全ニ之ヲ竣功セシメ成績顕著ナルヲ以テ茲ニ之ヲ賞ス」との褒状を贈られた。

東西ほゞ時を同じくして工を起し、相並行して進めていた東京駅、生駒隧道の二つの大工事はこのようにほゞ時を同じくして竣功したのである。

四月十一日照憲皇大后崩御のことがあり、五月二十五日大喪儀御挙行、伏見桃山の御陵所伏見桃山東陵において御斂葬の儀が執り行わせられるのについて、当社は重ねて恩命を蒙り工事に御奉仕申し上げる光栄に浴した。すなわち、四月十六日大喪使より命を拝し、御宝壙掘鑿及び御石廓築造、御陵道新道開鑿、御陵所前広場地均その他の土工事と御須家、祭場殿、御拝所幄舎その他総建坪一千二百坪に達する営造物の築造工事に御奉仕申し上げた。何分にも作業日数が少ないので各員昼夜兼行奮励努力、又各職方作業員は延二万八千人に達するという状態であったが、先年伏見桃山御陵工事奉仕の際の経験に基き最も整然として工程を進め、早くも五月十五日滞りなく竣成、幸いに至重の大任を全うすることができた。又、御大喪儀に当って代々木御祭場仮支線土工橋梁及び仮停車場工事、桃山停車場臨時乗降場工事が執行され、両工事とも当社が受託施工した。

越えて八月、御陵御造営本工事奉仕の大命を拝した。御模様を拝するに、中央に御所在を円形に築造、内外二重に石廓を廻らせ、瑞籬、石階段、土留石垣等総て北木産及び稲田産花崗岩を精選して取り設け、正門及び左右脇門には青銅製扉を建込み、広場には三ケ所の手水鉢が設けられるほか御内廓及び御外廓の正面に阿里山檜の大鳥居が建設された。九月謹んで工を起し、十二月恙なく竣功した。

七月、オーストリアの対セルビア宣戦布告が端緒となり遂に第一次世界大戦が勃発、八月わが国は日英同盟の宜みによって独逸に対し宣戦を布告し参戦した。大戦の勃発によって輸出入貿易は大打撃を蒙り、外資の輸入全く杜絶し経済界は混乱に陥った。対独宣戦後は政府事業は繰延べ乃至中止となり、一般事業界も極度に沈衰するに至り、建設業への影響甚しいものがあり未曽有の不振を呈した。

これよりさき、四月当社にとってまことに重大な事件が起った。世上いわゆる北浜銀行事件である。事件はこの年三月、当時大阪市で発行されていた某新聞が、既述の大阪電気軌道株式会社の大阪奈良線工事に関連して同社の社長を兼ねておられた北銀岩下頭取を攻撃する記事を発表したのに端を発したとみられている。この記事は、右新線工事の生駒隧道工事が難工事で多額の工事費を要し、資本金社債を費消してなお足らず、三月八分利附優先株を募集したが応募が満株に達せず、且つ、株価が大いに下落した事実を材料としたものであったが、四月に入り同紙は北浜銀行の危機を報道するに至って取付が始まり、当時有力財界人の救済活動もあったが、岩下頭取以下全重役が引責辞職するまでに発展した。その後複雑な経緯があったが、高倉藤平氏が頭取に就任、減資、優先株発行等のことを実行して漸くこの年十二月銀行は甦生した。この事件は同行と深い関係を持つ当社に深刻な打撃を与えた。同行に対する債務弁済のため芳五郎は、全私財を提供することゝして責に任じたが、他方大阪電気軌道会社の業績不振により未収工事費が意のように回収できなかった事情もあって、同行に対する債務は大正七年の秋に至るまで完済し得なかった。この間大正五年一月、芳五郎死去のことがあり、当社にとってこの年からの五年間は重大危機、一大試練の時期であった。

この年受託した工事には、前述のものゝほか、台湾銀行東京支店、鉄道院大井工場客車修繕工場、日本郵船大阪支店倉庫、住友鉱業所新居浜肥料製造所燐鉱庫、神戸市上水道千苅水源地、神戸鉄道管理局発注の武庫川橋梁等の工事があるが、受託工事額は激減して百五十万円に達しなかった。又、竣功した工事には前述のものゝほか、上毛モスリン会社岐阜工場、大阪倶楽部、京都停車場、箕面有馬電気軌道武庫川橋梁等の工事があり、第四師団発注の禁野(現在大阪府枚方市内)火薬庫内臨時構築物工事がある。この工事は、対独宣戦布告直後の八月十五日夜、突如当社に対し施工命令があり、即夜準備に着手、木造平家建、亜鉛鉄板葺ではあったが十棟総延坪五百五十四坪の建物を僅か三日間という驚くべきスピードで完成した。

四月、木村得三郎が入社した。

竣功式当日の東京駅
竣功式当日の東京駅
桃山停車場臨時乗降場
桃山停車場臨時乗降場

大正四年(一九一五年)

年革まって大正四年を迎えたが、前の年第一次世界大戦の勃発、わが国の参戦によって招来された経済界の沈衰状態はこの年に入ってもなお続いた。そして漸く後半年に入ってから軍需品その他の物資の輸出が激増し未曽有の輸出超過となり、金融又大いに緩慢となって多年不振を続けて来たわが国経済は漸く恢復の曙光をみせ初めるに至った。しかし、建設業は激甚な競争と資材特に鋼材、亜鉛鍍鉄板、硝子等の暴騰と労銀の昂騰に悩まされた。

この年の四月六日、芳五郎は執務中不図気分に不快を覚えた。これが後遂に芳五郎にとって不治の大患となった病気の最初の症状であったようである。直ちに療養生活に入ったが奇怪な体温の昇降、症状の激変等のことがあり、容易に病名が診定し得られず、日を経て漸く肺壊疽と診断され、一門の人々も社内の者も強い衝撃を受けた。そして極力医療に努めたが遂に起たず、十二月に入るや屢々危篤に陥った。このような次第でこの年は当社にとってまことに憂いに充ちた年であった。

従来、合資会社大林組には定款上代表社員は置かれず、業務執行社員二人が置かれ伊藤と白杉がこれに選任されていたのであるが、この年四月十四日に社員総会を開催、その決議によって定款を改正し代表社員二人が置かれることになり、伊藤と白杉がこれに就任した。

十月、京都御所で大正天皇の御即位大礼が挙行されるにつき、京都御苑内と二条離宮内で各種の御造営工事が行われることゝなり、仙洞御所大嘗宮付属朝集所関係工事、二条離宮南車寄関係工事、大宮御所内皇族休所工事が六月二十日から順次当社に仰せつけられた。

芳五郎はこの時既に病床にあったが、恐懼感激、ひたすら奉仕の恙ないことを祈り、工事進捗の状況を案じては屢々病床に報告を聞いた。工事は九月二十七日滞りなく竣功した。又、同じく御大礼の準備として大正二年以来実施された京都駅の拡張工事は、土木、建築とも当社がほとんど全部を請負い施工したのであったが、この年十月、御便殿工事を最後に全く竣功した。

この年受託したものには、広島、備前山口、武雄,行橋各停車場拡張、山陽本線姫路網干間複線化関係の各工事、津和野線第四工区、東京鉄道病院等の鉄道関係工事のほか、高崎専売支局煙草工場、横浜生命本社、住友電線製造所、大阪鉄工所桜島機械工場等の工事があった。又、この年、前述のものゝほかに、曽根崎新地歌舞練場、台湾銀行東京支店、倉敷紡績萬寿工場、新難波橋、鉄道院武庫川橋梁等が竣功している。五月二十一日、新難波橋工事について大阪市役所電気鉄道部から当社に表彰状が贈られたが、それには「当部所管難波橋建設工事ヲ請負実施シ緊要ナル橋脚工事ノ水中作業ニ於テハ多大ノ施工難ヲ排シテ工程ヲ進メ巧緻壮麗ヲ要スル石材工事ニ於テハ技術ノ精華ヲ発揮シテ勗メテ之ヲ遂行シ一般ノ施設宜シキニ適ヒ短期間克ク全部ノ工事ヲ竣功セシメタル段成績顕著ナリトス、仍テ茲ニ其功労ヲ表彰ス」と記されている。渡初式は翌二十二日挙行された。

七月、加藤登が入社した。

京都駅
京都駅

大正五年(一九一六年)

前年四月以来大患と闘っていた芳五郎はあらゆる手段を尽した療養もその効を奏せず、この年一月二十四日午前九時五十分夙川邸において死去した。

芳五郎の死去に関し、大阪毎日新聞社は二十五日の朝刊紙上で次のとおり報道した。

大林芳五郎氏逝く

当地の土木建築請負業大林組社長大林芳五郎氏は昨年以来肺壊疽に罹り容態捗々しからざるより本月上旬摂津西宮夙川の別荘に引移り当地楠本、高安両博士の治療を受け静養中なりしが二十四日夜遂に逝去せり、享年五十三、氏は当地大林徳七氏の三男に生れ少年の頃製図学を修め建築に興味を有するより夙に土木建築請負を営み大林組を組織してこれが社長となりし以来著々事業を拡張し目下関西における屈指の土木建築業者をもって知られ当地の第五回勧業博覧会、東京中央停車場、大阪箕面電鉄工事等いずれも同社の請負にかかるものにして、氏は又先年桃山御陵の御造営を仰付けられ御斂葬の砌幄舎内参列の光栄に浴したることあり現に大林組社長たる外広島電鉄、日本製樽会社各社長、日本傷害保険、電気信託、大阪港土地会社各取締役並に京津電鉄会社監査役たり、氏は任侠肌なる世話好の人にて壮年の頃には随分豪遊を試み華やかなる遊びぶりを見せたることもありしが晩年は専ら書画骨董を愛し殊に故橋本雅邦の画風を喜びてその画幅を蒐集するに余念なかりしという、同邸にては喪を秘し居れり

二十七日密葬。西宮満池谷火葬場において遺体を荼毘に附した。当日社員を代表し白杉が霊前に次の弔辞を献げた。

弔辞

維時大正五年一月二十七日、大林組支配人白杉亀造店員一同ヲ代表シ、謹ンデ我ガ店主ノ霊ニ告グ店主ノ土木建築業ヲ創剏セラレシハ実ニ去ル明治二十五年ニシテ、爾来二十有余歳、幾多ノ荊棘ガ前途ヲ遮ルモノアリシト雖モ、剛侠不羇ノ天資ハ克ク其ノ難局ヲ踏破シ、遂ニ斯界ニ巨然タル地歩ヲ占ムルニ至レリ、殊ニ近年、畏クモ桃山両御陵造営ノ大命ヲ拝シ、至誠以テ任ヲ果シタルノ時、草莽微臣ノ名、忝クモ、天闕ニ達シタリト拝聞ス、嗚呼何等ノ光栄ゾヤ、店主ハ其ノ業ニ熱心ナルト共ニ、店員ヲ愛撫セラルルノ情実ニ慈父モ只ナラザルモノアリ、時ニ或ハ厳令トナリ、或ハ叱咤トナルコトアリト雖モ、衷心ノ温愛ハ汲メドモ尽キズ、店員咸ク其ノ徳ニ服シ、相椅リ相扶ケ、業務ニ精勵スルコト一家ノ如シ、是レ全ク店主ノ薫化ニ外ナラザルナリ、今ヤ業務ノ基礎漸ク固キモノアリト雖モ、斯界ノ前途尚遼遠ニシテ扶掖指導ヲ仰グコト愈切ナルノ秋ニ於テ、不幸溘焉トシテ長逝セラレ、空シク柩前ニ哭スル悲嘆ニ沈マントハ、嗚呼哀イ哉、我等ハ再ビ得ル能ハザルノ慈父ヲ永劫ニ喪ヘリ、萬斛ノ涙ヲ灑グモ奈何ゾ其ノ温容ニ接スルコトヲ得ン、唯我等ノ往ク道ハ一アルノミ、今後倍々意ヲ励マシ、協心戮力、慈父ノ遺業ヲ振興シ、業務ノ盛隆向上ヲ遂ゲ、以テ尊霊ヲ慰メ奉ラントス、惟フニ英霊長ヘニ我等ヲ愛撫加護セラルベキヲ信ズ、綿々タル哀情爰ゾ一篇ノ文辞ニ盡クスヲ得ン、茲ニ恭ク敬慕哀悼ノ意ヲ表シ奉ルノミ、翼クハ英霊瞑リ安ラカナレ、噫

大正五年一月二十七日
白杉亀造

一月二十八日発喪。各新聞に死亡広告を掲載した。息義雄と女婿賢四郎の二人の名義で、親戚総代として、大林亀松、大門益太郎、砂崎庄次郎、濱崎永三郎の四氏、友人総代として今西林三郎、片岡直輝、高倉藤平、男爵郷誠之助、志方勢七、七里清介の六氏が名を連ねられた。合資会社大林組も伊藤、白杉両代表社員の名義で死亡広告を掲載した。

越えて二月二日午後二時、大阪四天王寺本坊において本葬を執行した。まことに盛儀を極めたが、その状況について三日の大阪毎日新聞は次のとおり報道している。

当地大林組相談役故大林芳五郎氏の本葬儀は既記のごとく二日南区四天王寺本坊内において執行さる。正導師京都小松谷御坊大門了康氏、脇導師当地龍淵寺住職河原秀孝師以下各僧侶着席にて午後三時法要に入り、済生会長徳川公爵代理、日本赤十字社長花房公爵代理、東京建築協会理事横川博士及び友人総代今西林三郎氏等の弔辞、弔文についで喪主義雄氏、未亡人きみ子氏以下各親戚等の焼香ありて静粛のうちに五時式を終りたるが、会葬者は無慮三千数百名のほか南北各遊廓の女将芸妓連なども多数見受けられ、寄贈の供花は上原大将、中島、郷各男爵等数十個に及び境内は非常な雑沓を見たり。

この日友人総代として今西林三郎氏から次の弔辞が献ぜられた。

弔辞

維時大正五年一月二十四日、友人大林芳五郎君疾を以て夙川邸に逝く、嗚呼哀しい哉、君幼にして父に別れ具さに辛酸を嘗め、奮然志を立てゝ東京に出で、土木建築の業務に従事すること数年、一意勵精、能く事業の蘊奥を究め、遂に明治二十五年大阪に於て独立その業を剏め、年を閲すること二十数年、経営企画宜しきに適ひ、漸を追うて地歩を占め、創業以来今日に至る迄その施工せる請負事業は約数千万円の巨額を算す、而してその大なるものは先に在っては第五回内国勧業博覧会の建築、大阪湾築港工事を始め、軍用鉄道の敷設、陸軍病院及兵営の建設等殆ど楼指するに遑あらず、更に最近に於ける大阪軌道の生駒隧道の開鑿並に東京中央停車場の築造の如き、孰れも空前の巨工たらずんばあらず、曩に、明治天皇崩御あらせらるゝや、特命により御陵の造営に奉仕し、その御斂葬に際しては草莽の身を以て畏くも幄舎参列の恩命に浴したるのみならず、伏見桃山東陵の工事担当の栄を荷ひたるは洵に絶大の令誉なり、是より先、明治四十二年七月個人経営の方針を改め、合資会社大林組を組織し、時勢の推移に伴ひてその規模を拡張し、多年その事業に参与せる有為の士をして業務を担任せしめ、自ら監督の衝に当り、深くその部下を愛撫して苦楽を共にし、事業の基礎歳と共に益鞏固を加ふるに至れり、業余、又力を経済界に注ぎ各種の事業を発起経営し、現に広島電気軌道及日本製樽両会社の社長たり、惟ふに君、資性任侠にして然諾を重んじ、頭脳明晰にして裁断流るゝが如く、豪胆能く事に当り、百折不撓、万難を冒して敢て屈せず、遂に今日あるを致せり、君は実に我国土木建築界の覇王にしてその手腕声望共に儔するものなし、その業界に於ける功や決して没すべからず、然るに今や溘焉として長逝す、嗚呼哀しい哉、君年歯未だ耳順に達せず、前途多望の身を以て空しく黄泉の客となる、洵に痛悼の至りに堪へず、茲に友人を代表して粛んで英霊を弔し哀悼の意を表す、尚くば享けよ

大正五年二月二日
友人総代 今西林三郎

芳五郎の死去に伴って合資会社大林組に対するその出資持分三十万円を継承し息義雄の出資持分は従来の十万円と合せ四十万円となった。大林家及び大林組の後事に関しては、既に大正四年暮れ再起不能を覚った芳五郎から片岡直輝翁と渡辺千代三郎氏に託するところがあり両氏の快諾を得ていたが、大林家は前述のとおり北浜銀行に対する債務弁済のため財産の整理中であり、芳五郎の死とともに世上大林組の危機が伝えられ、大林家の財政整理と大林組の維持には名状し難い苦心を要した。この間における伊藤、白杉の苦心と努力には筆紙に尽し得ぬものがあった。しかし同時にこの危局に際して大林家及び大林組に寄せられた今西林三郎、片岡直輝、高倉藤平、谷口房蔵、天野利三郎、志方勢七の六氏の御支援は感謝の言葉もないのであって、両者の今日あるは全く六氏の御厚情によるものにほかならぬと申さなければならない。

大林組危うしとの風説に対し当社は先ず次の書信を各官庁、会社等の得意先へ発送した。

粛啓 厳冬之候冱寒烈敷候処各位御機嫌麗はしく起居被遊候哉御伺申上候降而當組社長大林芳五郎死去致候に就ては世間何彼と噂有之候由に候へ共當大林組は依然として存續するは勿論今後益々発展を期し居り嗣子義雄其後を引継ぎ従前通り従業致居候に付何卒倍旧の御愛顧を賜り度希望仕候 殊に今後は更に時代に副ふべき設備万端一層相整へ貴需に応じ候覚悟に有之又其内容等に就ても何等支障なく充実致居候条是亦御安心被成下度茲に得貴意候 敬具

大正五年二月
大林組代表者
伊藤哲郎
白杉亀造
岡胤信

更に翌々四月、前記今西林三郎氏等六氏の後援状を得、重ねて各方に書状を発した。後援状及び会社からの依頼状は次のとおりであった。

拝啓 春色漸深候処愈御清適之条欣賀之至に御座候 陳者友人大林芳五郎氏之長逝に付合資会社大林組業務の状況並に将来之所期に関し代表社員等より呈一書候通り同社之基礎逐年堅実を加へ如何なる重要工事をも御高嘱に応じ得る事は小生等の確信する所に御座候而已ならず亡友之遺嘱も有之将来小生共後援監督可仕候間一層之御庇護を賜り候様特に御依頼申上候 敬具

大正五年四月
今西林三郎
片岡直輝
高倉藤平
谷口房蔵
天野利三郎
志方勢七

謹啓 時下春暖之候愈御清暢被為渉奉敬賀候 扨弊組土木建築請負業之儀ハ去ル明治二十五年来故大林芳五郎一個人ニテ経営致候処業務次第ニ盛大ニ赴キ候間更ニ其基礎ヲ永遠ニ確立セシメンカ為同四十二年之ヲ合資会社ノ組織ニ改メ下名等ニ於テ業務一切ヲ継承シ芳五郎ハ相談役トシテ注意奨励ニ力メ居候処幸ニ事業ハ年ト共ニ隆盛ニ向ヒ候段全ク御高庇ノ賜ト難有感佩仕候然ルニ過般不幸ニシテ芳五郎長逝シ熱心ナル相談役ヲ失ヒ候へ共創業以来既ニ二十五年組織変更後八星霜ヲ閲シ候事トテ其経歴ト共ニ営業ノ基礎鞏固ヲ加へ如何ナル重要工事ノ御高嘱ニモ応シ得候事ト竊ニ自信仕居候折柄更ニ有力者ノ後援ヲ得候ニ付今後一層奮励業務ニ盡瘁シ以テ従来ノ御眷顧ニ奉酬度何卒鄙衷御諒察ノ上倍旧ノ御用被仰付度奉悃願候 敬具

大正五年四月
合資会社 大林組
代表社員 伊藤哲郎
同 白杉亀造
技師長工学博士 岡胤信

六氏の御懇情はまことに感激のほかない次第であるが、会社の維持存続のために努力する主脳部の烈々たる熱情と気魄は今にして深く心を打たれるものがある。なお、会社の再建資金について天野利三郎氏から破格の御厚意を得たことを記して置かねばならない。

大林組が店主の死とこれに続く危局に立って苦闘を続けている間にも時世は大きく移り変っていった。前年後半来漸く景気は好況に向い、出超三億数千万円を超え、商工業は振興を促進され、金融緩慢となり株価は昂騰した。大戦景気が始まったのである。造船、製鉄等時局に関連する事業、電気、精糖、鉄道軌道の敷設その他各種工業が勃興し、特に紡績事業が殷賑となり工場の増設が続き、新規に事業を開始するものも少なからず空前の盛運であった。かくしてこの年の当社の請負総額は前年に比し概ね倍増し三百万円に近かった。

この年請負の決定したものに、日清生命本社、日本郵船大阪支店、日本貯蔵銀行本店、古河合名会社大阪支店、第百四十七銀行本店、浅野造船所船台その他、大阪鉄工所、鐘淵紡績兵庫工場、同洲本工場、谷口綿布吉見工場、日本紡織大和田工場敷地造成、日本火薬厚狭工場、東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠小倉旋鑪工場、兵庫電気軌道塩屋明石間第一工区、箕面有馬電気軌道十三線等の工事があり、又、竣功した工事に、東京鉄道病院、高崎専売支局煙草工場、横浜生命本社、伊藤忠商店、住友電線製造所、大阪鉄工所桜島機械工場、山陽本線姫路網干間複線工事、行橋、肥前山口、佐賀各停車場拡張等の諸工事がある。

三月、小津利一、十月、渡部圭吾が入社した。

後援者から発せられた後援状
後援者から発せられた後援状

大正六年(一九一七年)

輸出貿易は依然として出超を続け、年末のわが国の正貨保有高は十億を超えたが、前年末のドイツの講和提唱によって株式の大暴落を誘致し、企業活動はやゝ頓挫をみるに至った。その後綿糸の急落があって、経済界に少なからぬ影響を与え金融界の警戒を喚起し、後半年に入って新規事業は阻止せられるに至った。しかし、建設業界は前年来の好況を受け繁忙を続け、当社のこの年の請負総額は前年よりも更に七割近く増加して四百八十万円を超え、工事件数又五割を増加し、営業成績は極めて良好であった。

七月、久保彌太郎が入社した。

大正七年(一九一八年)

この年に入ると時局関係事業の盛況をみ、景気は恢復に向い各種企業の勃興をみたが、物価特に米価の大昂騰をみ、各地に擾乱が起った。そして十一月連合国とドイツとの間に休戦条約が締結され、大正四年勃発以来四年を経たさしもの大戦争も終結をみたが、国内では休戦による反動で綿糸、銑鉄等が大暴落した。建設業界は年間を通じ引続き繁忙であって、当社のこの年の受託工事の総額は更に前年を上回る好調を示した。

この年十二月一日創立総会を開催、株式会社大林組を設立した。設立は募集設立の形式により、発起人は大林義雄、大林賢四郎、大林亀松、伊藤哲郎、白杉亀造、岡胤信、有馬義敬、松本禹象の八人、資本金は五十万円で額面金額五十円の株式一万株を発行、一株の払込金を三十円とし、発起人が九千六百株を引受け、残りの四百株を植村克己と富田義敬が二百株づつ引き受けた。創立総会において取締役五名と監査役一名を選任、取締役に大林義雄、大林賢四郎、伊藤哲郎、白杉亀造、岡胤信が、監査役に大林亀松が選任され、且つ取締役会において社長に大林義雄、常務取締役に大林賢四郎、伊藤哲郎及び白杉亀造の三人が互選された。本社は大阪市東区北浜二丁目二十七番地ノ乙に置き、東京市麹町区内幸町一丁目三番地に東京支店を置いた。

七月、河合貞一郎が、十月、塚本浩が入社した。

大正八年(一九一九年)

この年の当社の受託総額は前年のそれよりも更に六割増加して一千万円に近かった。工事数は逆に二割を減じたが、受託総額が増加したのは物価、労銀の騰貴の関係もあるが、やはり業務の繁忙を示すものであり、工事数が減じたのは工事の規模が次第に大きくなったことを示すものである。

四月に道路法、都市計画法、市街地建築物法の三法律が公布された。この頃から戦後景気で投機熱が旺盛を極め一大ブームを現出し、次の年の三月頃まで続いた。又、海運業が未曽有の好況を示したことや、工業生産高が初めて農業生産高を凌駕するに至ったことも注目すべき事柄であろう。

三月十日、株式会社大林組と合資会社大林組の合併が成立した。前年の十二月一日両者間に締結された合併契約書の主な内容は、(一) 合併により合資会社は解散し株式会社は合資会社の営業権、老舗、営業機関、諸設備その他一切の権利義務を継承して存続すること、(二) 合資会社の大正七年十一月三十日現在の総財産の合併価額を九十万円とすること、(三) 株式会社は、資本金を百五十万円増加し、額面金額五十円にして三十円払込済の株式三万株を発行し、合資会社の出資社員に対し各自の出資額に按分して交付すること、等である。株式会社大林組はその年十二月十七日臨時株主総会を招集して所要事項を付議々決し、合資会社大林組又その手続を終り、前述のとおり三月十日臨時株主総会において合併を承認、翌十一日登記を了した。この合併によって当社の資本金は二百万円、払込済資本金は百二十万円となった。この時小倉市米町二丁目三十二番地に小倉支店を置いた。又、この時大林組社員援護会が組織された。この会は、「事業経営ニ就テハ資本ト労務トノ関係ヲ一層親密ニシ其結合ヲ鞏固ナラシメ以テ益々基礎ノ堅実ヲ図ルト同時ニ各位ニ対シ其生活ノ安定ヲ保維スベキ途ヲ講スルノ緊要ナルヲ惟ヒ」(当時の社内発表文による。)大林家から社員に贈るものとして寄贈された当社の株式一万株の管理機関として組織されたのであって、そのうち六千四百八十五株は当時既に勤続十年以上に達していた社員に贈られ、残余はこの会が配当金とともに管理し、将来社員で勤続十年以上に達する者に贈られることゝされた。この制度は当時わが国では珍しい制度とされた。この会は、昭和十六年勤続表彰を会社自体が行うことゝし、別段の定を制定するまで存続してよく当初の目的を達成した。

この年まで当社は本店を大阪市東区北浜二丁目二十七番地ノ乙に置いていたが、かねて大阪市東区京橋三丁目七十五番地に新築中の新社屋が完成したので七月一日移転した。

十一月十七日、かねて病気のため療養中であった常務取締役伊藤哲郎が死去した。享年僅かに四十九才。創業日なお浅かった明治二十六年当社に入社以来よく芳五郎を佐けて大功があり、まだまだ当社の発展のために尽されるものと期待されていたこの人の意外の早逝を社内挙げて悲しんだ。

十一月、高橋誠一、本田登が米国へ出張した。

当社の新社屋(大正13年撤去新築)
当社の新社屋(大正13年撤去新築)
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