人間の食感覚の進化、食環境の変化とこれからの食

日下部裕子(農研機構 食品研究部門 食品健康機能研究領域 感覚機能解析ユニット長)

テクノロジーの進化と食環境の変化

産業革命、世界大戦を経て、他の産業と同様に農業も食品産業も大きく進展した。体が必要とする以上の食糧を容易に得ることができるようになっただけでなく、食品に含まれる成分を抽出したり精製したりすることができるようになった。また、食品の成分が体に作用するメカニズムも明らかになってきた。これらの大きな食環境の変化を受けて、私たちはこれまでにない食行動をとるようになった。

一つ目として、以前よりもっと、自分の好みにあったものを食べるようになったことが挙げられる。例えば、野菜には苦味のあるものが多いが、以前は、せいぜいあく抜きをすることくらいでしか対処できなかった。苦味の成分の中には体の調子を整えるような機能を持つものも多い。よって、食べ続けていると体は摂取してもよいものと判断し、味の特徴として受け入れられてきた。ところが、現代の技術により、より苦味の少ない品種であったり、苦味やえぐ味を持つ成分を積極的に取り除いたり、マスクしたりすることができるようになってきた。サプリメントで苦手な成分を摂取してしまおうとする流れもある。極端な話としては、体に必要な成分を人工的に混合した食品を作り、普段はそれだけを食べて生活し、自分の好きな食事は栄養のためにではなく喜びを得るために時々とるといった食生活をしている人までいる。以前より苦味が苦手な方が増えてきたと聞くことがあるが、このような背景があるのかもしれない。また、やわらかい食べ物が多くなってきたことなども、同様であろう。体にストレスを与えないような食べ物にシフトしていっているように思う。そのようにして「おいしさ」は体が求めるからではなく、期待に沿うかどうかが主となってきた。これは報酬効果によるところが大きく、心が優先される食生活であるといえよう。

二つ目としては、情報によって食べるものを決めることが多くなったことが挙げられる。私たちは食欲がなければ何も食べる気にはならないので、まだ、体に摂食行動の最終決定権がある。しかしながら、普通の健康状態で普通の生活を営んでいれば、食の選択の多くに文字情報が関わってくる。文字情報は好ましくないものを食べるモチベーションにもなる。テレビで体に良いといっていたから食べてみる、ということはよくある話である。健康診断などの数値を見て、カロリーコントロールをしたり、食べるものを選んだりといったこともあるだろう。好ましいものを文字情報で決める作業は日常茶飯事である。文章を読みながら、食べ物を頭の中に思い浮かべ、今晩はこれを食べようと考えるのはとても楽しい。

さまざまな機器分析の技術が進歩してさて、私たちがおいしいと思う食事がどのようなものであるか、成分分析、行動分析、官能評価などさまざまな角度から収集・解析されるようになった。ここに人工知能(Al)が加わり、私たちの体調や好みにあった食事を提案してくるようになり始めている。AIによる提案は、これまで、体が要求したものを脳が具体的な食べ物として提案してきた行為を肩代わりするものである。この動きが加速していけば、味や匂いといった食の感覚は、体にとって益になるか害になるかを判断する役割を持たなくなり、生活を楽しむための感覚になっていくかのかもしれない。人間にとっての聴覚は、自分の周りの状況を判断するものとしての機能だけではなく、音楽のように楽しむことを主目的とするための役割を担っている。同様に、食の感覚も楽しむためのものになっていくのかもしれない。

日下部裕子(農研機構 食品研究部門 食品健康機能研究領域 感覚機能解析ユニット長)

1970年東京都生まれ。1998年、東京大学大学院農学生命科学科修了。農学博士。同年、農林水産省食品総合研究所(現所属の前身)に入所。2016年より現職。大学4年から一貫して脊椎動物の味を受け取る仕組みについて研究を続けている。著/編書に『味わいの認知科学』(和田有史と共同編集)。

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