人間の食感覚の進化、食環境の変化とこれからの食

日下部裕子(農研機構 食品研究部門 食品健康機能研究領域 感覚機能解析ユニット長)

今、何を食べるべきか?

以上のような食環境や食行動を受けて、よく、昔の食生活に戻るべき、といった意見を耳にすることがある。何千、何万年先といった遠い将来までを考えるのであれば、私は、食生活に正解はないと考える。生物は、環境に応じて変化していく、つまり進化するわけで、そのようにして私たちの今の体があると思うからだ。人間も、調理しないで獲物や植物をかじっていたときには、今よりも上あごが前に出ていて、かじったり噛み切ったりする力も強かった。よりやわらかい食事へと変化することで、将来の人間の咀嚼(咀嚼)能力はさらに減退し、それに対応した生体の仕組みへと進化していくことだろう。

現在は、口腔に食品を入れて味を感じると自動的に唾液が分泌されたり胃が動いたりして消化するための準備を行うが、カロリーのない甘味や苦味を排除した食品を食べ続けたり、情報で食べるものを判断するようになれば、そのような仕組みも衰退していくのかもしれない。進化してしまえば、咀嚼しなくても、味が摂取の可否を判断しなくても、それに適応した体になっているのだから将来を憂う必要はないのではないかと考えている。

心配しなければならないのは、体が進化していないのに体が必要なものを感じ取る力をなくしつつある現在の私たちであろう。健康な体を維持するには、私たちの体が過去の食環境に対応したものであることを理解した食生活をする必要があるのではなかろうか。それには、完全に昔に戻るのではなく、農産物を丸ごと使って調理をしていた昔の食事を参考にしつつ、現代の技術を補助的に使って、体にも心にもやさしい食事を模索できればと思う。例えば噛(か)み応えがあったり少し苦味やえぐ味のようなくせがあったりする農産物を丸ごと使う食事はどうだろう。口から栄養を摂らないと消化器官の能力が著しく低下するように、咀嚼をはじめとする消化機能は使い続けることに意味がある。また、苦味やえぐ味のある食材の摂取は、体に益になるものを多く含んでいる。よって、体にやさしい食事になる可能性が高い。心にはどのように訴えかけるだろう。噛み応えや特徴のある味は、食材の名前と食材の質、食べたときの体の調子を紐づけして記憶するのにうってつけである。

私たちの身の回りにはさまざまな食材があり、体にも心にもやさしいかどうかは個々によって異なってくるが、できるだけ自分の感覚を使って判断したいものである。文字や数値といった情報よりも、食べている最中に五感で感じた感覚、食べた後の体調や気分などで、その食材が自分の体と心にどのように作用しているかを積極的に感じることを優先したい。残念ながら人間には、体の調子を判断する能力が他の動物よりも低いので、体に判断のすべてを任せるわけにはいかない。健康診断や体重測定などの数値は、人間の衰退した機能を補うのに必須である。また、自分に合う食材を探すのには、現代の膨大な食の情報が助けになることだろう。そうして、心にも体にもやさしい食事、つまり、おいしくて健康に良い食事を個々が組み立てていく、といった能動的な食生活を送る人が一人でも増えればと、そして私もその一人になれるように心がけたい。

日下部裕子(農研機構 食品研究部門 食品健康機能研究領域 感覚機能解析ユニット長)

1970年東京都生まれ。1998年、東京大学大学院農学生命科学科修了。農学博士。同年、農林水産省食品総合研究所(現所属の前身)に入所。2016年より現職。大学4年から一貫して脊椎動物の味を受け取る仕組みについて研究を続けている。著/編書に『味わいの認知科学』(和田有史と共同編集)。

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