デジタルツインが育む「未来の建築」
茂木健一郎
人間の脳にとって、「現実」に対する「仮想」は常に大きな意味を持ってきた。そもそも、「言葉」自体が現実を記述しつつも、それを超えていく。
今日の人類にとって重要な「自由」や「平等」、「幸福」といった概念は、現実に発しつつも、仮想世界で成立するからこそ逆に現実を豊かに照射する。
近年、製造や建築、あるいは都市計画といった分野で注目されている「デジタルツイン」もまた、仮想を通して私たちが住むこの現実の世界を充実させようという、人類がずっと取り組んできた課題の新展開であると言える。
興味深いことに、仮想は現実よりも常に豊饒で自由である。仮想の世界のダイナミクスを十分に展開させてこそ初めて、私たちは現実世界を最適に近いかたちで構築していくことができよう。
安藤忠雄氏とお話しした時に印象的だったのは、この世界的建築家にしても、その頭の中で生まれた仮想の建築プランの多数は実現しないままに消えていくということだった。『連戦連敗』というタイトルの著書もある安藤氏。国際的な建築コンペは、つまりはグランドスラムで優勝するような選手ばかりが集うテニス大会のようなもので、誰が勝ってもおかしくないし、安藤氏でも負けて当然という状況なのだと理解した。「アンビルトの女王」と呼ばれたザハ・ハディド氏もまた、仮想の方が現実よりも豊饒で、だからこそ現実が照射される建築家だった。
芥川賞作品『コンビニ人間』が翻訳されて海外でも評判となっている村田沙耶香氏は、常に頭の中で物語を組み立てているのだという。例えば、映画を観ていても、この登場人物のキャラクター設定をこう変えたらどうなるか、物語の進行や結末の別のあり方はないかと想像を巡らせているとのこと。注目すべきは、これらの仮想世界の運動が、必ずしも自身の作品に直接反映されるわけではないということである。それでも、仮想の組み立てと解体を繰り返し、伏線を読む訓練をすることが結果としてすぐれた小説を生み出すことにつながっていく。
一般に、仮想対現実において、仮想の比率が高いほどクオリティは上がる。これは建築においても、小説においても、その他のジャンルにおいても同じことである。現実においては不可能な試行錯誤をするプラットフォームとして、仮想世界の「計算」が存在する。だからこそ、現実を豊かにすることができる。
「デジタルツイン」という概念は、コンピュータ科学者、デイヴィッド・ガランター氏の1991年の著書『ミラーワールド』(日本語訳は1996年)にその萌芽があり、2002年にマイケル・グリーブス氏によって製造技術の会議において提唱された。
現実を映す仮想空間として現在さまざまな応用が考えられているデジタルツインであるが、肝心なことは、その際の仮想対現実の仮想の比率を低く見積もり過ぎないことだろう。
仮想空間におけるシミュレーションが、現実そのもの、あるいはその近傍に限られる場合、それは現実を再現したり、現実におけるさまざまな計画や予測に関する分析を進める上では役に立つ。しかし、本来、仮想は現実の束縛を離れて自由に羽ばたいてこそ、現実をさらに豊かにすることができる。咋今の日本の状況を見ると、デジタルツインの自由な仮想空間としての性質を活かしたそのような演習こそ、意義が深いのではないかと思われる。
日本のバブル経済のピークにおいては、極めて大胆な建築プランが発表されていた。早稲田大学の尾島俊雄研究室は、山手線内のすべてを敷地とする、高さ1万メートル、居住者数3,000万人の「東京バベルタワー」構想を打ち出した。大林組は、東京湾に人工島を構築して、その上に500階建て、高さ2,001メートル、就業人口30万人、居住人口14万人のハイパービルディングを建築する「エアロポリス2001」の構想を発表していた。フランク・ロイド・ライト氏の計画から着想し、リニアモーター式の高速エレベーターを設置する壮大なヴィジョンだった。
バブル期の巨大プロジェクトは、今となっては現実的なものとは思えないかもしれない。その一方で、「こうであったかもしれない」世界を構想し、その中でのシミュレーションを通して現実世界でのオペレーションを充実させるという方法論は現在でも意義があり、それこそがデジタルツインの価値であると思われる。
仮想空間の計算が重要なのは、単にスケールの問題だけではない。今後の社会において重要な課題、例えば情報ネットワークでつながった自動運転車群、「自動車のインターネット」(Internet of Vehicles)を、どのように運営し、建築や街づくりとどのように連関させていくのかという課題にシミュレーションは欠かせない。リモートワークなど多様なライフスタイルが生まれる中で、人やモノの移動・流通をどう最適化していくかのシナリオづくりも本質である。
肝心なことは、建築や街づくりの仮想シミュレーションを、人間の経験と結びつけることである。客観的にどのような最適化が行われても、それが人間の経験の充実、幸福の増大につながらなければ意味がない。その意味で、デジタルツイン内の仮想を、人間の体験に結びつけるVR技術を充実させ、あたかも仮想が現実であるかのように被験者が体験し、主観評価する環境の整備は本質的な課題となるだろう。
人工知能研究者、エリーザー・ユドコフスキー氏は人間の知識、経験、価値観を総合する「統合外挿意思」(CEV, Coherent Extrapolated Volition)を未来のヴィジョンづくりにおいて重視することを提案している。デジタルツインの仮想空間を人と人とが空間や社会的な文脈を超えて出会う場所にすることができれば、現代の「エコーチェンバー(※1)」を超えた公共空間の構築に資するだろう。
※1 閉鎖空間でのコミュニケーションが特定の意見、梢報に同質化されてしまうこと
人間の脳において、意識は、自己と他者の関係を本質的に反映して作り出されていく。1990年代にイタリアの研究グループによって報告された自他を鏡のように映し合う「ミラーニューロン」などの活動を通して、意識の中のさまざまな表象がつくられる。
意識が生み出される上では、空間知覚も重要な意味を持つ。仮想や現実の空間認知に関わるミラーニューロンを含む神経活動は、今後私たちの意識を未知の領域へと導いていくだろう。
建築には、もともと、私たちのライフスタイルをかたちづくるポテンシャルがある。「統合外挿意思」をはじめとする集合知の深化は、今後の建築の大いなる可能性の一つだろう。
「未来の建築」は仮想が豊かに現実を照射するデジタルツインの中で育まれるのである。
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茂木健一郎(脳科学者、ソニーコンピュータサイエンス研究所上席研究員)
茂木健一郎(脳科学者、ソニーコンピュータサイエンス研究所上席研究員)
1962年東京都生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究科物理学専攻課程修了、理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。脳活動からの意識の起源の究明に取り組む。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『クオリアと人工意識』(講談社)。
No.61「デジタルツイン」
「デジタルツイン(Digital Twin)」は、現実の世界にあるさまざまな情報をセンサーやカメラを使い、デジタル空間上に双子(ツイン)のようなコピーを再現する仕組みのことです。
製造分野においては早くからこの仕組みを活用し、デジタル空間で事前のシミュレーション・分析・最適化を行い、それを現実空間にフィードバックする試みが行われてきました。現在では、IoTやAI、画像解析等の技術の進化により、さまざまな分野にその活用が広がりつつあります。
本書では、デジタルツインの全体像をとらえるとともに、今後の可能性を紹介します。また、大林組技術陣による誌上構想OBAYASHI IDEAでは、デジタルツインを活用したあらたな街づくりの在り方を描いてみました。
(2021年発行)