もうひとつの世界
藪前知子
芸術作品は、「もうひとつの世界」を私たちに見せる鏡として、世界の認識の仕方に大きな影響を与えてきた。デジタルツイン、ミラーワールド、メタバースといったデジタル世界のトピックが大きな話題となっているいま、ここでは、美術史上の作品からデジタルネイティブ世代のアーティストの作品までを紹介しながら、「向こう側の世界」が人間に与えてきた想像力と創造性について考えてみたい。
コロナ禍中における芸術分野での大きなトピックのひとつに、ブロックチェーンによる複雑な暗号を埋め込んだトークン(代理貨幣)が作品に紐づけられて売買されたことが挙げられる。「代替不可能なトークン」と訳されるNFT(Non-Fungible Token)は、その作品がこの世にひとつだけしか存在しないこと、そしてそれをその人が所有しているという事実を、デジタル上で証明する記録である。この技術によって、物理的に存在しないデジタルアートの「オリジナル/ユニーク(唯一)性」を証明することも可能になり、世界的に著名なオークションハウス、クリスティーズでデジタルコラージュ作品のNFTが、75億円で取引されたというニュースは驚きをもって世界を駆け巡った。
しかし、NFTに最初に反応したアーティストのひとり、ダミアン・ハーストは、すぐにその状況を批判的に展開する作品を発表した。その名も「The Currency(通貨)」という作品は、一万枚のドットを描いた絵画であるとともに疑似紙幣でもあるという、ハイブリッドな性質を持ったものであった。新たな貨幣のシステムを利用してアートの「モノとしての唯一性」を浮かび上がらせることで、ハーストは、NFTの持っている構造、現実と「もうひとつの世界」との対応関係を鮮やかに反転させてみせた。
絵画の起源について、古代ローマの博物学者、大プリニウスは、戦に向かう恋人の、壁に映った影をなぞった線がそれであるといい、イタリア・ルネッサンスの人文主義者アルベルティは、水鏡に映る自分に見とれるナルキッソスこそがその発明者であるという。世界を認識するために人間に備わった力とされる「representation」という言葉は「代理―表象」と訳される。アートとは、本質的には私たちの世界の「代理物」といえる。しかし同時にハーストが示したように、アートとは、それが単なる代理物であることを乗り越え、こちら側こそが現実なのだということを示そうとする、アーティストたちの実践でもある。デジタル時代の到来よりもずっと前から、私たちはアートを通して、「もうひとつの世界」こそが現実なのだという感覚について、すでに知っていたのではないだろうか。
Damien Hirst(ダミアン・ハースト)
NFTへの応答として発表されたダミアン・ハーストの《The Currency(通貨)》は、自らの2016年の作品をもとに手で描いた10,000枚のドットの絵だが、1枚ずつお札のようにサイン、透かし、エンボス、ホログラムなどの偽造防止措置が入り、物質としての「唯一性」も担保されるよう工夫されている。さらにNFTにも紐づけられ、1枚20万円でこれを購入した者は、物質としての作品とNFTのどちらかを選ばなくてはならない。NFTを選んだ場合、前者は消滅させられる。
Pablo Picasso(パプロ・ピカソ)
現実の精密な「写し」を描き出す卓越した技量をそなえていたピカソにとって、描くこととは、自分の作り出す世界の「現実性」を常に確かめ、更新することだったのではないだろうか。1920年代から特に最晩年に取りつかれたように描いた「芸術家のアトリエ」や「芸術家とモデル」というモチーフには、常に愛する女性をモデルに生活の全てを芸術の舞台としてきた、ピカソの本質的なテーマを見ることができる。《画家とモデル》は、バルザックの小説『知られざる傑作』やピグマリオン伝説などをもとに、理想の女性を追い求めて、芸術世界と現実世界が混在し、互いに影響を与えるヴィジョンを見ることができる。
Piet Mondrian(ピート・モンドリアン)
人間精神の進化をうたう神智学の分析から、「垂直と水平の直線、三原色と無彩色(黒、白、グレー)による純粋な関係」を理論的に導き出し、幾何学抽象絵画を達成したピート・モンドリアン。しかし彼はこの「新造形主義」という指針が、絵画だけでなく、ゆくゆくは現実の全てに進化をもたらすものと考えていた。《ブロードウェイ・ブギウギ》には、戦火を逃れてたどり着いたニューヨークの摩天楼の風景に、その実現が少しずつ達成されつつあるという彼の確信が込められている。アート作品だけでなく料理や髭剃り、ダンス、部屋のしつらえにも「新造形主義」を導入したモンドリアンは、いつの日か現実と作品世界のあいだのミッシングリンクが埋められることを信じていた。
Viviane Sassen(ヴィヴィアン・サッセン)
鏡の向こう側、あるいは影が支配する「もうひとつの世界」のヴィジョンを、現代において最も鮮烈に打ち出しているアーティストのひとりに、アートとモードの両方の領域で活躍する写真家、ヴィヴィアン・サッセンがいる。幼少期をアフリカ・ケニアで過ごした彼女は、ヨーロッパに戻り、パラレルワールドに閉じ込められたような感覚を持ったという。彼女自身が「別世界」と呼ぶ、遠い過去の記憶や無意識の領域を探るなかで生み出されたイメージの数々は、虚実や生死の境の彼方へと見るものを誘い出す。ロックダウンのさなかに発表された《Venus and Mercury》は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で撮影された写真を中心に構成されたシリーズである。彼女にとって「別世界」を象徴する鏡の存在に強くインスパイアされながら、サッセンは病や愛、欲望に彩られた歴史と現在とを鮮やかに重ね合わせる。
PUGMENT(パグメント)
「ファッション」という、欲望とイメージに彩られ刻一刻と変化していく現象を、あたかも生き物のように扱いつつ制作に取り入れてきた日本の若いファッションレーベル、パグメント。インターネットで服を探し、手に入れることが当たり前となった時代においては、イメージの世界と現実の自分の身体のズレが、リアリティをもたらすのだと彼らは言う。彼らの2017年の初めてのシーズンコレクションは、インターネットで収集したモード写真を自身の姿と合成し、インスタグラムにアップする女性にインスパイアされたものだった。
《Magnetic Dress》は、路上に落ちている服の写真を撮影し、そのイメージを全面転写して新しい服を制作するプロジェクト。かつて服はその人のアイデンテイティを示す記号だった。出自がわからず落ちている服には、自分とは誰なのか、拠りどころなく彷徨う現在のファッションをめぐる心象が重ねあわされている。イメージと現実、ふたつの世界を往遠しながら「私という表現」を探す旅。
木村翔馬
1996年生まれのデジタルネイティブ世代のペインターである木村翔馬は、カンヴァスに絵具を用いる従来の制作方法と、3DCGやVRというデジタル技術とを行き来するなかで作品を生み出してきた。
デジタルで描かれ、重力をはじめとする物理的な条件から解放された絵画が現実世界に出力される一方で、そこには予期せぬ不自由さもあると作家は言う。たとえば水の中にいるような遅くて重い動きや、他者とは共有できない空間体験などがそれである。しかしデジタルと現実世界の摩擦は、描いている作家の身体を更新させ、現実世界をも変えていく。絵画という最も古いメディアを通した、ふたつの世界をつなぐ実験空間の創出である。
藤倉麻子
開発途上にある工業地帯に生まれ、そこを原風景として育った藤倉麻子は、都市のインフラの細部を切り取り、ポップな色彩を伴って構成した仮想空間を、3DCGアニメーションで作り出す。生き物のように動く人工の構造物は、監視カメラのような観察者の視点から捉えられている。見たことがないのに見たことがあり、存在しないのに存在している空間。
それは藤倉にとっては、見慣れた現実の風景から解放されるための、文字通りのユートピア(どこでもない場所)だ。人間と非人間、人工と自然の対立もなく、異なる時間と空間が並列する、フラットな調和の世界。アーティストはその「もうひとつの世界」に、有限の生を超えるための想像力を託すのだ。
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藪前知子(キュレーター、東京都現代美術館学芸員)
藪前知子(キュレーター、東京都現代美術館学芸員)
1974年東京都生まれ。これまでの主な担当企画に「大竹伸朗 全景 1955-2006」「山口小夜子 未来を着る人」「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」「クリスチャン・マークレートランスレーティング[翻訳する]」など。外部企画に「札幌国際芸術祭2017」「gallery α Mプロジェクト東京計画2019」など。近現代美術についての寄稿多数。
No.61「デジタルツイン」
「デジタルツイン(Digital Twin)」は、現実の世界にあるさまざまな情報をセンサーやカメラを使い、デジタル空間上に双子(ツイン)のようなコピーを再現する仕組みのことです。
製造分野においては早くからこの仕組みを活用し、デジタル空間で事前のシミュレーション・分析・最適化を行い、それを現実空間にフィードバックする試みが行われてきました。現在では、IoTやAI、画像解析等の技術の進化により、さまざまな分野にその活用が広がりつつあります。
本書では、デジタルツインの全体像をとらえるとともに、今後の可能性を紹介します。また、大林組技術陣による誌上構想OBAYASHI IDEAでは、デジタルツインを活用したあらたな街づくりの在り方を描いてみました。
(2021年発行)