日本の南と北の船

安達裕之(日本海事史学会会長、東京大学名誉教授)

瀬戸内海・太平洋の準構造船

有史以前から世界各地で木造船が造られてきたが、地域が違えば、船体構造も艤装も異なるのが木造船の常である。中国大陸と朝鮮半島と日本列島でまったく別の船が発達したのも、不思議はない。地域が同じでも、船が同じとは限らない。日本列島の南と北の船がそうである。

出土した大型船を手がかりに絵画資料を読み解き、瀬戸内海・太平洋の中世の海船を解明したのは海事史学者の石井謙治である。石井は、丸木船を単材刳船(くりぶね)、複数の刳船部材を前後に継いだ船を複材刳船、単材刳船もしくは複材刳船に棚板を取りつけた船を準構造船と命名した。

天保9年(1838)に尾張国(おわりのくに)海東郡諸桑(もろくわ)村(愛知県愛西市諸桑町)で川浚えの最中に4材構成の複材刳船が出土し、明治時代以降の土木工事の際に大阪市内の鼬川(いたちがわ)・鯰江川(なまずえがわ)・大今里から複材刳船の残欠が出土した。

尾張国諸桑村で長さ15間(27m)の刳船が出土したことを伝える瓦版。12世紀の貴族の日記などに散見される「二瓦」(4材の刳船部材を継いだ大型川船)の可能性がある ©愛西市教育委員会
明治11年(1878)に鼬川から出土した複材刳船の残欠

刳船部材の樹種はいずれも楠であり、鼬川と大今里の船の舷側(船体の側面)には棚板を取りつけた痕跡が認められた。大型船を描く絵巻物を博捜して比較検討した石井は、船底部の船首尾が板張りでは工作不可能な二重曲面を呈していると指摘して、船首尾は刳船部材と断じ、船首-胴-船尾の3材の刳船部材を前後に継いだ船底部に棚板を取りつけた準構造船が中世の海船として用いられていたことを明らかにした。

中世の絵巻物に描かれた大型船の船首(右)と船尾(左)
14世紀前期の準構造船(『松崎天神縁起』より) ©防府天満宮

楠の刳船部材を前後に継ぐのは、楠が幹は太くとも低いところで枝分れして長さが不足するためである。中国山東省平度市で3材構成の複材刳船を左右に並べて編んだ隋代の組船が出土しており、弥生時代に水稲技術や金属器などとともに複材刳船の技術が伝来した可能性がある。興味深いのは、半円筒の形状が屋根瓦を思わせるところから、胴の刳船部材が船瓦もしくは瓦と呼ばれたことである。

土橋に転用された廃船の胴の刳船部材。船材は古くからリサイクルされていた(『住吉物語絵巻』より) ©静嘉堂文庫

後に刳船部材を継いだ船底部は板材に取って代わられるが、瓦の称はそのまま残り、江戸時代には瓦の他に甎・航などの字をあてた。

準構造船から棚板造りの船へ

応永8年(1401)に足利義満が明に入貢して以来、天文16年(1547)まで18次にわたって遣明船が派遣された。遣明船には瀬戸内海の1,000石積以上の商船が転用された。遣明船の具体的な姿を探るうえで不可欠なのは、『神功皇后縁起』に描かれた新羅征伐に向かう神功皇后軍船である。永享5年(1433)4月に絵巻物を誉田(こんだ)八幡宮に奉納した将軍足利義教(よしのり)は、先先代将軍義持が断絶した明との国交の回復を図り、前年8月に兵庫に下向して再開第1次の遣明船の出帆を見送っており、絵師が遣明船を手本に神功皇后の軍船を描いた可能性が考えられよう。軍船の搭載する四爪碇(よつめいかり)は形状からして中国製であり、『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』の「公方様之碇」の公算が大となればなおさらである。

住吉明神が軍船を押し出す段を見ると船尾に刳船部材が描かれているので、神功皇后の軍船は準構造船である。

神功皇后の軍船。船尾の白服の老人は住吉明神で、手で押している黒い部分が刳船部材(『神功皇后縁起』より) ©誉田八幡宮

しかし、『北野天神緑起絵巻(承久本)』の菅公西下の段の準構造船と比べると、菅公の梁間1間(はりまいっけん)の屋形に対し、神功皇后の屋形は梁間3間と格段に大きい。神功皇后の船は棚板を寝かせて幅を広げていたに相違なく、準構造船の大型化には限度がなかったことを物語っている。

大宰府に配流される菅公の乗る13世紀前期の準構造船(『北野天神緑起絵巻(承久本)』より) ©東京大学駒場図書館

遅くも16世紀初めには準構造船の船底部を板材に置きかえた棚板造りの船が出現していたことは間違いなく、大型船に必要な楠の大材の不足が原因だろう。棚板造りは、航(瓦)と呼ぶ船底材に数枚の棚板を重ね継ぎし、多数の船梁で補強した船体構造で、棚板構成は根棚・中棚・上棚の三階造りと中棚を欠く二階造りが基本である。いかに長大で幅が広くとも、航や棚板などは何枚もの板を縫釘と鎹(かすがい)ではぎ合わせれば簡単に作れる。棚板造りの商船を代表するのが弁才船(べざいせん)、今日、千石船と俗称される船である。

もとより、準構造船と棚板造りの船は船底部を異にするだけである。一見、紙一重の差とも思えようが、重大な結果をもたらしたはずである。楠の刳船部材という特殊な材が不要になれば、船材の選択範囲が広がり、それだけ造船が容易になるからである。

日本海の面木造りの船

このように瀬戸内海・太平洋の船の発達過程は楠を抜きにしては語れないが、楠の生育しない日本海の船の発達過程が異なるのも不思議はない。しかし、大型船の出土例はなく、日本海の船は絵巻物に登場せず、近世初期の海運で活躍した商船も早くに哀退し、満足な造船関係の資料を今に伝えていない。そこで漁船に注目すると、近年まで各地に残っていた八郎潟の潟船(かたぶね)、越後のドブネ、中海(なかうみ)のソリコ、隠岐のトモドといった漁船は一対の面木(おもき)を有していた。面木は、丸木から刳り出したL字形に近い断面形状を有する材である。延宝3年(1675)2月に改定された津軽藩の13における各種材木の山方銀つまり造材費を比べると、面木は板や帆柱よりも格段に高く、面木の造材には手間がかかったことがうかがえるから、姿を消して久しい商船の面木も漁船同様の刳り出し部材であったことは疑いない。

越後のドブネ(上)と認岐のトモド(下)の中央断面図(縮尺不同)

南部藩の定めた船税徴収のための測度法の条文から面木造りの商船として北国船(ほっこくぶね)・羽ヶ瀬船(はがせぶね)・木附船・間瀬船・組船が存在したことは確かであるが、造船関係の資料を欠くため不明な点が多く、具体的な姿は絵の残る北国船と羽ヶ瀬船しかわからない。

寛永10年(1633)に敦賀の津軽藩蔵屋敷留守居役庄司太郎左衛門が津軽深浦の円覚寺に奉納した北国船の絵馬
明和3年(1766)に船主岡崎源左衛門が地元の越後能生の白山神社に奉納した羽ヶ瀬船の絵馬 ©能生白山神社

面木造りの船体については、南部藩の測度法の図解に載る北国船と羽ヶ瀬船の拙い断面図からおおよその見当がつく。対向する面木の下端に丁板をはぎ合わせて船底部とし、上端に順次外板をはぎ合わせ、最後に切懸と称する棚板を重ね継ぎした船体がそれである。

秋田藩の『能代木山方旧記』によると、杉1本から片舷の面木を採出しているので、明らかに面木は直材であり、形状と寸法からして、面木を曲げるのは不可能であるから、船首部を除いて、面木造りの船体の両舷は平行であったに違いない。船首の丸い北国船の平面形状を念頭に置けば、大坂の船匠金沢兼光が宝暦11年(1761)自序の著書『和漢船用集』の中で北国船について「俗呼てトンクリ舟と云は、其(その)形の似たるを以(もって)いふなるべし」と指摘したのも納得がゆこう。

津軽藩の記録によると、1,600石積には9尋(ひろ)(1尋は約1.5m)の面木を用いる。弁才船の場合、大坂の船匠長谷川孫兵衛延盛の編んだ『荷船石積寸法仕方書』によると、航長さは、600石積で9尋、1,600石積で11尋1尺8寸だから、同じ積石数なら面木造りの商船のほうが、船底の長さが短い代わりに幅が広く、深いことが知れよう。

面木造りの船から棚板造りの船へ

瀬戸内海・太平洋の棚板造りの船が3材構成の船底部の準構造船から発逹したのに対して、面木が1材であったことは、日本海の面木造りの船が杉などの長大太径木の単材刳船を船底部とする準構造船から発達したことを物語っている。とするなら、棚板の枚数を増やし、棚板を外に開かせて船の大型化を図った瀬戸内海・太平洋と違って、日本海では単材刳船の船底部を分割して面木とし、間に丁板を入れて船の幅を広げ、面木に舷側材を継ぎ足して深さを増すことによって、船の大型化をなしとげたと考えてよかろう。このように直材の性質を生かした面木造りは、船体の構造原理を異にするとはいえ、棚板造り同様、日本の豊富な森林資源を背景に成立した造船技術であることに変わりはない。

近世初期の海運で活躍した面木造りの商船は、18世紀前期に急速に哀退し、短期間のうちに弁才船に取って代わられた。原因は、近世初頭以来の空前の材木需要が江戸開府後わずか数十年間で国内の天然林資源の大半を枯渇状態に迫いこんだことである。熊沢蕃山(くまざわばんざん)をして武家と対話する老社家(神職)の口を借りて「天下の山林十に八尽き候」(『宇佐問答』より)と慨嘆せしめた森林資源の枯渇は面木に必要な大木を不足させ、価格を高騰させて、面木造りの船に大きな打撃をあたえたことは容易に想像がつこう。能代における船用材の木取りと造船に関する『船大工業方』が「宝永の頃より北国造不勝手、弁財よしと云」と語るのも、濫伐のため米代川上流の美林地帯が佐竹氏入部以来1世紀たらずの18世紀初期に荒廃に帰し、面木用の大木を求めがたくなったからに違いない。領外に移出する材木を取り扱う能代問屋の由緒書が、宝永6年(1709)に船板や帆柱などの船用材の木取り方の工面を命じられて大坂に上り、材木問屋に問い合わせた、と伝えるのも、棚板造りの船用材需要の急増振りをうかがわせるに足る。

棚板造りの船は、面木のような特殊な部材を必要としないばかりか、大木が不足してもはぎ合わせの枚数をふやせばすむ。もしも中世に森林資源の危機がおとずれていたなら、面木造りから別の構造に移行することもありえたかもしれないが、当時は棚板造りという代替技術が存在したため、面木造りの商船の急激な衰退を招いたのだろう。

参考文献

  • 逓信省管船局編『日本海運図史』逓信省管 1909年
  • 石井謙治『日本の船』東京創元社 1957年
  • 石井謙治『図説和船史話』至誠堂 1983年
  • 『無形の民俗資料記録第1集』文化財保護委員会 1962年
  • 『復元日本大観4』世界文化社 1988年
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    安達裕之(日本海事史学会会長、東京大学名誉教授)

    1947年大阪市生まれ。東京大学工学部船舶工学科卒業。工学博士。同総合文化研究科教授などを経て現職。専攻は日本造船史。主な著書に『異様の船―洋式船導入と鎖国体制―』(平凡社)、『日本の船 和船編』(船の科学館)など。

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    藤森照信(建築史家・建築家、東京都江戸東京博物館館長、東京大学名誉教授)

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