平泉モノがたり

柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

「東北大陸」

かつてJR東日本のCMに「東北大陸から。」というキャッチコピーがあった。「東北大陸」とは、言いえて妙と感心したものである。ともかく東北地方(中世には陸奥国と出羽国。あわせて奥羽)は広大である。この感覚は中世人にもあったようで、14世紀後期成立の軍記物『太平記』は、陸奥国について「日本国の半ばに及べり」と記している。当時、蝦夷島(えぞがしま)と呼ばれた北海道は日本国の外であったから、なおのことであっただろう。また、京都近辺の人々にとって奥羽は遠く離れた未知の世界であり、畏怖すべき地であるとともに、憧憬の対象でもあった。多数の歌枕がそれを物語っている。

このような奥羽の地を、平安時代末期、約100年間にわたり支配したのが平泉藤原氏である。

初代清衡(きよひら)が先行する安倍・清原氏の遺産を継承しつつ平泉(岩手県平泉町)に本拠を定めたのは11世紀末のこと。2代基衡(もとひら)が継ぎ、3代秀衡(ひでひら)は中央政界にも一目置かれ、鎮守府将軍・陸奥守に任じられるまでになる。しかし、文治5年(1189)、4代泰衡(やすひら)の時に源頼朝率いる鎌倉軍によって滅亡させられた。

平泉には中尊寺・毛越寺(もうつうじ)があり、また、観自在王院跡・無量光院跡・柳之御所遺跡など多数の遺跡がのこされ、都から遠く離れた地に花開いた地方文化の精華をしのぶことができる。2011年に世界文化遺産に認定されたことは記憶に新しい。

小文では、平泉藤原氏の時代、すなわち12世紀の平泉と奥羽について、モノという切り口から概観してみたい。

中尊寺金色堂を飾るモノ

平泉といえばすぐに思い浮かぶのが中尊寺金色堂であろう。三間四面(約5.5m角)の小堂ながら、板葺の屋根以外のすべての部材に金箔が押され、まさに極楽浄土を彷彿させる。平泉にのこる藤原氏時代唯一の建築物であることも重要である。

堂内には3つの須弥壇(しゅみだん)があり、それぞれに阿弥陀三尊を中心とした仏像が安置されている。その偉容に圧倒されつつ、柱や長押・梁に目をやると真珠色に輝く精巧な装飾が施されていることに気がつく。約3万個におよぶ螺鈿(らでん)細工である。金色堂の螺鈿は、夜光貝(やこうがい)製であることが明らかにされている。夜光貝は大形の巻き貝であり、日本列島では奄美以南の南西諸島にしか生息しない。

近年、奄美大島で、夜光貝を採取し、加工したと目される大規模な遺跡が見つかっている。マツノト遺跡・小湊フワガネク遺跡などである。発見された遺跡は6~8世紀のもので、12世紀のそれは未発見である。しかし、夜光貝の生息地から考えて、竜美群島以南で採取されたものが、平泉まで輸送されたことはまちがいない。平泉に貝そのものが送られたのではなく、京都で加工された可能性もある。また最近の研究で、奄美群島の北東部にある喜界島(きかいじま)が中世日本・古琉球・朝鮮・中国のはざまにあって、流通センターの役割を果たしていたことが明らかになりつつある。南九州の薩摩や大隅の国司から京都の貴族に対して、夜光貝などが度々貢献されているという文献もある。南西諸島の産物が九州・京都を経て平泉にまで至るシステムがあったということになろう。ちなみに南西諸島は、12世紀には日本国の外であった。

南西諸島・常滑・博多と平泉の位置関係

焼き物は語る

次に平泉で発掘される焼き物に注目したい。

まずは国産の焼き物である。愛知県知多半島西岸にある常滑(とこなめ)は、古代から現代にまで続く焼き物―常滑焼の生産地である。2012年に刊行された『愛知県史』窯業編では、日本全国の遺跡から出土した常滑焼を集成している。その成果によれば、中世常滑焼の全国的な出土量は中部高地・東海地方を除くと13世紀前半~14世紀半ば、すなわち鎌倉時代に最大に達する。ところが12世紀代ではさほど出土量は多くない。その中にあって、実は平泉遺跡群からの出土量が全国で最も多くなっている。さらに細かく見ると、平泉では1150~1175年の間に生産された常滑焼2型式の出土量が最も多く、3型式(1175~1190年生産)がそれに続く。すなわち藤原氏2代基衡・3代秀衡の時期に、平泉は常滑焼最大の移出先であり、消費地であったわけである。それも圧倒的な第一位である。これは、渥美半島で生産された渥美焼でもほぼ同じことがいえる。

平泉の遺跡群からは、中国製陶磁器も大量に発掘されている。なかでも白磁の壺や水注が目立つ。これらは中国各地で生産され、中国南部の明州(現在の寧波)から積み出され、多くは博多(福岡市)で荷揚げされた。平泉までの運搬経路は判明していないが、日本海航路の船に積み替えられて出羽国側の港を経由し、平泉までは陸路で運ばれたともいわれている。あるいは瀬戸内海―太平洋ルートだったかもしれない。

白磁壺や水注は何に使われたのだろうか。それらは酒器であったと考えられている。一方、平泉遺跡群とくに藤原氏の政庁=平泉館と目される柳之御所遺跡からは、土器(かわらけ)と呼ばれる素焼きの小皿が大量に出土する。こちらは盃や猪口にあたる。しかも一度使用したら、廃棄するという習わしであった。要するに平泉では宴会が頻繁に開かれていたということになる。これは単なる嗜好の問題ではないし、ましてや退廃を示すものでもない。中世社会において宴会とは非常に政治性の強いもので、社会秩序の確認や人間関係構築の場となっていた。白磁の壺や水注、土器の大量出土は、平泉が政治の中心であったことを示しているのである。

柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

1961年新潟県生まれ。東北大学文学部史学料国史専攻卒業、同博士課程単位取得退学。博士(文学)。鹿児島大学法文学部助教授、東北大学大学院文学研究科准教授などを経て現職。専攻は日本中世史、史学史。主な著書に『中世日本の周縁と東アジア』(吉川弘文館)、『平泉の光芒(東北の中世史1)』(編著、吉川弘文館)ほか。

この記事が掲載されている冊子

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日本史における「中世」は、「古代(大和朝廷から平安朝まで)」と「近世(江戸時代以降)」の間にある、武家の台頭による混迷の時代です。その一方で、海を介しての流通が盛んになり、全国各地にローカルな経済活動が進み、無数の小規模な湊、宿、市が形成された、と言われています。ただし、その時代の建築と都市については、まだよく分からない点が多いのが実情です。
本号では、当時はまだ辺境の地と位置付けられていた東北エリアを中心に、中世日本の姿をひもときます。大林組プロジェクトでは、北の玄関口と位置付けられた湊町「十三湊(とさみなと)」の想定復元に挑戦しました。
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