絵図に見る和船

監修:安達裕之

『法然上人絵伝』巻34 高砂浦

鎌倉時代(14世紀)

©知恩院/京都国立博物館

浄土宗の開祖法然の伝記絵巻。播磨国高砂浦(兵庫県高砂市)で法然は漁師の老夫婦に念仏往生を説き、二人は念仏を唱えてついに往生を遂げた。浜に舳を並べて停泊する数多の準構造船は、高砂浦の繁栄振りを今に伝えている。桟橋や上屋など船着き場と言えるような設備が見当たらないのを不審に思う向きもあろうが、桟橋や上屋などは近代の産物であり、中世に存在すべくもない。

『華厳宗祖師絵伝』巻3

鎌倉時代(13世紀)

©高山寺

新羅国の華厳宗の祖師義湘(ぎしょう)と元暁(がんぎょう)の伝記絵巻。善妙(ぜんみょう)の化身した龍が義湘の乗船を支えて無事、新羅まで送り届けた。船体に油石灰を塗り、網代帆をあげた中国船は、一目で日本の準構造船と区別が付く。日本人が知る唯一の外国船である中国船には、遣隋使船や遣唐使船のみならず、百済船や新羅船の役も割り振られた。本絵巻の新羅の勅使船や義湘の乗る新羅船がそうで、新羅船あるいは高麗船の粉本がなかったため、絵師が中国船で代用したことは容易に想像がつこう。

『真如堂縁起絵巻』上巻 掃部助(かもんのすけ)久国

大永4年(1524)

©真正極楽寺

鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(京都 東山)の草創と変遷、本尊の阿弥陀如来の由来、当堂参詣と参籠の霊験などを描く絵巻。使節船に乗って唐から帰国の途上、円仁が引声念仏の一曲を忘れて祈請すると小身の阿弥陀仏が影現した。円仁の帰朝船は、15世紀の作とされる伝土佐光重筆の『浜松図屏風』の船に酷似しており、国内海連の商船を描いた粉本をもとに豪華な檜皮葺の屋形を付加して使節船風に仕立てたのだろう。

『法然上人絵伝』巻34 室津

鎌倉時代(14世紀)

©知恩院/京都国立博物館

播磨国室津(兵庫県たつの市)で法然は、念仏を唱えれば、阿弥陀如来は罪障深い者こそ救済すると遊女に説き、後に遊女は念仏を唱えて往生を遂げた。船首部の船底の形状から明らかに法然の乗船は準構造船であるが、棚板が1枚で、船尾に梶取用の艫(とも)屋形がないので、『北野天神縁起絵巻(承久本)』の菅公の乗船よりかなり小さい。遊女の乗る小船は、船首部に上小縁(うわこべり)がないから、単材刳船ではなく、船首に刳船部材を接合した複材刳船である。

『東征絵伝』巻2 六郎兵衛入道蓮行

永仁6年(1298)

©唐招提寺

奈良時代に日本に律宗を伝えた唐僧鑑真の伝記絵巻。天宝2年(743)12月に揚州(江蘇省)を出て出帆したが、狼溝浦(同省南通市)で暴風に遭って難破、鑑真はかろうじて難を逃れた。来日までの鑑真の苦難を中心とする絵巻だけに、航海中はもちろん、建造中の中国船まで登場する。中国船と日本船は船体構造が異なるが、絵師は多数の外板(がいはん)よりなる中国船の船体をそれらしく描いており、中国船の粉本を参照したことは問違いない。

安宅丸『御船図巻』 今川教隆

江戸後期

安宅丸(あたけまる)は、寛永8年(1631)に伊豆の伊東で建造された大安宅船。寛永11年夏に完成。特異な和洋折衷の船体を除けば、上廻りや天守は基本的には水軍の主力艦の安宅船と変わりはない。幕府は大船建造の禁を定めて大名の水軍力を抑止したが、いまだ社会が安定せず、すぐに大船建造の風聞がたつため、将軍の武威が海上にも及んでいる事実を知らしめるのが建造の目的。豪華絢爛たる装飾は、武威の発散に不可欠。天和2年(1682)の安宅丸の解体は、泰平の時代の到来を告げる。

「大物浦平家亡霊」 歌川国芳

嘉永元年(1848)頃

都落ちを図って源義経一行の乗船が摂津国大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎市)を出たところ、壇ノ浦に沈んだ平家の亡霊に襲われたため果たせなかった。過去の出来事を主題とする場合、今日なら時代考証に頭を悩ますところであるが、江戸時代までの絵師は風俗・事物を当世風に描くのが常である。船尾の形状からすると、明らかに国芳の描く義経の乗船は弁才船、俗称、千石船であるが、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』「上總ノ海路」と同様、国芳は船の細部に頓着していない。

朱印船末次船の絵馬の写し

寛永11年(1634)7月

©長崎歴史文化博物館

原画は長崎市の清水寺(きよみずでら)に奉納された絵馬。朱印船とは幕府から異国渡海朱印状を交付されて東南アジアに渡航した貿易船を言う。末次船(すえつぐぶね)は和洋の技術を折衷した中国船で、朱印前(まえ)あるいは日本前(まえ)と呼ばれた。現存する朱印船の絵のなかで最高と本図の評価は高い。しかし、船腹の出窓は問題で、中国船の船腹に取り付けられたのは、出窓ではなく、厠や鳥小屋なので、本図は二次作品の可能性がある。18世紀末に長崎に滞在中、本草家として著名な佐藤中陵に鎖国のための帆装制限説を思いつかせたのは本図である。

「おしをくりはとうつうせんのづ(押送波頭通船之図)」 葛飾北斎

文化元年(1804)頃

押送船は、関東周辺の漁村から江戸の魚問屋に鮮魚を運搬した快速の小船。風向きを問わず櫓を押して走るのが船名の由来。三檣の漕帆兼用船で、三檣船は江戸時代には他に尼崎の鳥貝船があるにすぎない。本図で北斎は、逆巻く浪をものともせず、櫓を押して走る押送船の姿を的確に描いているが、四半世紀ほど後に同じモチーフで描いた『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」では押送船の乗組員は、力漕していても、自然の猛威に翻弄され、なすすべもなく船端に身を伏せているようにしか見えない。

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No.62「中世の湊町」

日本史における「中世」は、「古代(大和朝廷から平安朝まで)」と「近世(江戸時代以降)」の間にある、武家の台頭による混迷の時代です。その一方で、海を介しての流通が盛んになり、全国各地にローカルな経済活動が進み、無数の小規模な湊、宿、市が形成された、と言われています。ただし、その時代の建築と都市については、まだよく分からない点が多いのが実情です。
本号では、当時はまだ辺境の地と位置付けられていた東北エリアを中心に、中世日本の姿をひもときます。大林組プロジェクトでは、北の玄関口と位置付けられた湊町「十三湊(とさみなと)」の想定復元に挑戦しました。
(2023年発行)

都市の中世―その原型と謎

伊藤毅(青山学院大学総合文化政策学部客員教授、東京大学名誉教授)

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中世の北"海"道―船・湊・航路

村井章介(東京大学名誉教授)

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平泉モノがたり

柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

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OBAYASHI IDEA

中世日本の北の玄関口 幻の湊まち・十三湊の復元

復元:大林組プロジェクトチーム
監修:伊藤毅

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日本の南と北の船

安達裕之(日本海事史学会会長、東京大学名誉教授)

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シリーズ 藤森照信の『建築の原点』(13) 園城寺・光浄院客殿

藤森照信(建築史家・建築家、東京都江戸東京博物館館長、東京大学名誉教授)

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さらに理解を深めるためのブックガイド

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