中世の北"海"道―船・湊・航路

村井章介(東京大学名誉教授)

中世海道の表通り

中世、小浜(おばま)や敦賀を発して日本海沿岸を東へたどる海の道は、太平洋側のそれを凌駕する表通りだった。安藤康季(やすすえ)が1435年に焼失した小浜の羽賀寺(はがじ)の再建に力を尽くして、「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の名を『羽賀寺縁起』に留めたのも、この海道のゆたかさを彷彿とさせる。室町末期成立とされる海商法規『廻船式目』の一本は、日本の主要な港湾として、伊勢安濃津・博多宇津・和泉堺津の「三津(さんしん)」と、越前三国・加賀本吉(三馬とも)・能登輪島(小屋(おや)とも)・越中岩瀬・越後今町(直江とも)・出羽秋田・陸奥十三湊(とさみなと)の「七湊(しちそう)」を挙げている。七湊はすべてこの海道に属する。そんなわけで中世では、古代以来の北陸道の名称よりは、北"海"道のほうがよほどぴったりくる。

三津七湊はじめ主要な中世港湾の位置

『廻船式目』のある条は、船が盗難や掠奪に遭った際の処理を定めるなかで、列島の船を「北国(ほっこく)(北陸の別称)之船」と「西国之船」で代表させている。1476年、壱岐の武士は朝鮮の使節に「南路は兵乱で統制を欠き、きっと海賊に遭う。壱岐から北海を経由すれば八日で若狭に至り、近江の今津・坂本を経て京都に着く。博多・壱岐の商人はみなこの経路で往来している」と語った(『朝鮮成宗実録』)。西国船の航路中、山陰ルート(北海)は瀬戸内ルート(南路)が使えない場合の有力な代替に留まるが、東日本を代表するのは、もっぱら日本海沿岸を活動の場とする北国船だった。1306年、北条政権からライセンスを与えられた「関東御免津軽船二十艘」のうち、越中東放生津(ほうじょうづ)住人本阿の所有する「大船一艘」と鮭・小袖などの積荷が、越前三国湊(みくにみなと)と周辺の三ヶ浦の住人に、漂到船と号して押し取られ、幕府法廷で裁判となっている(『大乗院文書』雑々引付)。

北"海"道の姿を伝えるおもな史料は、中世後期の文芸作品である。そこでは哀れな主人公が売られ売られる道行きとして、描かれることが多い。幸若(こうわか)舞曲『信太(しだ)』では、少年信太殿が京都五条、鳥羽、堺から西国を売り巡られ、さらに「北陸道の灘」すなわち北"海"道を転売されてゆく。人身の代価は、京都では駒、能登小屋湊では塩だった。

若狭の小浜、越前の敦賀、三国の湊、加賀の国に聞こえたる、宮の越(こし)へぞ売りにける。・・・足に任せて行くほどに、能登の国に聞こえたる、小屋の湊に着かれけり。・・・はるか奥、陸奥の国外の浜に、塩商人の候ひしが、年々塩を商ひて、彼の浦(小屋湊)へ船を乗る。問は刀禰(とね)のもとなれば、信太殿を見参らせ、「これなる童を、まつぴら、我に賜(た)べ」と言ふままに、おさへて塩に替へ取り、船に取つて打ち乗せ申し、十八日と申すには、はるかの奥、陸奥の国外の浜にぞ上がりける。

逆方向、東から西への道行きもある。説経『をぐり』では、ヒロイン照手姫が、「価が増さば売れやとて」、富山湾岸の水橋・岩瀬・六動寺・氷見(ひみ)を経て珠洲岬(すずみさき)を廻り、加賀の宮腰(みやのこし)・本折(もとおり)小松、越前の三国湊・敦賀、近江の海津・大津、最後は美濃青墓(あおはか)の遊女屋へ、と売られてゆく。このルートは、最後の大津~青墓(あおはか)をのぞいて、北"海"道の年貢米以下の物資が、畿内方面へと運ばれていく道だった。

インフラとしての船と湊

同じ道行きのあらわれるもう1つの話は、義経・弁慶主従の逃避行である。幸若舞曲『笈(おい)さがし』では、加賀宮腰の神社で一夜を過こした主従は、宮人から越中へ越える陸路が塞がれていると聞き、浜へ下って珠洲岬へ行く船に「びむぜむ(便船)し」、当日中に到着した。さほど待たずに望む方向へ行く船がつかまり、風さえ良ければ陸路よりはるかに敏速だったことがわかる。一行は越中岩瀬~越後直江津でも便船を利用している。前出の「信太」には「道者船(どうしゃぶね)(巡礼の乗る舟)に便船乞うて」という表現があり、他の目的で航海する船に便乗させてもらうことを便船と呼んでいる。

『笈さがし』にもどって、直江津より先も「便船の便りもあれかし」と願う義経の仰せに、弁慶は立腹して、「惣じて我が君の、爰(ここ)にては便船、かしこにては便船と、便船好みを召さるゝによつて、かゝるむつかしき事の出来候ぞや。・・・あはよき(都合の合う)舟を買ひ取つて、我と漕ぎ下らんに、何の子細の候べき」と意見する。便船以外に、乗船そのものを買い取つてしまう選択肢もあった。

船を迎える湊の情景としては、北"海"道の終点ともいうべきウスケシ(函館)が印象的だ。中世末期、当地には毎年3回若狭から商船が入り、みぎわに掛け造りされた問屋の家の縁柱(えんばしら)に、ともづなをつないだ。若狭の僧がこの船で持ちこんだ松の鉢植えがやがて大木となり、その枝はみな若狭の方向へ垂れ下がったという(『新羅之(しんらの)記録』)。

起点の若狭小浜に眼を転じれば、1463年に幕府政所(まんどころ)で審理された訴訟が興味ぶかい。若狭守護武田氏の被官某が、隣国丹後の半国守護一色氏の被官で小浜住人の某を訴えた。発端は、前者の所有する「十三丸」という大船(名称から推して十三湊往還の船か)と付属の小舟、さらに荷を、後者が盗物だとか船頭の負物だとか称して差し押さえた件である。同じ件が「買売船相論」とも呼ばれており、船頭が所有主に無断で船や荷を売却したものらしい。「売主」が召喚されるとともに、積荷が船頭の処分権に属するかいなかについて、小浜以外の津湊の例が尋ねられている(『政所内談記録』)。

村井章介(東京大学名誉教授)

1949年大阪市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文学博士。同大学史料編纂所助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、立正大学文学部教授を歴任。専攻は日本中世史。著書に『世界史のなかの戦国日本』(筑摩書房)、『境界をまたぐ人びと』(山川出版社)、『東アジア往還―漢詩と外交』(朝日新聞社)ほか多数。

この記事が掲載されている冊子

No.62「中世の湊町」

日本史における「中世」は、「古代(大和朝廷から平安朝まで)」と「近世(江戸時代以降)」の間にある、武家の台頭による混迷の時代です。その一方で、海を介しての流通が盛んになり、全国各地にローカルな経済活動が進み、無数の小規模な湊、宿、市が形成された、と言われています。ただし、その時代の建築と都市については、まだよく分からない点が多いのが実情です。
本号では、当時はまだ辺境の地と位置付けられていた東北エリアを中心に、中世日本の姿をひもときます。大林組プロジェクトでは、北の玄関口と位置付けられた湊町「十三湊(とさみなと)」の想定復元に挑戦しました。
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