中世の北"海"道―船・湊・航路

村井章介(東京大学名誉教授)

海路、陸路、内水面

海路は物流のキャパシティが大きく、条件さえ良ければ速度も速かったが、悪天候で足止めをくらうことも多く、とくに冬湯の北"海"道は厳しかった。幕末でさえ、加賀の堀切・安宅(あたけ)・宮腰の各湊は9月から3月まで、つまり年の半分は「通船ナシ」とされている(『皇国総海岸図』)。加賀前田家の奉行斎藤兵部は、豊臣家の指示で越前に接する江沼郡の米を敦賀へ運ぶに際して、「川舟で大聖寺川(だいしょうじがわ)を下って吉崎から北潟に入り、北潟の西端で馬背(うまのせ)に積み替えて三国湊へ、さらに海船で敦賀まで」という案を、三国湊の問丸森田家に示している(『森田正治家文書』)。日本海沿岸は海岸線が比較的単調で、砂丘の裏側に潟が多く形成されており、その面積は今よりはるかに広かった。上の例のような川舟と馬を組みあわせて川や潟と港、あるいは潟と潟とをつなぐ内水面のルートは、とくに冬場には有用だったにちがいない(上文書の日付は正月十日である)。山陰航路では中海(なかのうみ)・宍道湖(しんじこ)の利用が代表的で、松江の都市的発展はこれに支えられていた。

上文書からは、北潟西端~三国の駄賃、三国~敦賀の船賃につき、ある程度の相場ができていたことも読みとれる。とくに政治的中心地と外港をつなぐ陸路では馬が有用だったらしく、加賀の事例を見ると、富樫は守護所のあった野々市から宮腰湊まで、勧進山伏に扮した弁慶を、馬で送らせている(『義経記』巻七)。江戸時代になれば、前田家の本拠金沢と宮腰との間で駄賃馬が営業し、荷物一駄(だ)につき30貫目の公定運貨が定められていた(『加賀藩御定書』巻1)。

むろんすべての陸路で駄賃馬が利用できたわけではないが、陸路は旅人の自力が有効な余地が海路より大きかった。そこで旅人は海路・陸路を適宜選択しながら旅程をかせぐことになる。説経『さんせう太夫』では、づし王丸の母が、陸路で至った直江津で宿の主人山岡太夫から「いかに上﨟(じょうろう)様、船路を召されう、陸(こが)を召されうか」と問われ、「道に難所のなき方」を望んだ結果、湊の沖で一行の4人ともが人買船に売られてしまう。『笈さがし』の義経主従は、加賀から越中への陸路が危険なため珠洲岬まで便船を使ったが、その先は「舟路の便り」がなく、はるばる富山湾岸を廻って岩瀬まで、「磯づたひ山づたひ、絶え絶え細き谷の道」をたどらざるをえなかった。放生津の入口になる庄川河口の六動寺渡しでは、渡し守から南都造営料を名目とする船賃を要求され、弁慶が「いかなる関々津泊にても、山伏の法にて賃といふ事はなきぞ、たゞ渡せ」と主張して、静御前の袴を船賃がわりに与えることで折りあった。

接続する航路網

日蓮が1275年に女性信徒乙御前(おとこぜ)に宛てた手紙には、列島の船が経典になぞらえて分類されている。小乗経は2、3人しか乗れない「世間の小船」で、彼岸には行きがたい。大乗経は「大船也、人も十、二十人も乗る上、大なる物もつみ、鎌倉よりつくし(筑紫)・みちの国(陸奥)へもいたる」。それどころか法華経は、「大なる珍宝をもつみ、百千人のりてかうらい(高麗)なんどへもわたりぬベし」。書き手の行動圏に即して鎌倉中心の構図になっているが、これを北"海"道とそれに接続する航路網に移して検証してみよう。

まず小船に対応するのが、能登半島の東側、珠洲岬周辺から府中(七尾)に至る地域内航路だ。船で他国へ越そうとする者の捕縛を命じた前田利家印判状は、西海・三崎・正院(しょういん)・直(なお)・飯田・松波・宇出津(うしつ)・諸橋・穴水・府中の各浦の「在々百姓中」に宛てられている(『三輪文書』)。利家の別の印判状には、さらにローカルな、諸橋から穴水へ材木を運ぶ「まはり舟」が見える(『川島区有文書』)。

大船に対応する遠隔地間航路としては、先に見た若狭・小浜~十三湊~ウスケシのほか、以下のような事例がある。これは小説だが、加賀生まれの少女玉鶴女が能登小屋湊に住む商人にたばかられて、おりふし博多から来た人あきぶね(商船)に売られてしまう(奈良絵本『ゆみつぎ』)。1371年に十三湊の住侶快融が、東広島市の安芸津浄福寺で大般若経を書写した。天文年間(1532~55)より讃岐高松から十三湊へ年々商船を送ってきた嘉右衛門が、1544年に津軽家当主の上洛のために大船を貸与し、さらに越前三国滝谷寺の眼尊上人を津軽家へ送り届けた(『弘前市立図書館所蔵文書』)。

『海東諸国紀』(1471年朝鮮で成立)付蔽「日本本国之図」の西半分
航路を線で表記した列島規模の地図としては、中世で唯一のもの。博多商人道安が朝鮮に献上した地図を原図とするが、道安の行動範囲外だった東半分には航路が記されていない ©大分市歴史資料館

十三湊やウスケシから先は、日本の域内をはずれ異域に入っていく。その空間は、十三湊から船出した義経が、蝦夷島以下異形異類の住む島々を経めぐったすえに、千島の都喜見城のかねひら大王の娘を籠絡して、兵法の秘伝書を手に入れ帰還する、というような話のなかで描かれてきた(御伽草子『御曹子島渡』)。

しかし16世紀半ばには様変わりする。アイヌとの抗争に疲れた和人の首長蠣崎季広(かきざきすえひろ)(松前氏の祖)が、1550年、日本から松前に至った商人から蠣崎氏が徴収する入港税の一部を、天(てん)ノ河に駐在する西部アイヌの首長ハシタイン、知内(シリウチ)に駐在する東部アイヌの首長チコモタインに、「夷役」として配分する、という協約を結んだ(『新羅之記録』)。また1565年の宣教師ルイス・フロイスの書簡には、日本国の北方にある毛深い蕃人の国から、出羽の秋田に来たって交易をなす者が多い、と記されている。

国外に至る航路としては、高麗の例が多いのが北"海"道の特徴だ。入元の帰途高麗近海で海難に遭った禅僧大智は、高麗王に船を手配してもらい、1324年加賀宮腰津に帰着した(『祇陀(ぎだ)大智禅師行録』)。1474年、対馬島主宗貞国は、「陸地(北九州)・石見・若狭・高麗への大小船の公事」を、扶持として塩津留(しおつる)氏に与えた(『宗家判物写(そうけはんもつうつし)』)。前出の『御曹子島渡』では、義経から「是はいづくへ行舟ぞ、数はいかほどある」と問われた十三湊の船頭たちが、「これは北国、又は高麗の船も御入候(ございます)」と答えている。しかしなかには、1408年に生象以下日本国王への進物を積んだ南蕃(東南アジア方面の国)船が小浜に漂着し、翌年船を新造して帰国の途につき、1412年にも南蕃船二艘が同地に着岸した、といった例もある(『若狭国税所(さいしょ)今富名領主代々次第』)。

朝鮮出兵の前夜、小浜の組屋・古関両家は、浅野長吉(のちの長政)から、肥前名護屋城へ送る米・大豆を積んだ船に上乗(うわのり)奉行として乗船するよう命じられた。積荷は小浜の蔵々に召し置いて船積みし、丹後宮津で積み増すこと、船賃は荷千石につき二百石とすること、という指示もあった(『組屋文書』)。同時期、敦賀の高嶋屋も、敦賀の米を九州へ運ぶために船を提供し、また加賀・能登の諸浦から水手(かこ)を雇い入れるよう、豊臣政権から指示されている(『小宮山文告書』)。先に潟をつなぐ水陸交通を読みとった三国湊森田家の文書も、同様の状況のなかで書かれている。

近世の北前船や東/西廻り航路は、このような中央政権による海運の軍事的組織化を歴史的前提としている。

参考文献

  • 青柳正規・ロナルド・トピ編『日本海学の新世紀2 還流する文化と美』角川書店 2002年
  • 赤坂憲雄他編『いくつもの日本Ⅲ人とモノと辺と』岩波書店 2003年
  • 歴史学研究会編『シリーズ港町の世界史①~③』青木書店 2005~2006年
  • 市村高男他編『港町の原像(上)(下)』岩田書院 2009~2016年
  • 村井章介『日本中世境界史論』岩波書店 2013年
  • 仁木宏・綿貫友子編『中世日本海の流通と港町』清文堂出版 2015年
  • 村井章介(東京大学名誉教授)

    1949年大阪市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文学博士。同大学史料編纂所助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、立正大学文学部教授を歴任。専攻は日本中世史。著書に『世界史のなかの戦国日本』(筑摩書房)、『境界をまたぐ人びと』(山川出版社)、『東アジア往還―漢詩と外交』(朝日新聞社)ほか多数。

    この記事が掲載されている冊子

    No.62「中世の湊町」

    日本史における「中世」は、「古代(大和朝廷から平安朝まで)」と「近世(江戸時代以降)」の間にある、武家の台頭による混迷の時代です。その一方で、海を介しての流通が盛んになり、全国各地にローカルな経済活動が進み、無数の小規模な湊、宿、市が形成された、と言われています。ただし、その時代の建築と都市については、まだよく分からない点が多いのが実情です。
    本号では、当時はまだ辺境の地と位置付けられていた東北エリアを中心に、中世日本の姿をひもときます。大林組プロジェクトでは、北の玄関口と位置付けられた湊町「十三湊(とさみなと)」の想定復元に挑戦しました。
    (2023年発行)

    都市の中世―その原型と謎

    伊藤毅(青山学院大学総合文化政策学部客員教授、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    中世の北"海"道―船・湊・航路

    村井章介(東京大学名誉教授)

    全編を読む

    平泉モノがたり

    柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

    全編を読む

    OBAYASHI IDEA

    中世日本の北の玄関口 幻の湊まち・十三湊の復元

    復元:大林組プロジェクトチーム
    監修:伊藤毅

    全編を読む

    日本の南と北の船

    安達裕之(日本海事史学会会長、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    絵図に見る和船

    全編を読む

    シリーズ 藤森照信の『建築の原点』(13) 園城寺・光浄院客殿

    藤森照信(建築史家・建築家、東京都江戸東京博物館館長、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    さらに理解を深めるためのブックガイド

    全編を読む