平泉モノがたり

柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

平泉から/平泉へ

これまではどちらかといえば京都をはじめ西の方から平泉に持ち込まれるモノを中心に見てきた。逆に平泉から西へ送られるモノには何があったのだろうか。

このことを考える上で興味深いのは、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』文治5年(1189)9月17日条に引かれる「寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)」である。これは藤原氏を滅ぼした源頼朝に対して、平泉の寺院の僧侶がその保護を求めて提出した文書で、各寺院の由緒や平泉の都市的展開を考える上での重要史料である。

その毛越寺の項に次のような話がある。いささか誇張があるとはいえ、大筋では事実に即していると考えられているエピソードである。

「基衡は、毛越寺の本尊の制作を京都の仏師雲慶(運慶とは別人)に依頼した。その際、功物(こうぶつ)(制作の対価)として、円形の金塊100両、鷲の羽100尻、直径7間のアザラシの皮60余り、安達郡の絹1,000疋、希婦(けふ)の細布(せばぬの)2,000反、糠部(ぬかのぶ)地方の駿馬50疋、白布3,000反、信夫(しのぶ)地方の毛地摺(もちずり)1,000反などを送り、山海の珍物も副えた。仏像ができあがるまでの3年間、山道・海道を京都と平泉とを行き交う輸送の人夫と馬が絶えることはなかった。また、特別な賞与として、高級な生糸を船三艘に積んで送ったところ、雲慶が喜びのあまりたわむれに、「うれしいことこの上ないが、練絹(ねりぎぬ)(生糸を精練したもの)の方がよい」なと言ったという。これを聞いた使者が急いで帰って伝えると、基衡は悔やみ驚き、練絹を船三艘に積んで送った。」

功物は藤原氏の富の源となった特産物と考えられる。注目すべきはそれらの産地である。まず、金は北上山地をはじめ奥羽は豊宮な産出量を誇った。繊維製品の生産地も奥羽内部である。駿馬を産した糠部は現在の青森県東部および岩手県内陸北部にあたる。しかし、鷲の羽は主として北海道以北に生息するオオワシあるいはオジロワシの尾羽であり、アザラシの生息域も北海道以北である。要するに功物には北海道あるいはそれ以北の特産物が含まれているのである。当時の北海道は前述のように日本国の外にあり、アイヌ民族が形成されつつあった。藤原氏はそうした場所から特産物を入手する手立てをもっていたわけである。そしておそらく上のエピソードに表れた産物の多くは、日常的にも平泉に集められ、京都方面に送られていたのであろう。平泉にもたらされた大量の焼き物の対価もこのようなものだったはずである。

ところで、平泉と北海道との関係を考える上で、最近注目されている遺跡とモノがある。北海道勇払郡厚真(あつま)町の宇隆(うりゅう)Ⅰ遺跡とそこから出土した壺である。厚真町は苫小牧市の東に接し、太平洋に面するとともに道内各地への陸上交通の便もよい。宇隆Ⅰ遺跡は海岸部と内陸部を結ぶ交通路に向かって山地から腕のように突き出した台地の先端にある。この場所から、1959年に1個の壺が出土していた。それが2000年代に入って、12世紀代の常滑焼であることが判明したのである。現在のところ、北海道で唯一の中世常滑焼発見例となる。

前述したように平泉は常滑焼最大の消費地であった。また、宇隆Ⅰ遺跡はその立地から経塚の可能性を指摘されている。経塚は仏教思想に基づくものであり、アイヌ民族にその信仰はない。本州方面から人が渡って経塚を造作し、常滑焼壺を埋めたのではないか。平泉近辺に経塚は多く、最近は従来未発見の青森県陸奥湾岸でも発掘例が出始めている。宇隆Ⅰ遺跡は、平泉から続く「焼き物の道」、「経塚の道」の延長線上にあったのかもしれない。

なぜ平泉か

平泉になぜ大量のモノが集まり、またそこから出されていったのだろうか。

まずは平泉が多くの人々が集住する都市であったためである。住民の多くは、中尊寺・毛越寺に関わる人々だったと考えられる。当時の大寺院は社会の縮図であり、寺域の内外に僧侶だけでなく様々な生業の人々を住まわせていた。「寺塔已下注文」によれば、中尊寺は寺塔40余宇、禅房300余宇、毛越寺はそれぞれ40余宇、500余宇というから、この2寺だけでも相当の人口になったであろう。人が集まれば消費が生まれる。政治的有力者がいて、寺院があれば政治や宗教行事に必要なモノも必要となる。おそらく平泉は12世紀における京都以東最大の都市であり、モノが集まる条件があったのである。

平泉の立地もまた重要である。一つは交通路の問題である。平泉は京都を起点とし、陸奥国を縦貫する幹線道路(鎌倉時代に鎌倉起点となり「奥大道(おくだいどう)」と呼ばれた)と北上川とが接する唯一の場所であり、交通の要衝であった。北上川は現在の石巻に通じており、そこから太平洋海運を使うこともできた。毛越寺本尊制作時の生糸や練絹を「船3艘に積んだ」というエピソードも根拠のないことではない。常滑焼や渥美焼も海運を利用して連ばれた可能性がある。

次のようなことも考えられる。冒頭で奥羽の広大さが大陸に例えられることについて述べた。その全体が日本国に編入されたのは11世紀末のことである。しかし、一様に日本国の制度が導入されたわけではなく、順次北上した「国境」に規定されていくつかの地域ができていった。なかでも現在の岩手県内陸中部には奥六郡(おくろくぐん)というエミシ支配に関わる特別な地域があった。平泉藤原氏本来の支配領域はこの奥六郡である。平泉は奥六郡に南から接する位置にあった。そして藤原氏が支配する陸奥国は、津軽海峡を挟んで蝦夷島と向かい合っていた。つまり藤原氏は国家的な境界の支配者であり、平泉はその拠点であり、それ自体が境界性を帯びていた。異質な世界どうしが接する境界で交易が活発化するのは古今東西共通の現象である。しかもそこは国家的な境界である。平泉を中心としてモノの動きが活発になるのは当然のことであった。

さらに付け加えれば、12世紀は荘園制が確立した時期にあたっている。荘園制は京都や奈良に居を構える王家・貴族・大寺社が地方の富を吸い上げるシステムである。それは都鄙間の交通・交易・流通のネットワークがなければ成り立たなかった。そのネットワークは海を越えて南西詰島、大陸にも至り、一方では奥羽、蝦夷島にまで逹していたのである。

平泉と藤原氏の繁栄もそれに支えられていた。「平泉モノがたり」は、こうした歴史のうねりの中ではじめて語ることができるのである。

参考文献

  • 高橋富雄『奥州藤原氏四代』(新装版)吉川弘文館 1987年
  • 高橋富雄『泉の世紀』日本放送出版協会 1999年
  • 大石直正『奥州藤原氏の時代』吉川弘文館 2001年
  • 入間田宜夫『都市平泉の遺産』山川出版社 2003年
  • 高梨修『ヤコウガイの考古学』同成社 2005年
  • 三上喜孝『「境界世界」の特産物と古代国家』『歴史と地理 日本史の研究217』 2007年
  • 柳原敏昭『中世日本の周縁と東アジア』吉川弘文館 2011年
  • 『愛知県史』(別編窯業3)愛知県 2012年
  • 斉藤利男『平泉 北方王国の夢』講談社 2014年
  • 柳原敏昭「中世の交通と地域性』『岩波講座日本歴史中世2』岩波書店 2014年
  • 柳原敏昭編『東北の中世史1 平泉の光芒』古川弘文館 2015年
  • 八重樫忠郎『東北の経塚と厚真町の常滑壺』『歴史評諭795』 2016年
  • 柳原敏昭『アイヌ文化成立期の北海道と平泉・鎌倉』『歴史と地理 日本史の研究707』 2017年
  • 村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』KADOKAWA 2019年
  • 八重樫忠郎『平泉の考古学』高志書院 2019年
  • 菅野成寛監修『平泉の文化史1~3』吉川弘文館 2020~21年
  • 柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

    1961年新潟県生まれ。東北大学文学部史学料国史専攻卒業、同博士課程単位取得退学。博士(文学)。鹿児島大学法文学部助教授、東北大学大学院文学研究科准教授などを経て現職。専攻は日本中世史、史学史。主な著書に『中世日本の周縁と東アジア』(吉川弘文館)、『平泉の光芒(東北の中世史1)』(編著、吉川弘文館)ほか。

    この記事が掲載されている冊子

    No.62「中世の湊町」

    日本史における「中世」は、「古代(大和朝廷から平安朝まで)」と「近世(江戸時代以降)」の間にある、武家の台頭による混迷の時代です。その一方で、海を介しての流通が盛んになり、全国各地にローカルな経済活動が進み、無数の小規模な湊、宿、市が形成された、と言われています。ただし、その時代の建築と都市については、まだよく分からない点が多いのが実情です。
    本号では、当時はまだ辺境の地と位置付けられていた東北エリアを中心に、中世日本の姿をひもときます。大林組プロジェクトでは、北の玄関口と位置付けられた湊町「十三湊(とさみなと)」の想定復元に挑戦しました。
    (2023年発行)

    都市の中世―その原型と謎

    伊藤毅(青山学院大学総合文化政策学部客員教授、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    中世の北"海"道―船・湊・航路

    村井章介(東京大学名誉教授)

    全編を読む

    平泉モノがたり

    柳原敏明(東北大学大学院文学研究科教授)

    全編を読む

    OBAYASHI IDEA

    中世日本の北の玄関口 幻の湊まち・十三湊の復元

    復元:大林組プロジェクトチーム
    監修:伊藤毅

    全編を読む

    日本の南と北の船

    安達裕之(日本海事史学会会長、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    絵図に見る和船

    全編を読む

    シリーズ 藤森照信の『建築の原点』(13) 園城寺・光浄院客殿

    藤森照信(建築史家・建築家、東京都江戸東京博物館館長、東京大学名誉教授)

    全編を読む

    さらに理解を深めるためのブックガイド

    全編を読む