建設業の構造変化と当社の対応

経営改善推進委員会

日本の景況は1992(平成4)年から急激に後退し、1993年度はマイナス成長となった。当社の受注高も1991年度から3年連続して減少した。建設投資自体は、政府の景気対策もあって1996年度まで80兆円台前後で推移したが、民間非住宅投資の落ち込みが、当社を含む大手建設会社を直撃した。地価も下落を続け、開発・不動産事業を拡大していた建設業者は苦境に追い込まれた。当社は、バブル期の不動産投資についてリスクを見極め慎重に対処した結果、バブル崩壊による影響を最小限にとどめたが、1993、1994年度の2年間は受注高が売上高を下回る“食い潰し”の状態が続いた。

景気は1994年度から緩やかながら回復傾向を示したが、バブルの負の遺産は重く、「価格破壊」が流行語となったように、低価格志向が強まった。建設分野も、不況に加え、国際化やゼネコン汚職事件の影響などから取引の透明性確保が求められた。公共工事における制限付一般競争入札の導入など、発注方式の多様化も進み、1995年度になると、価格競争は “生き残り”という表現がふさわしいほど厳しいものとなった。これらは景況悪化が生んだ一過性の現象ではなく、もはや構造的な変化というべきものであった。当社が生き残るためには “いかに利益を生み出すか”を建設事業のプロセス全体について「事業効率」の視点から追求し、事業活動の質を高めていくことが求められた。そのためには、コスト、品質などの差別化能力、それを生み出す知恵、ノウハウ、情報などを組織的に統合する力(システム対応力)といった「質的能力」を向上させ、その結果として「量(受注)」を確保していく事業活動への転換が必要であった。

1994年3月、津室社長を委員長とする経営改善推進委員会が発足、強力なリーダーシップのもとに、業績の回復に向けて全社を挙げて取り組むこととなった。同委員会の分科会として三つの分科会が設けられたが、土木事業分科会と建築事業分科会では、建設市場の大きな変化の中での受注確保と利益率の向上、収益財務体質改善分科会では、固定費の削減を主なテーマとして取り組んだ。1996年の年頭訓示において津室社長は、前年5月に建設省が発表した「建設産業政策大綱」を引用して次のように述べ、新たな競争時代に立ち向かう決意を語っている。

「建設産業政策大綱では、これからの時代を“新たな競争の時代”ととらえ、“他企業より一つでも多くの努力と工夫を積み重ねる企業にとっては、競争という場を通じて発展の機会を掴みうる可能性が生まれる時代”であると定義しています。これからの時代は、厳しく、困難な状況が続くことを覚悟しなければなりません。その中で、我われ一人ひとりがプロとして最善の行動を選択し、常にチャレンジ精神を持ち続け、会社の発展を期していこうではありませんか。」

営業の強化と重点化

当社は受注高(量)から利益(質)の重視へと経営方針を転換したが、1万人近い社員の生活を支えるには、一定以上の受注確保は不可欠であった。厳しい競争下でこれを実現すべく、当社は国内外の事業拠点の整備、要員シフトや重点地域・有望分野への集中などで営業強化を図った。

国内では、1991(平成3)年7月に北陸支店を金沢市から新潟市に移転し所管地域を見直したほか、西東京営業所や地域営業を専門に行う営業部を新設して首都圏の営業体制を強化し、四国・東北・名古屋支店でも開発・営業部門を増強した。また、1994年8月には墨田区に自社開発事業として完成させたリバーサイド隅田に本社機能の約半分を移転し、東京本社は神田と墨田の2拠点体制となった。海外では、米国・欧州、中国、東南アジアの各地域で拠点を設け北半球を一巡する営業網が出来上がった(海外拠点整備)。

建築部門では、首都圏・近畿圏および各支店の重点地域に的を絞り、要員をシフトして営業活動を重点化した。本支店や建築・土木間での営業情報の共有や連携強化も推進された。1994年10月に実施された東京本社営業本部の大幅な組織改正もその一環で、18部あった得意先別組織を業種別の7営業統括部とし、さらに一部地域営業も組み込んだ。最大の狙いは情報収集力の強化で、各統括部は20名前後で構成され、統括部内では課制を廃してプロジェクトごとにフレキシブルにメンバーを編成して要員効率を高めた。さらに、従来、営業部門に対して支援機能を果たしてきた開発部門・設計部門・エンジニアリング部門などについても、支援から営業の主役への意識転換を図り、開発案件、設計施工案件の増加を狙った。また、バブル崩壊で民間設備投資が急減したことを踏まえ、有望な分野・業種への営業活動を強化した。分野ではリフォーム・リニューアル、業種では、景気の影響を受けにくい食品・医療関連企業、私立学校などをターゲットとした。

土木部門では建築部門との連携や得意分野(トンネル、橋梁下部工など)への重点化などに力を入れた。官需が大きな比率を占める土木市場は、バブル崩壊後も、政府の大型経済対策などによってむしろ拡大していた。こうした動きに対応し、1992年度に営業強化のために関連本部(土木、営業、土木技術、エンジニアリングなど)の連携体制を強め、1994年度には全社的な連携を強化するため土木本部営業企画部を新設した。営業対象としては、廃棄物処理場等の都市インフラやエネルギー関連など、付加価値が高く、建築部門とも連携できる分野に力を入れた。さらに、重点分野として環境や次世代国家プロジェクトにも取り組んだ。大断面トンネルのシールドによる急速施工や、ハイピア橋梁の省力化・急速施工の技術も開発し、競争力強化を図った。このほか、入札制度の変化に対応すべく、入札参加資格申請支援システムの整備やダムなど主要工種の見積システムの開発改善、見積データの店間相互利用など、情報システムを含めた計画・見積機能を強化した。

リバーサイド隅田
リバーサイド隅田

緻密な利益管理、バランスシートの健全化

利益率の向上も、一貫した重要課題として、高付加価値化とコスト削減の両面で推進された。1992(平成4)年には各店に受注時利益率の目標を示し、利益率の改善を促した。工事予算編成の見直しや集中購買方式の導入、金利計算システムの開発による生産段階での金利負担の把握など、利益を確保する仕組みを整えていった。また、一般管理費のうち原価性の高い技術部門のコストを工事原価に適正に反映させることとし、1993年度から土木技術部門の技術料について配賦が開始された。建築部門でも、受注物件に要した営業設計費用の工事原価への配賦が進められ、原価意識を全社的に高めていった。

当社の有利子負債残高は1990年3月末に2,862億円であったが、2年後の1992年3月末には4,926億円と約2,000億円増加した。同時にバブル崩壊の引き金ともなった金融引き締めによる金利上昇も重なり1993年度の金融収支は106億円の赤字となった。有利子負債増加の要因は、バブル期の得意先の依頼による不動産・株式購入、工事代金の立て替え、事業用資産の購入などによるもので、バブル崩壊後の不況期に耐えうる強固な財務体質への転換が急務であった。このため、1992年度にはバランスシートの改善を経営方針に掲げて投資の抑制と不稼働資産の早期売却に取り組んだ。その結果、有利子負債残高は1994年3月末の5,675億円をピークに減少に転じ、バランスシートの健全化が進んだ。

投資の抑制と並行して、悪化した建設事業収支の改善にも取り組んだ。工事代金の早期の回収(取下条件の改善)は、受注量・工事利益の確保と並ぶ営業部門の重要な任務であるという意識改革が継続して行われていった。1994年以降、短プラ・長プラ適用の借入金を市場金利連動型に切り替えるとともに、間接金融(銀行借り入れ)から直接金融(社債)への一部移行、手形債権流動化など調達方法の多様化にも取り組んだ結果、金融収支は1993年度106億円の赤字から6年後の1999年度にはプラスに転じ、以降も継続して黒字を計上した。

パーソナルコンピュータ普及の黎明期

当社は、情報化を業務効率向上の重要基盤と位置づけ、積極的に推進した。1990年代前半はパーソナルコンピュータ自体が高価で、一般社員にとってまだなじみが薄く、気軽に活用できる状況にはなかった。しかし、市場のニーズに応じた品質・納期・コストを実現するには、既存の改善活動だけではもはや追いつかず、情報システムを組み込んだ業務の抜本的改革が必要であった。

1991(平成3)年10月、主要事業所(東京本社、本店、各支店、技術研究所)間に、電話・ファクシミリ・データ通信などを統合した高速デジタル専用回線による社内ネットワークO-Netを完成させ、端末普及およびアプリケーション開発などにより、全社的な情報システムを活用する下地を構築していった。1992年のWindows3.1の販売開始を受けて、社会全体のパーソナルコンピュータ普及が飛躍的に進むこととなった。当社も1993年からWindows3.1を導入したが、当時、パーソナルコンピュータの設置台数は0.5台/人程度であり、1人1台体制となるのは2001年頃まで待たなければならなかった。

情報関連の費用は、1992年度には年間100億円を超えた。このため、「情報化投資のルール」を策定して、技術システムのダウンサイジング、ソフトウェアの管理、外注業務の内製化などにより費用の増加を抑制するとともに、社員を対象に集合教育を行ってパーソナルコンピュータの日常業務での活用を促した。

1995年7月、一部部門で電子メールの利用を開始、1995年8月に公式Webサイトの公開、1996年1月にはイントラネットの立ち上げと、当社のインターネットの扉が次々と開いた。組織面では、1996年9月、東京本社総合企画室の一部、情報システム企画室および情報システムセンターを統廃合し、情報システムセンターをシステム推進部、システム第一部、同第二部に再編した。