概括

バブル崩壊後の不況は1994(平成6)年末にいったん底を打ち、1996年には景気は明るさを増していたが、1997年4月の消費税率引き上げ、夏のアジア通貨危機などで再び悪化した。同年秋からは、バブルの負の遺産による金融機関の破綻が相次ぎ、GDPは1998、1999年度と2年連続のマイナス成長となった。政府による金融機関への大規模な資本注入による金融システム不安の解消、日銀によるゼロ金利政策により、GDPは2000年度には前年度比0.8%と僅かながらプラスに転じた。1996年度に民間部門が前年比2ケタ増となった建設投資は、1997年度以後、一貫して減少し続け、1997年度からの財政構造改革に伴う公共事業費削減がこれに拍車をかけた。

1996年度に前年度比プラスに転じた当社の業績も、1997年度から3年連続で受注高・売上高・営業利益のすべてが前年度比でマイナスに転じる事態となった。津室隆夫社長は、1997年の年頭訓示において、「経営のスピードアップ」を基本として、市場拡大が期待できない状況でも勝ち残れる企業づくりをめざした。1997年6月、新たに就任した向笠愼二社長は、これに「ローコスト化」を軸として加えた。改革は、経営基盤の見直しからスタートし、営業、生産など各分野で徹底した検証が行われ、東京本社における統括部長職の新設(1996年11月)や各本部における部の統合などが、効率化・スリム化を基本に実施された。

改革推進のさなか、1997年11月10日、1935年の入社から60年余にわたり当社の発展に尽力した岡田正取締役相談役が死去し、11月21日に執り行われた社葬では会長をはじめ多くの役職員が見送った。

1999年1月、東京本社を品川インターシティ(港区港南)に移転した。1970年の東京本社設置以後拠点としてきた東京大林ビル(千代田区神田司町)は、本社機能の東京移転と業容の拡大に伴って狭隘化し、周辺ビルに分散していたが、移転により、東京本社は品川と墨田の2拠点に集約された。

1999年6月、営業本部(営業)と建築生産本部(生産)を一体化し、建築事業本部が設置された。価格競争力を強化することが最大の狙いで、建築事業本部は、全店業務・東京建築・海外建築の3部門に分かれ、各部門の損益も明確化された。これに伴い、土木本部も土木事業本部に改組された。これらの改革と景気の回復もあり、2000年度には、4年ぶりに売上高、営業利益が増加、経常利益も1999年度から2年連続して増加した。

この時期は、内外で企業のガバナンスがクローズアップされたほか、さまざまな分野でグローバル化への対応も重要となった。当社も1998年6月、東京本社に法務部を設置し、1999年4月には「就業規則」を改正して、改正男女雇用機会均等法への対応を進めるなど、社内の体制整備と意識向上を図った。企業会計のグローバル化(会計ビッグバン)に伴う会計制度の変更にも対応すべく、1999年度以降、連結重視の開示を行っている。

当社業績とGDP、建設投資の推移
当社業績とGDP、建設投資の推移
品川インターシティ
品川インターシティ