阪神・淡路大震災:【コラム】阪神・淡路大震災の記憶

阪神・淡路大震災から17年が過ぎた。当時、神戸支店で復旧工事に携わったOBの方々に記憶をたどっていただいた。

早かったトップの方針
Q:

現地指揮者として、どのような方針で対応したのですか。

A:

会社のトップの判断はすごかった。震災2日目に四国経由で来神した津室社長から、利益は一切考えるなと言われた。これで思う存分できると思った。実質何もできなかった時期に、お墨付きをもらってすぐに動くことができた。
現場の人間も手抜きはしなかった。大林のきっちりした社風がよくわかった。トップから末端までの大林のDNAがここに集中している、100年もの歴史がここに集まっていると思った。普段からそういう精神があるから、社員の一人ひとりが自分の判断で動いた。

社員は
Q:

社員で亡くなった方はいなかったと聞いています。

A:

支店で亡くなった方はいなかったが、住んでいた家が全壊した人、子どもがけがした人、ご両親や奥さんがなくなった人はいた。会社に来ている人たちは「大丈夫です」という感じだったが、中には家を放っておいてまず会社に来たという人もいた。会社を優先するか、家族を優先するかは難しい問題だが、建設業で、やはりインフラは自分が手がけてきたものだから。会社には来なくても、地域の被災者や亡くなった人の面倒を見ていた人もいた。

工事費の代金
Q:

復旧工事費の精算で苦労はなかったのですか。

A:

復旧も工事案件なので、依頼があると事務所をつくる。所長や職員を配置し、協力会社を選定する。通常と違ったのは、詳細な事前契約を行わず事後精算ばかりだったこと。支払いの際、どの物件も絶対に値切らなかった。私たちも協力会社に対してはそうだった。気持ちが入っていた。シビアに鉛筆をなめて精算するようなものではなかった。
協力会社についても、やはり長年の付き合いがあるところをメインに考え、顔を立てる。そのぶん、無理がきいたりもする。最優先にしてくれる。協力会社は、地域の人たちはもちろん、全国から人を集めて送ってきた。地元からの手配もあるし、いろいろな人に頼んで、実際の作業を行う大工さんなどを集める。実作業を行う人は監督の10倍は必要。
通常であれば1年半かかるものを4ヵ月で完成させたりもした。結果、経費的にはむしろ安くつくので、その年は利益が増えてしまった。

瓦礫の片付け
Q:

公道上の瓦礫の片付けも手がけたと聞きました。

A:

道路を空ける場合、倒壊したビルにもオーナーがいる。半壊・全壊など、行政がチェックして判断していた。ビルが私物でも、道路にあれば障害物となり、道路管理者に建物に対する権限がある。どけなさい、どけないならうちでやります、という感じになっていた。
瓦礫撤去も問題だった。仮置きして、可燃物と諸々を分別して埋め立てるなどした。神戸市でも、投棄・処分の場所は決まっていた。当時の瓦礫の分別は今でも続いている。絶対量を減らすための方法だ。

住・食の状況
Q:

寝泊まりや食事はどうでしたか。

A:

作業の間、郵船ビルの机の上に寝泊まりした。雑魚寝で、2、3日帰らなかった。その後は、下着なども用意されたし、食料は、早い段階からあった。最初は腐らない牛乳や乾パンで、そのうちに駅弁のようなものになった。弁当が冷たかったりしたが、そんなことはまったく気にならなかったし、文句を言う人もいなかった。
社員は、3日も寝てないとか、1週間お風呂に入っていないという人もいたが、「大変ですね」と言っても、「当たり前ですよ」という感じだった。この町は、自分らがどうにかせなあかんという使命感のようなものを誰もがもっていると感じた。