130年史概観
創業・草創期
1892
明治25
1926
大正15

大林芳五郎の立志と創業

大林組の創業者大林芳五郎は、江戸時代末期の1864(元治元)年に大阪で生まれた。11歳で呉服店へ見習い修業に入り、18歳で独立。不景気のあおりで半年もたたないうちに店をたたむことになるが、19歳で、かねて有望な事業と考えていた土木建築請負業への転身を志し、宮内省出入りの請負業者である砂崎庄次郎のもとに身を寄せることになった。

その後、芳五郎は砂崎家が請け負っていた東京遷都に伴う皇居造営を手伝うことになり、材料、施工にかかわる専門的な知識と技術に習熟。当社の伝統とする材料の精選と入念な施工は、ここに発している。

5年間の修業を終えて戻った大阪では、日本が近代へと向かう変革の時代のなかで、鉄道、紡績、皮革、鉄工業などの会社が次々に創立され、事務所や工場の新増設が相次いでいた。東京で最先端の技術を学んだ芳五郎は1892(明治25)年1月18日、近江出身の豪商・阿部家の経営する阿部製紙所の工場新設という大工事の落札に成功。それから7日後の1月25日を創業の日と定め、「大林店」を開業した。27歳で飛躍の機会が訪れたのである 。

大林芳五郎(創業当時)
大林芳五郎(創業当時)
阿部製紙所 1892(明治25)年
阿部製紙所 1892(明治25)年
創業当初の「大林店」店舗
創業当初の「大林店」店舗

「大林組」に改名、信用を固める

当社は、創業の翌1893(明治26)年に朝日紡績株式会社(現在のシキボウ株式会社の前身の一つ)の今宮工場(大阪)を受注、さらに1894年にも阿部家の経営する金巾製織株式会社(かなきんせいしょく、現在の東洋紡株式会社の前身の一つ)四貫島工場(大阪)の建設を請け負うことになった。

19世紀末の日本では、明治政府が国策として掲げた「富国強兵」「殖産興業」が軌道に乗って数多くの産業が立ち上がり、建設需要も急速に増大していた。

紡績工場の建設で実績を積んでいた当社は、次々に工場の新設工事を受注、さらに銀行や学校などの大型工事を手がけ、施工地も大阪から京都、神戸、広島、九州、東京まで拡大、事業の礎を固めた。同じ資本系列からの受注が続いていることから見て、事業を通して着々と信用を築いていたことがうかがえる 。

これは、芳五郎が常に標榜していた「施工入念」「責任遂行」「誠実黽勉 (びんべん)」「期限確守」「安価提供」が文字どおり実践されたことによる。その結果、創業まもないこの時期に、大阪市築港工事や第五回内国勧業博覧会(明治政府の殖産興業政策の一つとして開催された国内物産の博覧会)をはじめ、当時の大阪を代表する大工事を受注し、早々に業界で確固たる地位を得たのである 。

大阪市築港工事
大阪市築港工事
第五回内国勧業博覧会 全景
第五回内国勧業博覧会 全景
木造建築物として初めてエレベータを備えた「大林高塔」
木造建築物として初めてエレベータを備えた「大林高塔」

こうして1904(明治37)年2月、店名を正式に「大林組」と改名、同年6月には東京にも事務所を開く。次いで1905年には本店を大阪市東区北浜(現在の大阪市中央区北浜)に移転、西区境川には製材工場を開設して、業容を整えた。

大林組本店(北浜)
大林組本店(北浜)
1906(明治39)年新年始業式、本店裏庭にて   前列左から5人目店主芳五郎
1906(明治39)年新年始業式、本店裏庭にて
前列左から5人目店主芳五郎

拡大の時代――明治末、全国に名を馳せる

1911(明治44)年には、日露戦争(1904~1905)の影響で1908年まで中断されていた東京中央停車場(開業時、のち東京駅に改名)建設工事の入札において指名された。東京駅駅舎は辰野金吾設計の名建築だが、同時に施工技術も高い評価を受けている。

大林芳五郎
大林芳五郎
東京中央停車場 鉄骨組み立て
東京中央停車場 鉄骨組み立て
東京中央停車場竣工式の日
東京中央停車場竣工式の日
東京中央停車場全景 1914(大正3)年
東京中央停車場全景 1914(大正3)年

東京のシンボルともいうべきこの大工事の完成によって、それまで関西業者と見られていた当社は、一躍全国的業者としての地位を確立することになり、東京でも続々と工事を獲得していった。1912年7月に明治天皇が崩御、この時代の終わりに当社は京都・伏見桃山御陵造営の特命を受けた。

また、東京中央停車場の受注と同じ1911年、当社は大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)から、大阪府と奈良県の間にそびえる生駒山系に、全長3,388m という複線では当時日本最長のトンネルを掘るという、他に類を見ない大工事を受注した。地下水の湧き出る軟弱地盤に悩まされ、1913年には大規模な落盤事故も発生したが、3年後の1914年に完成する 。

生駒隧道工事・導坑掘削
生駒隧道工事・導坑掘削
生駒隧道
生駒隧道

大林義雄の近代化政策

1916(大正5)年1月に創業者・芳五郎が52歳で他界し、大林義雄が二代社長を継承した。時に大林義雄社長は早稲田大学商科に在学中の22歳の学生であった。当社は創業以来の社員一同が一丸となって結束を固め、時代の気運に乗じて危機を突破。社員も200人を超え、さらなる近代化をめざして1918(大正7)年12月、株式会社大林組を設立した。

大林義雄
大林義雄

株式会社設立当初の本社組織は、庶務、会計、現業、製材、設計、営業の6部制で、この時期に社内に設計部が置かれたのは先進的であった。また、社員持ち株制度を導入していることも当時としてはきわめて珍しい。出入りの協力業者による「林友会」でもこのころ規約・機構を定めている。役員や技術者たちは、毎年のように欧米に派遣され、視察や工事現業の修得も実施された。旧態にとどまったままの業界からいち早く脱し、積極的に近代化を進めたのであった 。

大林組本店(1919年)
大林組本店(1919年)

関東大震災での復旧・復興への貢献

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生、東京・横浜を中心に首都圏はほぼ壊滅状態に陥った。当時の洋風建築の主流であった煉瓦造りの建物の8割強が全・半倒壊した一方で、大林組の手がけた東京駅などには損傷がなく、この実績が評価されて多くの復旧・復興工事を担うことになる。その最大の工事が、三菱合資と米国フラー社の合弁会社が施工した旧「丸ノ内ビルヂング」の改修工事であった。

改修中の丸の内ビル
改修中の丸の内ビル