130年史概観
近代化政策と戦争の時代
1926
昭和元
1945
昭和20

技術・施工部門の刷新

大林義雄社長の義兄にあたる大林賢四郎副社長は、技術陣のトップとして積極的に最新の海外知識を取り入れ、土木・建築両部門における組織と技術の近代化を推進した。

大林賢四郎
大林賢四郎

賢四郎の資質、才能と、その努力は当社に多くの足跡を残している。一つは1932(昭和7)年制定の「工事費予算統制規程」であり、もう一つは賢四郎が編集し、1935年に刊行した『現場従業員指針』である。

『現場従業員指針』は事務経理、建築、設備、電気の4部からなるハンドブックであり、これは、米国の科学的管理方法を導入し、工事施工計画のシステム化を図るために作成された。

この指針が現場の経営近代化に果たした役割は非常に大きく、巻頭に明記された「良く、廉(やす)く、速い」は、三つの戒めの意「三箴」(さんしん、「箴」は戒めの意)と呼ばれ、いまなお大林組にとって大切な指針となっている。これは、創業者芳五郎の精神を初めて明文化したものであった。

現場従業員指針
現場従業員指針

大陸への進出

昭和は関東大震災からの復興とともに幕をあけ、当社は、明治天皇の伏見桃山御陵に次いで、大正天皇の東京・浅川の多摩御陵の造営と、翌年の京都での天皇即位御大典の諸工事でも特命を受けた。

やがて日本は戦時体制に入り、1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、翌1938年4月には 「国家総動員法」が公布され、大林組や協力会社の社員たちも召集され、労働力不足に陥った。一方、満州(現在の中国東北部)、華北(中国北部)では建設工事が急速に増大。当社も1940年3月に株式会社満州大林組を設立し、大陸に進出する。

満州の関東軍司令部庁舎(1934年竣工)
満州の関東軍司令部庁舎(1934年竣工)

1940年9月には日本軍が北部仏印(現在のベトナム)に進駐。これに伴って台湾は日本の南方進出における拠点としての重要度を増し、大林組台北出張所の業務もにわかに繁忙となり、台湾電力からは天冷発電所、円山発電所の建設工事を受注、さらに海軍から軍港工事、海軍病院、陸軍からは倉庫建設などを受注した。

台湾電力円山発電所(工事中)
台湾電力円山発電所(工事中)

戦時下の社長交代と終戦

創業50年となる1941(昭和16)年には、のちに社長となる大林芳郎が東京帝国大学工学部建築科を卒業し、大林組に入社するが、同年12月に日米開戦の火蓋が切られ、1942年に召集される。

戦争のさなかの1943年10月5日に大林義雄社長が他界したため、和歌山の連隊に入営していた芳郎が三代社長に就任。そこで、当社は経営を円滑に進めるために取締役会長制を設け、白杉嘉明三(かめぞう)が会長となった。

1945年8月、終戦を迎え、大林芳郎社長は復員して社業に就く。終戦時の当社従業員数は役員以下3,288人であった。

戦後の国土再建の波と歩調を同じくして当社の業容も徐々に拡大。産業の革新と発展、都市化とともに、建設業も近代化と技術革新の道を進んでいく。

創業50周年での大林芳郎(中央)
創業50周年での大林芳郎(中央)