革新の息吹
1945(昭和20)年9月、日本はアメリカの戦艦ミズーリ号上において降伏文書に調印し、旧時代に別れを告げた。以降、政治・経済・文化から日常生活にまでわたる大変革が急速に実施されていく。建設業にとっても例外ではなかった。1947年1月、大林芳郎社長は新年の始業式で企業理念の革新を唱え、「利潤第一主義から生産第一主義への転換」「民主的な社会協同精神への発展」「科学的な組織化」を掲げた。
敗戦直後の建設業にとって特記すべきは「進駐軍工事」であった。戦後、米軍を主体として多数の占領軍が全国に駐留して占領統治を行うなかで、そのための飛行場の新設・整備、兵舎や家族用住宅の建築、高級将校用の接収住宅の改築などが、至上命令として要求された。これらの工事は軍の厳しい監督下にあり、工期も厳守されたが、一面では詳細な仕様書、機械化工法、近代的管理、進んだ設備、安全衛生など多くのことを学ぶ機会となり、建設業近代化の手本となった。
進駐軍工事と並んで戦後の建設業を支えたものは、即効的な生産効果や失業者救済の意味を含んだ公共施設の復興工事であった。さらに世の中が落ち着くにつれて企業も生産拠点の復旧、整備に着手し、建設需要が起こった。
また、この時期の日本では、電力の確保をめざして各地で水力・火力発電所が建設されたが、糠平ダムは、大林組の社運を賭けた大工事であった。建設現場は北海道の大雪山国立公園内に位置し、冬はマイナス20℃近くに達する極寒の地であったが、全社一丸となって予定どおり3年で完成した。
こうして建設業は自らの再建に苦しみながらも、戦後復興の担い手としての役割を果たしていった。
荒廃した国土の再建に尽力した建設各社は、朝鮮戦争(1950~1953)の特需景気で急速に業容を回復。当社は1951年に一応の企業再建整備を終えた。業界の復興そのものも大命題であり、大林芳郎社長は全国建設業協会理事(のち会長)、大阪土木建築業協会経営委員会委員長(のち会長)として注力。「建設業法」の制定にも、業界代表の一人として積極的に対応した。

施工技術の発展
朝鮮戦争に続く約5年間は、建設技術の面において、戦前の水準に復帰し、1955(昭和30)年以降に本格化する各種技術の下地が形成された時期であった。
重機械類は、初めのうちは特別調達庁が保有する米軍の払い下げ品や、官庁が購入したものを貸与され、直轄工事で使用していたが、ダム建設などの大型工事が増えるにつれて、業者自身が保有するようになった。
経済の復興とともにビル建築工事も活発化し、ブルドーザー、パワーショベルなどが導入された。1953年のNHK東京放送会館新館工事では、さらにベルトコンベヤーなども使用され、同年着工した東京駅八重洲本屋・鉄道会館工事では、当時ダム工事に使われ始めていた全自動コンクリートプラントが採用されて、コンクリート工事の管理面が著しく向上した。
この時期には現場練りコンクリートが生コンクリートに置き換えられるという画期的な出来事もあった。当社が生コンクリートを最初に用いたのは、1952年の東京の帝国銀行(のちの三井銀行)阿佐ケ谷支店工事である。

1950年に大林芳郎社長は戦後の技術革新、機械化工法の実情を視察するためアメリカに出張し、当社の工法近代化、重機械装備につながったのである。

高度経済成長時代の躍進
1956(昭和31)年度経済白書の「もはや戦後ではない」の言葉とともに高度経済成長が始まり、建設史上空前といわれる繁栄の時代を迎え、当社は日本を代表する総合建設会社として成長していった。

こうした躍進とともに建設業は一つの転機を迎えた。それは、従来とは比較のできない多額の資金を要するようになったことである。
まず施工の機械化が急速に進み、建設会社はこれに多額の資本を投下しなければならなくなった。工事の多様化、巨大化が顕著となるとともに工事費は高額になり、発注者が支払いに条件をつける傾向も現れた。そこで、将来の資金調達のために、株式を公開して一般投資家の参加を求めることとし、1957年に第一歩として大阪証券市場で店頭売買に付し、1960年には東京証券取引所に上場した。

1961年10月には、東京証券取引所に第二部が創設され、同業20数社が一斉に株式公開に踏み切った。建設業はかつての閉鎖性を脱却し、そして世間もまたそれを認め、公開された建設株は折からの建設ブームを反映し花形株として人気が集中したのである。
海外事業の端緒と拡大
日本の建設会社の海外進出は、戦後、東南アジア諸国に対する戦後賠償の工事によって始まり、これが1954(昭和29)年から1963年ごろまで継続した。この間に当社が受注した賠償工事は、インドネシアではスマトラ島パレンバン市のムシ大橋架設、ジャカルタ市のサリナ百貨店建設であり、カンボジアでは経済技術協力協定に基づく無償援助として、農・牧・医センターの建設にあたった。

一方、建設業界では、賠償工事に先立ち、すでに海外市場に目を向ける動きも現れていた。当社は1950年代半ばから役員はじめ幹部を次々に東南アジア各地に派遣して市場調査を実施。この時期の海外工事部の活動は、近い将来、途上国の開発に協力する日を見越しての準備であったが、賠償工事を行ったことにより、現地の事情について具体的な手がかりを得た。
1963年には、大林芳郎社長が東南アジア諸国を歴訪、現地事情を視察した。その結果、最初の拠点をタイに設置することとし、1964年4月、日本の建設業者の常駐第1号としてバンコクに駐在員事務所を開設した。このとき受注したAIA(アメリカン インターナショナルアシュアランス)ビル新築工事は、当社が商業ベースで行った本格的な海外工事の最初である。1974年にはタイ大林を設立し、実績を積んでいった。

また、1966年にはハワイに進出、ホノルルのサーフライダーホテルの建設特命を受けるとともに、同年4月外国会社としての営業登録を行い、米国進出への足がかりとした。これら海外工事においては、現地の地域開発に協力し、現地住民との交流を進めるなど国際親善に努めた。
大林組技術研究所の新設
1960年代には社会資本の充実が優先され、旺盛な公共投資需要が持続し、あわせて原子力発電、情報産業などの新規分野への投資が始まってジョイントベンチャー(JV)施工が急増、海外工事も軌道に乗り始めた。建設業全体にとって、飛躍的な発展と新展開の時代となったのである。

当社は1965(昭和40)年、東京都清瀬市に技術研究所を開設し、技術開発を本格化。新たな工法の開発が、より多様な大型工事の受注に結び付いていった。

なお、1965年3月には、日本の超高層建築の先駆けとなる横浜ドリームランド・ホテルエンパイアが竣工した。
