130年史概観
飛躍とグローバル化
1970
昭和45
1988
昭和63

本社機構の東京移管

1970(昭和45)年12月、本社機構が大阪から東京へ移管された。かねて東京支店を東京大林ビル(1961年竣工、千代田区神田司町)に置き、業務の増大に対応していたが、経済活動の東京への一極集中がますます進み、拠点としての東京の重要性が増した。

当初、商法上の本店は大阪のままとしていたが、このときあわせて関西初の超高層ビルである地上32階・120mの大阪大林ビル計画を発表し、翌年着工。1973年の竣工と同時に本店機構を移転し、大林組の東京本社と本店の両輪による独自の体制を軌道に乗せた。

しかし、1970年を境に日本経済はその流れを変え、「転換の時代」へと移っていった。石油危機の影響で建設資材が高騰し、建設コストを大きく押し上げたのである。

日本初の2階建て(ダブルデッキ)エレベータ(大阪大林ビル)
日本初の2階建て(ダブルデッキ)エレベータ(大阪大林ビル)

大林芳郎社長、訓示を出す

第一次石油危機発生後の不況のなかで、大林芳郎社長は、1975(昭和50)年の年頭、「戦後最大の試練の年を迎えて」と題して当時の情勢とそれからの方針について全社員に向けて訓示を出した。当社の経営が容易ならざる事態に立ち入りつつあるとの認識のもとに、非常事態の宣言ともいえる危機乗り切りのための方策が打ち出されたのである。

大林社長による「戦後最大の試練の年を迎えて」の訓示は、日本経済がマイナス成長となった1974年を経て安定成長への軟着陸をめざした政策的転換を背景に、建設業に厳しい時代が訪れたことを強調し、当社の進路に指針を与えるものであった。こうした事態を受けて、「工事獲得高の増大を図ること」を最大の命題とし、あわせて合理化策にも取り組んだ。

社長から社員への呼びかけを載せた『マンスリー大林』(1975年7月号)
社長から社員への呼びかけを載せた『マンスリー大林』(1975年7月号)

アメリカで高い評価を受ける

1979(昭和54)年8月、当社が受注に成功し、10月に着工したサンフランシスコ市下水道工事は、わが国の建設業者が初めて米国本土で受注した公共土木工事である。

この工区は全体に軟弱地盤であり、周辺環境に対する厳しい制約があったが、当社は、アメリカではそれまで施工例のなかった土圧バランス式シールド工法で応札した。同工法としても当社の初期の施工例であるが、その技術力はアメリカの建設技術専門誌『ENR』の誌上で高く評価された。その実績を背景として、1981年には現地の会社との共同企業体により、同幹線工事の別工区を受注した。

次いで合衆国内務省の発注によりユタ州ヒーバーのストロベリートンネル、1982年にはコロラド州ドローズトンネル、1983年にはニューメキシコ州でエネルギー省発注の放射性廃棄物処理テストプラント立坑トンネル工事を行うなど、ロサンゼルスを中心とした民間諸工事の増加と相まって、米国本土における地歩を固めた。

当社の業績は1979~1981年度において受注高、売上高とも順調に伸び、経常利益、当期利益はともに急上昇を示した。

バブルのなかで迎えた創業100年

第二次石油危機後の1980(昭和55)年初めから景気後退に入った日本経済は、1983年2月に底を打った後、緩やかな回復過程に入り、3年に及ぶ戦後最長の長期不況から脱出した。しかし、そのような経済の立ち直りとは裏腹に、建設需要はこのころから不振を続ける。それは、公共投資の不振と民間設備投資の伸び悩みによるものだった。この建設業冬の時代は、1986年には終わりを告げ、バブル経済と呼ばれた大型景気の到来とともに、1987年に入ると一変して建設需要は急速に増大。1989(平成元)年からは2年に及ぶ建設ブームに沸き上がった。

1989年6月、1943年以来45年にわたって社長を務めた大林芳郎が会長に専任、津室隆夫が四代社長に就任した。1990年4月には、新しい企業理念を定めて、21世紀に向かう当社の決意と姿勢を社内外に明らかにした。それが、空間価値を造り出し、社会と感動を共有する「人間尊重企業」宣言となって結実する。同時に、これを象徴し体現するものとして、新社章、コーポレート・カラー、社名ロゴを制定。次いで翌1991年4月、創業100年にあたり、長期経営ビジョン「大林ルネッサンス111」を策定、同年7月に発表し、次の創業111年を目標に「顧客、社員、社会に対してナンバー1」企業となることを標榜して、新しい世紀のリーディング・カンパニーをめざす自覚を確固なものとした。

建設記者クラブでの記者会見に臨んだ大林芳郎社長(右)と津室隆夫専務(左)
建設記者クラブでの記者会見に臨んだ大林芳郎社長(右)と津室隆夫専務(左)
企業理念ポスター
企業理念ポスター

しかし、昭和の終わりから平成の初めにかけて、冷戦終結や地球環境問題への関心の高まり、情報通信技術の発達などを背景に、時代は大きく変わり始めていた。日本もバブル崩壊で景況が一変、少子高齢化やグローバリゼーションが進み、新たな成長モデルが求められたが、突破口が見つからないまま、「平成不況」が始まった。