大林芳郎名誉会長逝く

2003(平成15)年7月19日、大林芳郎名誉会長は東京都内の病院で85年の生涯を閉じた。

「お別れの会」は8月22日にホテルオークラ東京、8月25日にハイアットリージェンシー大阪で行われ、得意先をはじめ、友人、協力会社など、東京では2,500人、大阪では2,300人もの方々が別れを惜しんだ。社内では、東京本社、本店はじめ各支店に7月22日から25日の4日間にわたり拝礼所を設けた。

大林芳郎名誉会長は、1918年(大正7)年大林賢四郎、大林ふさ(創業者大林芳五郎の長女)の次男として大阪府に生まれ、1941年4月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後当社に入社した。臨時召集を受けて入営中の1943年11月、当社2代目社長大林義雄の死去に伴い、応召中のまま3代目社長に就任。1945年12月に復員、3,000人を超える従業員とともに終戦直後の未曽有の混乱の中、わが国の復興に取り組んでいった。1950年9月、近代的な施工技術、機械化施工の視察のため渡米、この経験が当社の技術開発、施工合理化の礎となる。

1960年には、全国建設業協会の第3代会長に就任。技能労働者の不足対策として養成施設の設置を計画するとともに、職業訓練法に基づき、機械・仕上・板金・建築大工・機械製図の5職種について第1回技能検定試験を実施した。1961年9月には公共工事適正単価確保全国建設業者大会を開催し、池田首相と会見、中小企業の窮状を訴え、業界挙げての陳情により、公共工事単価値上げの補正予算12億円の成立に繋がった。1962年には会長に再選され、業界全体の労務問題にも取り組み、工事現場の一斉休日実施を推進し、退職金制度制定にも着手、退任後の1964年10月には建設業退職金共済組合が発足、同年8月には建設業労働災害防止協会が設立された。

1987年には会長職を兼任したが、1988年には社長を津室隆夫に引き継ぎ会長職に専任、2003年には会長を退いて名誉会長に就任した。この間、1988年5月には、フランス政府より、同国との技術・文化交流の功績に対して国家功労勲章シュヴァリエを受章。1998年9月には私財を投じて、都市の構造と機能、文化と環境に関する研究への助成を目的とする大林都市研究振興財団(2011年9月、公益財団法人大林財団に改称)を設立している。

最後に、25歳での社長就任に際し、和歌山の軍営から全社員に向けて送った挨拶文と社内報で語った言葉を引用し、終生変わることのなかった当社への思いを記す。

「予今先考ノ後ヲ承ケテ大林組社長ニ就任ス、然リト雖モ目下軍務奉公中ニシテ親シク社務ヲ見ルコトヲ得ズ、就テハ重役一同ハ申スニ及バズ全員一致団結、当組伝統ノ精神ヲ発揮シテ職域奉公ニ邁進シ、以テ決戦下当組ノ負荷スル建設ノ重任ヲ完ウセラレンコトヲ望ム
予他日幸ニシテ軍務ヲ了エ帰還セバ諸君ト共ニ社業ニ邁進シ之ニ一段ノ光輝ヲ添ヘンコトヲ期ス、其ノ間予ハ只軍務ニ精励スベキヲ以テ諸君ハ呉々モ和衷協同各其ノ職務ニ挺身セラレンコトヲ望ム」(1943年11月)

「長く経営者の立場に立ってきましたが、つらいと思ったことはありませんでした。これは私の運命なんです。」(2001年1月)

お別れの会(東京会場)
お別れの会(東京会場)
お別れの会(大阪会場)
お別れの会(大阪会場)