工楽松右衛門(1743-1812)

港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

兵庫県の中央部を南流して瀬戸内海へ注ぐ加古川は、南北東西の舟運の結接点として、その河口西岸に高砂という港町を発達させてきた。この港町は、漁師町である一方、近世以降、姫路藩および、幕府領や周辺諸藩の年貢米の集積地として重要な位置を占めていた。

工楽(くらく)松右衛門は寛保3(1743)年にこの高砂に生まれて、文化9(1812)年に70歳で生を終えた。漁師の子として成長していたが、20歳になる頃、船乗りをめざして兵庫に出て、回船問屋として活況を呈していた御影屋一統の一員に雇われた。そこで御影屋松右衛門と名乗り、沖船頭をつとめながら研鑽を積んだ。

40歳を過ぎた頃、天明年間(1780年代)には独立して店を構え、船持ち船頭として廻船業を始めている。その廻船活動は大坂、兵庫を出帆して瀬戸内海の各港で塩、繰綿などの荷を積み、赤間ケ関(下関)を廻って日本海へ出て、山陰・北陸を寄港しながら、さらに藁などを仕入れて北国へと向かった。北国から大坂へ運ぶ上り荷物は、米と材木が中心であった。この運航には15~18端(たん)帆の船が用いられている。すなわち10人程度の乗組員で500石ほどの積荷を輸送していたようだ。松右衛門は北国との往来だけでなく、大坂~江戸間の菱垣廻船に携わっていた記録もある。

松右衛門帆の創製

松右衛門は先にみたような北や西への航海を繰り返すうちに、船の帆が当時使われていた木綿布を2枚重ねて縫い合わせただけの「刺帆(さしほ)」では、柔軟さがなくて折りたたみ難く、雨に濡れた際には重くて扱い難いなど、非能率的なやっかい物であることから、その改良に取り組んだ。それは地元伝統の播州木綿の織りを参考にして、まず通常より太い糸を撚り、その糸を縦横2本ずつで織る平織に仕上げるのである(幅約2尺2寸~5寸70cm余)。その際、帆布として扱い易いように試行錯誤の末、布の両端約2寸弱だけは縦糸1本で織りあげるという工夫をし、完成したのは天明5(1785)年のことである。この幅の布を横へ何枚か縫い合わせて大きな帆布に仕立てるのであるが、この時、布両端の織りが効果を発揮するのであった。

この独特の新帆布は風雨にも強く乾燥も速いなど、その機能性の良さは船仲間のあいだで評判となり「松右衛門帆」という名で全国に普及していった。これは船の安全航行を助け、物資の運送力アップに大いに貢献したことになる。当時各地の港から出て繁栄を極めていた北前船を、まさに順風満帆に運航させたのである。

松右衛門はこの帆布の製造を独占せずに広く開放し、多くの海人の使用を望んだ。彼曰く「凡(およ)そ其の利を究(きわ)むるに、などか発明せざらん事のあるべきや」(そもそも利益を求めようとするなら、どうして発明、工夫をしないでおられようか)とつねづね言い、これが彼の生涯の信念であった。この帆の普及に伴い、明石周辺には織帆工場が林立したようである。

新帆登場から70年ほど経った幕末頃には粗悪品が出回ったため、品質管理の改め方の文書提出を幕府に願い出るということもあったようだ。

港湾の整備

松右衛門は享和2(1802)年から文化4(1807)年まで、幕命により箱館奉行所の御用を遂行する「御雇」を勤めることになった。その最初の仕事として、享和2年(※1)にエトロフ島へ渡って、島の北部西岸に位置した有萌湾に「恵登呂府波止」を築いている。その後、箱館奉行所の役人で樺太の探査で知られる松田伝十郎がエトロフ島紗那に赴任した折、地元では「湾内を浚い、大石を除いて廻船の出入りを安くせし澗(ま)(船着場、係留場)を、松右衛門泊りと呼び伝えている」と聞いたと、彼の著作である『北夷談』(※2)に記している。松右衛門の徳を慕って、地元民のあいだで言い伝えられていたのだろう。このエトロフでの築港工事完成の功績により、御影屋松右衛門は「工楽(くらく)」という苗字を幕府箱館奉行より与えられ、のちに姫路藩もこれを追認したことにより、以後工楽姓を用いることになった。これは工夫を楽しむ、工事を楽しむという意味を込めて名付けられたものであり、松右衛門にとってこの上ない賜物であったに違いない。

文化元(1804)年には箱館で築島の埋立てと船渠の造営を完成させている。これらの普請のなかでも焚場(たでば)という作業所の建設には、耐火性のある播州産出の竜山石を遠路運んで使用している。これには後に掲げるような松右衛門考案の各種工作船が、活用されたのであろう。

蝦夷地での御用を終えた松右衛門は69歳になって兵庫に戻り、その後高砂に拠点を移した。以後は地元での港湾整備に励むつもりでいた。ところが、文化7(1810)年に備後福山藩の要請により鞆港(広島県福山市)の改修を依頼された。しかし老体の身であるために断ったが、それでも何とか引き受けてほしいという願いから受諾した。同年に現地で浚渫計画を策定し、図面を作成するなど準備を始めた。翌8年には本格的に取りかかって、大可島膝下の大波止50間余を8カ月で完成させている。

この築堤には鞆周辺の島々から石材を調達したようで、ここでもかつて考案した工作船に加えて、新たに利便性のある作業船を造って活用したに違いない。現に生き続けているこの防波堤の基底部には、数トンもある大石が所々に使われているのが海面下に見える。同世代の備後の文人である菅茶山(かんちゃざん)は、『鞆浦石塘記』という著作で松右衛門のこの業績を讃えた文を残している。この鞆港の波止建設に合わせて、芦田川下流や福山城下入川の浚渫も同時に計画されたが、前者は頓挫するも、藩との資金調達を協議しながら後者は実行されている。これら一連の工事終了にともない、福山藩は松右衛門らに三人扶持を与えている。文化9(1812)年8月21日に、松右衛門は高砂の自宅で死去した(享年70歳)。

この鞆の築堤に携わった石工たちの技術は、松右衛門から修得したものと伝えられていたことから、のちになって天保期に、幕府領であった石見国大浦湊(島根県大田市)の修築にその技術が買われて、鞆の石工が参加したことが記録に残っている。このように松右衛門の持つ土木技術や、作業に応じたさまざまな船の建造や資材の運搬方法は、松右衛門帆の普及とともに、津々浦々で活かされるようになっていったようである。

松右衛門は工楽の姓を与えられて60歳になった頃から、持ち前の発想力と高い技術力が幕府や藩に注目されるようになり、各地からお呼びがかかり、直接現地で手を下さないまでも、相談に乗ったりすることが多かったようで、それを物語る文書類が残っている。小倉藩からの依頼で、筑前伊田川、今川の整備に関与し、彦山からの木材搬出が可能になったという記録もある。このほか、豊前宇島湊(大分県豊前市)の築港や、宇和島藩の奥南(おくな)運河浚渫、磯崎浦の波止建設にも協力したらしい。

船造りも手がける

このような土木事業以外に、松右衛門は造船の仕事にもかなり関わっている。豊後日田出身で松右衛門とほぼ同時代に生きた農学者として名高い大蔵永常は、『農具便利論』(文政5(1822))という著作で、松右衛門の仕事を紹介しながら、「工楽翁の造れる種々の船ハ、農具にあらざれども新田開発の時、又ハ風波あらき所へ波戸を築、或ハ海辺の堤など築に用ゆれバ、農家の一助ともなれバ...」と記して、船や道具類を図示している。他に杭抜船や石積船、土砂積船、轆轤板如連捲船などもある。永常はこれらの船図を伊勢亀山藩士から入手したようだ。鞆の築港と同じ文化7(1810)年には小倉藩から朝鮮通信使節用の船の建造を依頼された。この船は、船内の居室が大波で揺れても安定感のある空間に仕上げたというもので、高砂にちなんで「相生丸」と名付けられた。残念ながらその仕様書や設計図は残っていない。翌年2月には小倉で完成した船を引き渡し、藩主の小笠原忠固(ただかた)より御用達格に命じられるとともに、麻の裃(かみしも)が贈られて、今も残っている。

工楽松右衛門の事業を支えた土木技術や造船のノウハウは、いったいどこからその知識を吸収していたのだろうか。図面をおこし、現場を動かすことは1人ではできないだろうと思われる。このことについては、今後どこかに現存するであろう古記録などから解明できることに期待をかけたいと思う。

先の大蔵永常の著作の中に、松右衛門翁の言葉として次の1文がある。「人として天下の益ならん事を計(はから)ず、碌々として一生を過(すご)さんは禽獣にもおとるべし」(人として世の中に役立つという努力もしないで、ただ漫然と一生を送るのは鳥や獣にも劣ることである)。そして永常は翁を評して「其志ざす所無欲にして皆後人のためなる事を而已(のみ)生涯心を用ひたりき」と記して、松右衛門が生涯にわたり全てに欲が無く、ただ後世の人のためになることのみを願って過ごしてきたと言っている。そして1度翁に会いたかったが、70歳にして長逝してしまって後悔が残ると述べている。

松右衛門の死去にともない、その子長兵衛が相続人となったが、しばらくして改名が認められ、2代松右衛門と名乗るようになった。その子も3代松右衛門を踏襲し、家督を継いだ。2代松右衛門は、先代が手がけた鞆の築堤を現場で指揮したり、小倉藩からの相生丸建造を手伝っている。新たに桑名藩の御用船造りに励むなど、造船技術が高く評価されていたようだ。また讃岐金毘羅社金堂建造用の材木を出羽から運んだりもしている。一方地元では高砂港の改修に励み、浚渫した土砂の処理をすることで新田開発を推し進め、3代松右衛門(明治14年没)に引き継ぎ、今日の高砂港の原形ができあがった。その高砂港は、1950年以降埋立てを重ねて大きく変貌し、港門の「東風請(こちうけ)」と「一文字堤」が松右衛門造の遺構として命脈を保っている。

  • ※1 これまで工楽松右衛門の仕事を紹介する記述のなかで、松右衛門のエトロフでの築港の年代が寛政2年とされることが多々あった。しかしこれは文書に記された「戌十二月」を寛政年と読みとった誤りで、近年の文書研究では「戌」は当時の蝦夷地の情勢から、干支で一巡後の享和2(1802)年が適切であると修正されている。
  • ※2 出典「北夷談・北蝦夷図説・東蝦夷夜話」『北門叢書』第5冊大友喜作編北光書房 1944

参考文献

  • 大瀧白櫻「播州の要津高砂港(中)」『港湾』第6巻第11号港湾協会 1928
  • 土木学会編『明治以前日本土木史』岩波書店 1936
  • 高砂市教育委員会編『工楽家文書調査報告書』 2019
  • 大蔵永常「農具便利論」『日本農書全集15巻』農山魚村文化協会 1977
  • 首藤充康「工楽松右衛門伝」『全日本重布新聞』全日本重布新聞社 1954
  • 松木哲「松右衛門帆」『海事資料館研究年報』26-1-10 神戸商船大学 1998
  • 関輝夫「築島と工楽松右衛門」『神山茂著作集』神山茂著作集刊行会 2003
  • 鞆まちづくり工房編『工楽松右衛門の謎とき』NPO鞆まちづくり工房 2009
  • 松岡秀隆『工楽松右衛門略叙』友月書房 2009
  • 吉田登「‐港づくりの天才‐帆布の発明者工楽松右衛門」『みなとまち高砂の偉人たち』交友プランニングセンター 2010
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    工楽善通(大阪府立狭山池博物館長)

    1939年兵庫県高砂市生まれ。明治大学大学院文学研究科修了。奈良国立文化財研究所へ入所、平城宮跡発掘調査に従事。飛鳥資料館学芸室長、埋蔵文化財センター長を経て、1999年退官。69~72年に文化庁へ出向。ユネスコアジア文化センターの後、2001年から現職。著書に『水田の考古学』(東京大学出版会)など。

    この記事が掲載されている冊子

    No.60「技術者」

    日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
    今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
    時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
    (2020年発行)

    座談会:近代土木の開拓者

    樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
    月尾嘉男(東京大学名誉教授)
    藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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    総論:近代土木の技術者群像

    北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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    【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

    松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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    加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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