宮本武之輔(1892-1941)

技術者の地位向上に努めた人々

大淀昇一(元東洋大学教授)

公共事業と技術官僚

日本の明治維新期における近代的統一国家形成に際して、国土基盤の形成とその上の空間支配のため、公共事業が数々展開された。電信、鉄道、道路、港湾、都市計画、統一幣制のための鉱山開発、治山・治水、灌漑などがそれであり、さらにその周辺に造船、冶金、化学、機械、建築などの工業が展開された。

こうした社会資本形成事業や関連工業の担い手となる技術者は当初国家の技術官僚として政府内に囲われていた。その原初的存在は欧米各国からのお雇い外国人であった。しかし彼らには政策指揮権は与えられず、助言者、指導者の立場に置かれていて、そこに彼らの不満があった。その後これら高給の多数のお雇い外国人に代替する日本人技術官僚養成のための工部大学校と東京大学理学部工学科が1877(明治10)年に登場した。前者には、土木学、機械学、造船学、電信学、造家学、製造化学、鉱山学、冶金学の8コースがあり、後者には、機械工学、土木工学、採鉱学及冶金学、製造化学の4専門工学系コースがあった(後に理学部付属造船学科も加わる)。これら2高等教育機関は86(明治19)年に、土木、機械、造船、電気、造家、応用化学、採鉱冶金の7工学科からなる帝国大学工科大学(翌年造兵学科と火薬学科増設)とまとめられ、前年の内閣制発足にともなう国家的技術官僚養成機関として一層の重きをなすようになった。だが93(明治26)年に定められた文官任用制度では、高等文官試験合格の有資格事務系行政官中心で、技術官僚は「特別ノ学術技芸ヲ要スル行政官」という位置付けで、お雇い外国人同様政策や行政での指揮権からは遠い存在であった。

技術官僚たちの目覚め

先述の工科大学の卒業生は、日露戦争以後の企業勃興時代になると、民間企業内技術者になる者も増加した。国家的エンジニアリング事業に埋没していた彼らの意識が大きく転換したのは、砲弾や兵器を生産しながら戦争する総力戦の時代の幕開きとなった第1次世界大戦のときであった。総力戦の時代(工業動員)を担えそうもない日本工業の貧弱さを痛感した彼らは、技術者の地位向上の上で工業行政、工業経営、工業教育の改革を目指す官界、民間、学界の指導的技術者の集まり、工政会(工政には工業動員の意味がある)を発足させたのである。それは第1次世界大戦中の1918(大正7)年4月軍需工業動員法公布の日であった。こうして日本の技術者たちは自らの位置や役割を社会的諸関係の中に捉える時代が訪れたのである。このうねりの先頭に立っていたのは当時東京帝国大学工科大学造兵学科教授、のち長らく理化学研究所長を務めることになる大河内正敏であった。そしてこの工政会に結集する技術者たちから教えを受けた次世代に属する土木系青年技術者の集まり、「日本工人倶楽部」が2年後に発足した。やはり大正デモクラシーの影響のもと自らの地位や役割について相対化して捉えようとする意思が濃厚であった。この新しい技術者運動団体の実質的な指導者は、一高を経て17年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業して内務省土木局の技師となり、利根川や荒川の治水工事に取り組んでいた宮本武之輔であった。

新しい技術者論と「技術の独立」論

宮本武之輔は、1892(明治25)年愛媛県松山市の沖合にある瀬戸内海の小島興居(ごご)島に生まれた。宮本家は、筑豊の石炭を大阪へ運ぶ瀬戸内海航路での運送業に携わる素封家であった。だが祖父の放蕩や他事業進出の失敗がもとで没落し、武之輔少年は零落した生活を余儀なくされていた。高等小学校卒後進学もままならず、瀬戸内海航路の商船のボーイをしているありさまであった。だが一高生であった異父兄窪内石太郎の助言に依って島の篤志家からの学資援助で上京して錦城中学校へ編入学し、一高、東京帝国大学と進んだのである。

宮本が土木工学科へ進んだ1914(大正3)年に、土木学会が創立された。ほぼ同時に創刊された土木工学の専門雑誌「工学」に土木工学科で衛生工学担当の講師となっていた直木倫太郎(1899年東京帝国大学工科大学土木工学科卒、東京市技師・河港課長)は、当時アメリカの土木学会(American Society of Civil Engineers)の機関誌上にさかんに登場していた技術者の地位向上論(engineerのprofessional化要求)を紹介した。日本の技術界を「史伝なき技術界」「呪はれたる技術界」「囚はれたる技術界」と決めつけ、いかにさえない状態であるかと論じて青年技術者たちの意識の昂揚を求めたのである。直木の授業中でのこのような鼓舞に最も鋭く反応したのは学生の宮本武之輔であった。

宮本は東京帝国大学への進学に際して法科大学を考えたほど、国家的な経綸に係わる仕事をする人間になることを自負していた。そうした意思が強固にあったためか、直木の言う技術者はSpecializationよりもGeneralizationに生きるべしという考えを受けて、学生時代に「一部に対するengineer」から「全部に対するmanager」へ、「技術の対外的独立及国内的独立」という技術者論と「技術の独立」論をまとめていた。技術者は各自ある特定の分野での西欧に負けない優れた独創的な技術者になるとともに、国内の技術のことは全て技術者に委ねられることを求める論である。

このような技術者および「技術の独立」論を抱いていたが故に、すでに内務技師から東京帝国大学土木工学科の助教授に転じて、大正デモクラシー気運の影響を受けていた山口昇(1914年東京帝国大学工科大学土木工学科卒業)から、技術者の地位向上のための宣伝、建言等をする技術者運動団体結成への参加を呼び掛けられると直ちに参加を決意した。こうして現・元内務技師9名(全員東京帝大土木工学科卒)による中核グループ・ソビエットが結成され、1920(大正9)年12月将来的には技術者の職業組合を目指す「日本工人倶楽部」の発会となった。名文家であった宮本が「発会の辞」を執筆している。「1、技術は自然科学と術とを融合せる文化創造なり。1、技術者は創造者なり。1、技術者の位置は槓杆(こうかん)の支点の如し。1、日本工人倶楽部は技術的文化的創造の策源地なり。1、日本工人倶楽部の手段方法は合理的なり」、と5つの綱領的言葉の並んだ文章であった。

技術界の指導者 宮本武之輔の活躍

一方、宮本は土木工学科での恩師廣井勇の示唆に基づいて当時その活用が広まりつつあった鉄筋コンクリートについての研究に取り組んでいた。この研究は、関東大震災下の東京を出発する仏・独・英・米への1年半に及ぶ欧米出張でさらに深められ、耐震建築への要請ともからまって、ねじれに強い鉄筋コンクリート柱の設計原理確立という成果を生んで、1927(昭和2)年の土木賞に輝いた。この研究で工学博士号を東京帝国大学より授与された。さらにその後、新潟土木出張所勤務へ異動し、現場責任者として31年信濃川大河津分水補修工事を成功に導き河川工学界の指導的技術者へとのし上がっていったのである。まさに「一部に対するengineer」へと駆け上がったのである。次は「全部に対するmanager」への道をどう歩んだかである。

信濃川分水工事完成で内務省土木局直轄の巨大河川治水工事はほぼ終了となり、折からの行政整理との関係で現業部門の縮小が考え出されていた。丁度このときに満州事変が起こり続いて満州国の成立へと進むと、昭和初期の思想弾圧の時代に大きな停滞期を迎えていた日本工人倶楽部は、満州国ブームの中で指導精神の革新化をはかり新しい盛り上がりの時期を迎えていた。この転換の中心にいたのは土木局技術課へ復帰した宮本であった。彼は陸軍との関係を深めつつ大陸へ国内余剰土木技術者を日本工人倶楽部を通じて送り出す働きを開始した。またこうした動きの中で日本工人倶楽部も会名を日本技術協会と改め(1935年1月)、大陸占領地建設へ向けてさまざまな分野の技術者を動員する団体へと変貌していった。37(昭和12)年7月日中戦争がはじまると、翌年11月に近衛文麿首相は東亜新秩序建設を宣言し、その直後に大陸占領地統轄行政を担当する興亜院が設置され、官制部長ではなかったけれど宮本がその技術部長に勅任技師になって就いたのである。日本の官僚制機構に初めてできた技術者でなければ就けない局長級のポストであった。

戦争と科学技術 行政機関の登場

1939(昭和14)年ヨーロッパに第2次世界大戦が勃発した。ナチス・ドイツの華々しい進撃を目の当りにして、独・伊との連携を深めて米・英の圧力を緩和させ泥沼化した日中戦争を勝利的に解決したい野望が陸軍に生まれた。この野望で第2次近衛内閣(40年7月22日成立)に高度国防国家建設を推進させた。建設プランの中に「科学の画期的振興並に生産の合理化」という政策課題が初めて位置付けられた。そして近衛側近の有馬頼寧(日本技術協会会長でもある)の指示で協会内に約150名の現・元技術官僚からなる国防技術委員会が設置された。

委員会は10の部会に分かれて各分野の革新的技術体制案を答申した。この答申は全て副会長である宮本の手元に集められ、彼が全体調整を施して1940(昭和15)年9月『総合国防技術政策実施綱領』(A5判・130頁)という冊子にまとめられて政府へ具申され、「科学技術」という言葉が広まるきっかけとなった。重要な「第1章一般技術政策及技術行政」を素案としつつ企画院の「科学技術新体制確立要綱」がまとめられた(41年5月27日閣議決定)。それは「大東亜共栄圏資源ニ基ク科学技術ノ日本的性格ノ完成ヲ期ス」という方針を掲げ、必要措置として(1)科学技術行政機関の創設、(2)科学技術系研究機関の統合整備、(3)科学技術審議会の設置、の3点を提起していた。

先立つ4月4日に第2次近衛内閣の第4次改造があり、興亜院政務部長兼総務長官心得の鈴木貞一陸軍中将が企画院総裁に就任すると、鈴木の熱望で宮本も興亜院技術部長から企画院次長に転じた。宮本は目指していた「技術家的行政官」の地位を達成し、「総合国力の拡充運用」については予算も扱える機構に企画院機構を改正。さらに科学技術新体制について官界、財界、学界、軍部に対して渾身の根回しを行い、遂に閣議決定へ持ち込んだのである。宮本の学生時代からの望み、「技術の独立」=「技術の対外的および国内的独立」への体制が構築されたと言ってよい。ただ残念なことにこの時点では、これは戦争のための国家総動員体制の一環としての研究動員と技術特許動員のための体制、それも極めて不十分な体制でしかなかった。一高時代ボート部で鍛えたタフな宮本の体力もここまでで、疲労困憊のあげく12月24日享年49歳で寿命が尽きたのである。日本初めての科学技術行政機関=技術院開庁(42年2月1日)の直前であった。

また技術者の在り方について宮本の師であった直木倫太郎は、関東大震災に際して帝都復興院技監や復興局長官を務め、大正末には官を辞して大林組(大阪本店)の取締役兼技師長となり、この間に日本工人倶楽部大阪(関西)支部長にも就いている。1933(昭和8)年に渡満し、満州国国務院国道局長となり、さらに初代大陸科学院長となって43(昭和18)年2月に没した。

国内の技術者運動の指導者宮本武之輔の役割は、この後当時逓信省工務局長であった松前重義(1925年東北帝国大学工学部電気工学科卒、翌年逓信技師(在職中に無装荷ケーブル発明)、52~69年衆議院議員、67年東海大学総長就任)によって受け継がれ、戦時下では戦時生産力問題での活躍があり、そして戦後には、画期的な原子力基本法制定(55年)や科学技術庁設置(56年)での活躍へとつながっている。

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大淀昇一(元東洋大学教授)

1942年大阪市生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院修士課程修了。89年学術博士。東京工業大学工学部助手を経て88年島根大学教授。99年東洋大学教授。09年停年退職。以後15年まで放送大学客員教授。専門は教育社会学、日本工業教育史。著書に『宮本武之輔と科学技術行政』(土木学会著作賞)、『技術官僚の政治参画―日本の科学技術行政の幕開き―』(中公新書)、『近代日本の工業立国化と国民形成―技術者運動における工業教育問題の展開―』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

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