島安次郎(1870-1946)、秀雄(1901-1998)、隆(1931-)

新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

狭軌の呪縛

鉄道は、2本のレールの上を走ることを基本とするが、軌間(線路の幅、ゲージとも)には大きく分けて広軌と狭軌がある。どちらも左右のレールの内側の幅を表し、広軌は幅1,435mm、狭軌はそれより狭い線路幅を総称する。世界で用いられている軌間には様々な種類があるが、日本の在来線は1,067mmを用いた。広軌は、世界の多くの国で使われ、ヨーロッパ諸国、アメリカ、カナダ、中国、韓国をはじめ、日本でも新幹線のほかに京浜急行電鉄や阪急電鉄などいくつかの私鉄でも使用しており、世界で最も一般的な軌間であることから「標準軌」(スタンダード・ゲージ)と呼ぶ場合もある。ただ、日本ではむしろ狭軌(ナロー・ゲージ)の方が普及しているので、文脈に応じて外国の標準軌を「広軌」と称し、1,067mmを「標準軌」と称することもある。ちなみに、ロシアやフィンランド、スペイン、インド、オーストラリアなどでは標準軌よりも広い軌間が用いられており、「超広軌」などとも呼ばれるが、それぞれに歴史的な背景があって採用された軌間である。

1872(明治5)年に日本で最初の鉄道となった新橋~横浜間では、1,067mmの狭軌が用いられ、これが日本における標準軌となった。1,067mmはイギリスの植民地を中心に用いられ、日本のほかにも南アフリカやニュージーランドなどで使用された。日本は植民地ではなかったが、イギリス人技師の指導を仰いだ際に、「線路の幅をどうするか?」と聞かれて、意味がよく理解できなかったので「とりあえず安い方で良い」と答えたため1,067mmに決まったとされる。安い方を選んでしまった人物は大隈重信で、のちの演説の中で自分の不覚であったことをカミングアウトしている。当時は、鉄道の知識がある日本人も限られていたので、やむを得ない選択であったと思うし、カミングアウトを聞いた聴衆も、功成り名を遂げた大隈翁の責任を改めて問うこともなかったと想像される。

線路の幅になぜこだわるのか、疑問に思われる方がいるかもしれない。わずか40cm弱の違いに過ぎないが、広軌は狭軌よりもひとまわり大きな車両が使えるので、それだけ多くの人や貨物を運ぶことができる。在来線の特急電車の普通車は、通路をはさんで2人掛けの腰掛けが両側に並ぶが、新幹線は広軌なので片側が3人掛けとなっていて1人多く座ることができる。1列でたった1人だけだが、編成単位では数百人で、その列車がより速い速度で何度も往復すれば、狭軌よりも数千人を超える人々を運ぶことができる。

また、広軌は線路の幅が広いため安定して走行することができ、より大型の動力車を使用できるので、列車の速度や牽引力という性能面でも優れていた。もっとも狭軌にも利点はあり、広軌に比べて用地の幅を節約でき、設備も簡便なので低価格で建設できるというメリットがあった。このため、狭軌のままでは輸送力に限界があるので広軌に改築すべきという広軌派と、限られた建設費で線路をさらに延ばすためには狭軌のままでも十分であるという狭軌派の間で論争が繰り返されることとなった。

広軌をめざした島安次郎

広軌論と関西鉄道

輸送量も少なく、全国を結ぶ鉄道ネットワークも未完成であった明治時代の初頭の段階では、線路の幅もそれほど大きな問題ではなかったが、都市間鉄道から幹線鉄道へと発展するにつれて、広軌論が台頭するようになった。この問題に着目したのは軍部で、1887(明治20)年に「鉄道改正建議案」が有栖川宮熾仁(たるひと)参謀本部長から井上勝鉄道局長官に提出され、軍事輸送の観点から欧米並みの広軌に改築するよう要求したが、井上長官は「わが国は山岳地が多いので経済的な狭軌が適当である」と回答し、広軌化の意思がないことを明らかにした。しかし、その後も軍部や帝国議会から広軌改築の要求が相次いだため、96年に逓信省に軌制取調委員を任命して検討を進めることとなったが、鉄道部内に支持者は少なく、軍部も重要な論点ではないとして主張を取り下げたため、結論を出すことなく98年に検討を中止した。

こうした動きの中で、いち早く広軌鉄道に注目したのが、関西(かんせい)鉄道という鉄道会社であった。関西鉄道は、名古屋と大阪を結ぶ私設鉄道として1888(明治21)年に設立されたが、官設鉄道の東海道本線と競合したため、名阪間の旅客をめぐって熾烈なサービス合戦を繰り広げた。その汽車課長として采配を振るったのが島安次郎という技術者であった。

安次郎は、1870(明治3)年8月7日、和歌山市内で薬問屋を営む父・喜兵衛の次男として生まれ、94年に帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、大学院に籍を置いたまま関西鉄道に採用された。安次郎はまず客車の窓下に等級に応じた色帯を塗って利用者に判り易くしたほか、ピンチ式ガス灯を導入して夜間の客室照明を新聞が読めるまでに向上させ、さらにスピードアップを図るために機関車の動輪にひとまわり大きなものを採用するなど、さまざまな試みに挑戦した。

当時の関西鉄道社長は、帝国大学工科大学土木工学科教授から関西鉄道社長に転じた白石直治で、白石は関西鉄道の柘植(つげ)以西のトンネルを将来の広軌改築に備えてドイツの建築定規に基づく規格で建設することとした。線路の幅は狭軌のままであったが、トンネルが狭軌のままの断面では広軌の大型車両を通過させることができず、完成後の改築工事も困難なため、予め広軌の断面で建設したのである。

白石の試みが安次郎にどのような影響を与えたのか、あるいは安次郎または他の技術者(当時の土木課長の那波(なわ)光雄も広軌派だった)が広軌化を提案して白石が社長という立場で試みたのか、今となっては確かめようもないが、この経験が安次郎にとってひとつの糧となったことが推察される。安次郎は1901(明治34)年に関西鉄道を退社して逓信省鉄道局設計課へ転じ、さらに03年より約1年間にわたって欧米各国を巡ったが、この渡航ではヨーロッパの新興工業国家として台頭しつつあったドイツに注目し、鉄道国有化の成果や試作電車による最高速度、時速210.2kmの達成技術などを見聞した。

広軌論争の末に

関西鉄道は、鉄道国有法に基づいて1907(明治40)年に国有化され、現在の関西本線となった。いっぽう安次郎は08年に鉄道院運輸部工作課長に就任し、翌年には東京帝国大学機械工学科教授を兼任した。鉄道国有化によって各私鉄から規格の異なる様々な種類の鉄道車両を継承することとなり、車両形式や規格を統一し、あわせて国産化を推進することが大きな課題となっていた。特に国産標準型の蒸気機関車を完成させることは急務で、海外の視察や輸入機関車の分析などを経て、13(大正2)年には貨物用標準機関車として9600形が、翌年には旅客用標準機関車として8620形の製造が開始され、前者は770両、後者は672両が量産されて、その後の蒸気機関車は特殊な例を除き国産が基本となった。

鉄道国有化の流れの中で下火となっていた広軌論争は、初代鉄道院総裁に就任した後藤新平のもとで再び取り上げられ、鉄道国有化を広軌改築のための千載一遇のチャンスと捉え、ただちにその実現のための調査を命じた。安次郎は1914(大正3)年に設置された広軌鉄道改築取調委員に任命され、広軌鉄道の有利性を実証すべく、横浜線原町田~橋本間に狭・広軌併用の試験線を設け、広軌改造機関車を用いて牽引力試験などを行ったほか、大井工場に輪軸交換装置を設置し、車両性能の上では広軌が有利であること、広軌改築の手間は想像していたほど要しないことなどを技術的に立証した。

しかし、広軌改築計画は鉄道網の整備にとってコストの安い狭軌鉄道が有利である(建主改従策)とする政友会と、輸送力の増強を期すために広軌改築を推進すべき(改主建従策)とする憲政会との間で政争の具と化し、政権交代のたびに浮沈を繰り返すこととなった。安次郎は1918(大正7)年に技術系の最高責任者である技監となったが、この年、狭軌派の床次(とこなみ)竹二郎が総裁に就任し、12月に広軌改築の中止の判断が下された。伝えられるところによれば、広軌中止の決裁書類は島技監の印が押されないまま総裁に回されたとされる。

広軌改築を実現できなかった安次郎は、1919(大正8)年に鉄道院を去り、南満洲鉄道理事に就任したが、翌年、後藤の勧めにより「軌間ノ変更」と題する意見書を著して、その信じるところを改めて主張した。安次郎は「即技術上ノ攻求討議ハ常ニ政治上ノ調査研究ニ随伴シテ居タ丈ノコトデ、広軌問題ガ政治問題トシテ論議セラルルコトガ憶メバ技術上ノ研究調査モ其儘腰折レニナッテ仕舞フノガ毎度ノコトデアッタ。」とその無念を記した。

弾丸列車の挫折

安次郎は1925(大正14)年に南満洲鉄道(満鉄)から汽車製造会社に転じて、鉄道車両の製造にあたっていたが、39(昭和14)年、鉄道省に設置された鉄道幹線調査会の委員に就任し、その具体的検討を開始した。当時、戦争の影が迫りつつあった大陸への物資輸送で東海道・山陽本線の輸送力は逼迫状態にあり、輸送力不足を打開するために広軌別線の建設計画が急浮上した(この計画は、「新幹線」という名称で進められたが、戦後に実現した新幹線と区別するため現在では一般に「弾丸列車」と呼ばれる)。

1933(昭和8)年にはドイツでは最高速度、時速160kmの「フリーゲンダーハンブルガー」号が登場し、翌年には満鉄でも「あじあ」号が運転を開始するなど、高速鉄道への関心が高まりつつあり、こうした背景もあって東京~下関間を広軌の高速鉄道で結ぶことが現実のものとなった。安次郎は、広軌実現のための最後の機会と捉えて調査にあたり、41(昭和16)年には新丹那、日本坂、東山の各トンネルが着工して、一部の用地買収も進められるなど工事も進められたが、戦争の激化によって44年までにすべての工事は中止された。そして戦後の混乱の中、1946(昭和21)年に安次郎はこの世を去った。

島安次郎は、遅れていたわが国の鉄道車両の技術水準を一挙に高め、国産標準型蒸気機関車の開発、連結器の一斉交換、空気制動機の採用などめざましい業績を遺したが、その前途には狭軌の限界が大きく立ちはだかった。安次郎が最後に挑んだ弾丸列車計画も戦争の前に頓挫せざるを得なかったが、そこで検討された技術基準などは、戦後の新幹線計画の技術的な下地をなした。

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒。工学博士。土木学会フェロー。文化庁文化審議会文化財分科会第二専門調査会委員。国鉄東京第二工事局、西日本旅客鉄道(出向)などを経て現職。著書に『鉄道と煉瓦』『高架鉄道と東京駅』『東京鉄道遺産』『関西鉄道遺産』『鉄道構造物を探る』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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