渡邊嘉一(1858-1932)

海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

アジア初のラグビー・ワールドカップが、2019年に日本で開催された。1次リーグ(A組)で4戦全勝。史上初の決勝リーグに進出することになり、日本中が沸いた。決勝リーグでは勝利できなかったが、新たな歴史を刻むことになった。

フットボール(ラグビー、サッカー)などを初めて日本に持ち込んだ外国人は、明治時代、工学寮(東京大学工学部前身)に都検(教頭)として来日したスコットランド人、ヘンリー・ダイアーともいわれている。少なくない向学心に燃える工部大学校の学生は、卒業後スコットランドの大学に留学した。その中にフォース橋の建設工事に関わった本稿の主役者、渡邊嘉一(かいち)がいた。

スコットランドのフォース橋建設と渡邊嘉一

渡邊は、日本各地の鉄道敷設で活躍した鉄道界の重鎮であり、土木学会設立への参画、帝國鐵道協会会長を歴任するなど、産業界、学界で幅広く活躍した人物でありながら、知名度は低く、資料も僅かしか残されていない。渡邊嘉一とは一体どのような人物だったのか、たどってみたい。

渡邊に関する資料は少ないが、若い頃の姿がはるか海を渡ったスコットランドに残されている。そのひとつは2007年に発行されたスコットランドの20ポンド紙幣の裏面である。この紙幣のデザインに使われているのは、スコットランドの東海岸、フォース湾に架かる巨大鉄道橋・フォース橋である。この橋は、かつてスコットランドの東海岸ルートを持つ鉄道会社が、それまで船で渡っていたフォース湾を鉄道で渡れるよう架橋を計画したものである。

このフォース橋の建設中の1887年、その構造を説明するため、英国王立科学研究所(The Royal Institution)の主催で、人間モデルでデモンストレーションを行った写真が残っている。この写真の中央に座っている人物が渡邊である。渡邊が写真のモデルに選ばれた理由について、ヒュー・ダグラス著『Crossing the Forth』に、次のように書かれている。「ベーカーが考案した人間模型に錘(おもり)として乗せられたのはファウラーとベーカーの弟子渡邊嘉一であった。渡邊がそこに座っているのは、設計者が東洋の恩義を皆に思い出させるためだった。」つまり、フォース橋設計に採用した構造は、東洋にルーツを持つカンティレバー(ゲルバー)式なので、東洋の恩義を忘れないようにしようという設計者の粋なはからいによるものであった。

生い立ちと経歴

渡邊嘉一は、1858(安政5)年2月8日長野県上伊那郡朝日村字平出(ひらいで)(現・辰野町)に宇治橋瀬八の次男として生まれた。7歳で三沢源三の塾で学び、開智学校に進学した頃から秀才の誉れ高く、77(明治10)年工部大学校に入学。82年25歳のとき、海軍機関総監横須賀造船所長の渡邊忻三の養子として正式に入籍。翌83年26歳で工部大学校土木科を首席で卒業する。因みに次席は琵琶湖疏水の設計者・田邊朔郎であった。

渡邊は、卒業後、技師として工部省鉄道局に1年間勤務した後、翌1884(明治17)年にグラスゴー大学に留学する。大学では84~85年に物理学、機械工学初級、数学、図学上級、地質学を修得、ウォーカー賞を受賞。85~86年には機械工学、論理学、天文学、化学を受講し、86年に科学士(Bachelor of Science)、及び工学技能証明書(Certificate of Proficiency in Engineering Science)の学位を取得した。

留学から帰国した渡邊は数多くの会社の技術者、経営者として日本各地の鉄道事業に関与することになる。1888(明治21)年5月、英国から帰ってすぐ日本土木会社(現・大成建設)の技術部長になった。ここで、日本各地の鉄道敷設の測量、工事に携わった。続いて90年1月から参宮鉄道(現・JR参宮線など)の顧問として線路実測・設計に関わり、94年11月には36歳の若さで同社社長兼技師長に就任。97年、40歳で北越鉄道(現・JR信越本線直江津~新潟間)の技師長兼専務取締役になり、1907年同社の取締役会長に就任し、政府に買収されるまで経営に携わった。その他、01年成田鉄道(現・JR成田線)取締役、03年東京電気鉄道(東京都電の前身の1社)取締役なども務めている。また、1897年に石油、重油の残滓を利用した機関車用の燃費のよい燃焼器を発明して特許を取得し、その後99年、工学博士を授与された。

そして、1906(明治39)年11月19日に京阪電気鉄道の創立総会が澁澤榮一によって主宰されると、発起人に名を連ねていた渡邊は7人の取締役の1人に選任されたのち、取締役会において互選の結果、専務取締役に推された。49歳の時である。因みに創立委員長の澁澤は相談役となった。同じ年、韓国拓殖株式会社の取締役に就任、翌07年には櫻セメントの取締役にも就任している。その後も、同年郷里の伊那電車軌道(現・JR飯田線)取締役(22年社長)、また1918(大正7)年には、鉄道車両用電気機器製造会社「東洋電機製造株式会社」を自ら設立し、社長として経営した。産業界、学会で活躍した渡邊は、澁澤が亡くなった翌年の1932(昭和7)年、後を追うように、74年の生涯を終えた。

澁澤榮一との交流

渡邊が多くの企業と関わる時、しばしば澁澤榮一の名前が登場する。渡邊は1888(明治21)年、イギリスから帰ってすぐ日本土木会社の技術部長になった。この会社は大倉喜八郎が澁澤、藤田伝三郎と創立した土木工事会社で、鉄道敷設などの工事を請け負っていた。

京阪電気鉄道では2人とも発起人に名を連ね、澁澤は相談役に渡邊は専務取締役に就任したのは上述したが、渡邊が深く関わった参宮鉄道、北越鉄道も澁澤が創立に関わった。参宮鉄道は、1889(明治22)年、澁澤、大倉らが発起人となって申請し、97年三重県の津~山田間に開通した私設鉄道である。北越鉄道は澁澤、山口権三郎、地元越後の有力者で95年、創立した。越後平野の穀倉、油田地帯をひかえ、日本海沿岸の冬期の厳しい気象現象に対する輸送確保をその目的としていた。

また、東京石川島造船所(現・IHI)の社長に就任したのも澁澤の推薦による。この造船所はかつて澁澤が、第一国立銀行の融資とは別に私財も投じて育ててきた思い入れの深い会社である。渡邊と澁澤の関係は「龍門雑誌」(第481号1928年10月25日龍門社)に窺い知ることができる。実はこのことを知ったのは古いことではない。渡邊と澁澤の関係があることは遺族から聞いていたので、2004(平成16)年、東京都北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館に訪ねたことがある。関根仁学芸員は渡邊をご存じなく、澁澤との関係を調べていただいた。数日後に、この「龍門雑誌」を紹介してくれた。この雑誌の「青淵先生(澁澤榮一)米寿祝賀記念号」の中に渡邊は「鉄道及造船事業と青淵先生」と題して次のように記している。「(先生は)明治初年に創始された銀行事業を初めとして総ゆる事業、殊に明治20年以後の各方面に於ける私鉄鉄道の如きは、先生の力に拠り各方面の人々が働いて完成したものが多い。......私の今日ある亦全く先生の御陰である。......以前私が先生の直接指導の下に事業に従事して居た時は、1週間に1度位は必ず先生を訪ねて事業報告旁々指導を受けて居た」。

このことからも、渡邊と澁澤は、緊密な連携を図り、事業を推し進めていたことが分かる。2人には、海外の近代化された社会を見聞し、民間事業者の立場で日本の近代化に尽くしたという共通点がある。明治から大正という大変革の時代にあって、2人は互いに理解しあい、価値観を共有することができる事業のパートナーであったのではないだろうか。

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

1943年旭川市生まれ。東北大学、東京都立大学で土木工学を学ぶ。専門は構造力学。東京都立小石川工業高等学校、大東文化大学などで教鞭をとる。傍ら、NHK教育テレビ「高校の科学 物理」などの講師、月刊雑誌「技術教室」(農山漁村文化協会)編集長などを歴任。著書に『日本土木史総合年表』(共著 東京堂出版)『世界の橋大研究』(監修:PHP研究所)など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

全編を読む

総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

全編を読む

【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

全編を読む

【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

全編を読む

【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

全編を読む

【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

全編を読む

【廣井勇】 現場重視と後進の教育

高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

全編を読む

【工楽松右衛門】 港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

全編を読む

【島安次郎・秀雄・隆】 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

全編を読む

【青山士】 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

高崎哲郎(著述家)

全編を読む

【宮本武之輔】 技術者の地位向上に努めた人々

大淀昇一(元東洋大学教授)

全編を読む

【八田與一】 不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

全編を読む

【新渡戸傳・十次郎】 明治以前の大規模開拓プロジェクト

中野渡一耕(地方史研究協議会会員、元青森県史編さん調査研究員)

全編を読む

【丹下健三】 海外での日本人建築家の活躍の先駆け

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

全編を読む

近代土木の開拓者年表