田邊朔郎(1861-1944)

卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

都市の発展を左右する用水

インドの首都ニューデリーから約200km南下すると人口約160万人の都市アーグラに到達する。いずれも世界文化遺産に登録されている赤色の砂岩で構築された城塞と白大理石で建造されたタージ・マハル墓廟が存在することで有名な都市である。ここから40kmほど西側の郊外に、これも世界文化遺産に登録されているファテープル・シークリーという赤色の砂岩で建造された都市の廃墟が存在する。

ファテープル・シークリーは"勝利の都シークリー"という意味であるが、ムガル帝国の第3代皇帝アクバルに後継の王子サリームが誕生したことを記念して16世紀後半に建設され、アーグラから遷都した都市である。しかし、この壮麗な都市はわずか14年間使用されただけで放棄されて廃墟となった。理由は猛暑と用水不足である。筆者も50年前に訪問したことがあるが、40度近い高温であり、放棄された理由を実感した。

そもそも用地の選定に問題があったわけであるが、ムガル帝国の最強の皇帝の威力をもってしても対処できなかったのが用水の不足である。古代の4大文明も大河の流域に発展し、ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京を代表とする多数の都市も大河の岸辺に立地し発展してきた。それは人々の生活を維持する用水のために大河は必須だったというだけではなく、鉄道のない時代に水運の利便が重要であったからである。

明治になり京都が直面した問題

京都の前身は第50代桓武天皇が794(延暦13)年に長岡京から遷都した平安京である。781(天応元)年に即位した桓武天皇は政治に関与するほど強力になった平城京の仏教勢力を排斥する目的で784(延暦3)年に長岡京に遷都したのであるが、疫病や災害が続出し、わずか10年後に再度、平安京に遷都した。ここは東側に鴨川、西側に桂川のある水量豊富な盆地であったが、都市の発展とともに水運が利用できない欠点が明瞭になる。

平安京の遷都直後の人口は10万人程度と推定され、以後、その前後で推移してきたが、15世紀後半の応仁の乱により一旦は約4万人まで減少する。しかし、社会が安定した江戸時代になると人口は増加し、17世紀中頃には40万人を突破していたという推計もあるほど発展していた。ところが明治時代になり、1,100年間、日本の首都であった京都に異変が発生する。1868(明治元)年と翌年の明治天皇の東京行幸である。

その結果、人々は公家から商人まで大挙して東京に移動しはじめ、40万人であった京都の人口が半分程度に激減する。その回復が明治時代になって着任した歴代知事の重要な仕事となるが、能力を発揮したのが第3代京都府知事の北垣国道であった。現在の兵庫県養父市の庄屋で地侍の家庭に1836(天保7)年に誕生し、63(文久3)年には尊王攘夷を目指す生野義挙を首謀し、北越戦争にも参戦するという熱血の志士であった。

それらの関係で明治政府の中枢となる薩長の人脈と密接な関係をもち、高知県令(1879、明治12)や徳島県令(80、明治13)を拝命、さらに伊藤博文からの要請により、一旦は固辞したものの81(明治14)年に46歳で第3代京都府知事に就任した。初代の長谷信篤は公卿出身の温厚な性格であったため目立った業績はなかったが、2代の槇村正直は大胆な政策を遂行しようとして府会と対立して辞任せざるをえなかった。

その後任の北垣は東京遷都により衰退した京都を再興する勧業政策を目指し、日本海側の宮津と連絡する道路の開削など社会基盤の整備を推進するが、最大の事業として就任3カ月目に琵琶湖疏水計画案の調査を命令した。京都三方が山地であり、周辺との交通が不便であるうえ、鴨川や桂川は用水にも舟運にも水量が十分ではなかった。そこで琵琶湖から導水し、産業振興の動力にしようとしたのである。

この疏水は以前にも構想されたことがある。勅許による東南アジアとの御朱印船貿易の成功で豪商となった角倉了以と長男の素庵は江戸時代初期に二条大橋から伏見まで10kmの距離を連絡する水運専用の運河である高瀬川の開削を私財で完成させていた。さらに琵琶湖からの導水も構想したが実現できなかった。これを勧業政策の目玉として実現しようというのが北垣の思惑であった。

そこで北垣は山縣有朋、榎本武揚、松方正義など旧知の明治政府の要人を説得するとともに、事業総括技師として政府の土木部長の派遣を依頼するが、政府も人材不足で地方の仕事に政府の役人は派遣できないと了解しなかった。当時、このような巨大事業は外国の技師の指導が通例であったが、北垣は自国の技師で実現したいと、工部大学校の校長大鳥圭介を訪問し相談する。そこで最適の人物として浮上したのが田邊朔郎(さくろう)であった。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

1942年愛知県生まれ。65年東京大学工学部卒業。71年東京大学工学系大学院博士課程修了。78年工学博士。名古屋大学工学部教授、東京大学工学部教授、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授、総務省総務審議官などを歴任。専門はメディア政策。著書に『縮小文明の展望』『先住民族の叡智』『航海物語』『転換日本』など。趣味はカヤック、クロスカントリースキー。2004年ケープホーンをカヤックで周回。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

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【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

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【廣井勇】 現場重視と後進の教育

高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

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【工楽松右衛門】 港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

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【島安次郎・秀雄・隆】 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

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【青山士】 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

高崎哲郎(著述家)

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【宮本武之輔】 技術者の地位向上に努めた人々

大淀昇一(元東洋大学教授)

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【八田與一】 不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

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【新渡戸傳・十次郎】 明治以前の大規模開拓プロジェクト

中野渡一耕(地方史研究協議会会員、元青森県史編さん調査研究員)

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【丹下健三】 海外での日本人建築家の活躍の先駆け

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

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近代土木の開拓者年表