廣井勇(1862-1928)

現場重視と後進の教育

高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

今から30数年前、私は東京大学工学部土木工学科に勤めていた。教室会議では、時折廣井勇(いさみ)先生について、長老教授が思い出話を楽しそうに語っていた。廣井勇が亡くなられたのは1928(昭和3)年、私は27年1月にこの世に躍り出た。したがって、私は廣井とは全く面識は無い。いわば夢の中における雲上の師である。長老教授は語る。廣井先輩は怖いとはいえ、親し気があり、近付き難くはなかった。静かな威厳に満ちていたのであろうか?しばしば製図室に現れ、学生の作業をじっと眺めていたという。学生が極度に緊張しないように、何事も語らず静かに立ち去ったという。無言で愛情に満ちた教育とでもいえようか?こんな話が静かに語り伝えられるにつけ、「廣井勇は現在に至るまで、恐らく将来も、後輩たちの心の内に生き続けるであろう。廣井勇は現在もそして将来もわれわれの心の中に生きている」と思うのである。

2016(平成28)年、私は高知を訪ねる機会があった。近自然河川工法の創始者・福留脩文(しゅうぶん)夫人の招きであった。高知出身の吉田茂の常宿に泊めて頂いた。高知県出身者としては、かつての天才・野中兼山をはじめ、坂本龍馬、現代では青木楠男、国沢能長、国沢新兵衛、仙石貢、白石直治、大阪市の都市計画に功績を残した福留並喜、そして廣井勇を忘れてはなるまい。

私の高知訪問は、尊敬して止まない廣井大先輩の墓参りであった。墓参りをせずに、この大先輩について語ることはできない、との私の気持ちであった。

1987(昭和62)年3月、私は東京大学を還暦退官した。その最終講義を尊敬する廣井の生き方に憧れ、以下のような結びのコトバとした。

「廣井教授は明治32年、北海道大学(札幌農学校)から、乞われて東京大学工学部土木工学科へ来て頂きました。それから大正8年まで東大に奉職し、すなわち明治の終りから辞されるまで長く土木工学科の主任教授をつとめられました。その研究業績、教育成果の数々は、ここで私が申し上げるまでもありません」

廣井の生き方を紹介したあと、「私はこの32年間、東大に勤めて来ましたが、ついに廣井勇教授の足元にも及ばなかったことを、ただただ恥入るのみであります。幸にして、この中から第2の廣井、第3の廣井が輩出されることを期待して最終講義の結びと致します。どうも長い間ありがとうございました」

廣井勇は1881(明治14)年に札幌農学校を卒業。開拓使鉄路課に勤務、北海道最初の鉄道である小樽~幌内間の工事に従事、開拓使が廃止されるや工部省に勤務後、アメリカにて土木技師としてミシシッピ川工事に従事、87(明治20)年札幌農学校助教授となり、ドイツへ留学。帰国後、北海道庁に勤務、小樽築港の歴史に残るすぐれた事業を実施した。廣井による小樽港は単に港としての傑作であるのみならず、その防波堤を見てもまさに入魂のたたずまいというにふさわしい。そして99(明治32)年、東京帝国大学教授となった。

1928(昭和3)年10月4日、廣井の告別式において、札幌農学校同級生であった内村鑑三の弔辞は、同級生愛の心のこもったものであった。それは、内村・廣井という親しかった級友ならではの弔辞であったといえよう。その一節を以下に紹介し、その雰囲気を感じ取って頂ければ幸いである。

「廣井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました。......日本の工学界に廣井勇君ありと聞いて、私共はその将来につき大なる希望を懐いて可なりと信じます。......廣井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通して強く働いたのであります。わが作りし橋、わが築きし防波堤がすべての抵抗に堪え得るや、との深い心配があったのであります。そして、その良心その心配が君の工学をして世の多くの工学の上に一頭地を抽んでしめたのであります。君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆を永久に益したのであります。廣井君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に殊に貴いのであります。......君は毎朝毎夜、戸を閉じて、夜は灯を消して祈祷に従事しました。......この隠れたる信仰、一時は福音の戦士たらんとまで決心せしこの神に対する信仰が、君が成し遂げしすべての大事業を聖めたのであります。

君は言葉を以てする伝道を断念して事業を以てする伝道を行われたのであります。小樽の港に出入りする船舶は、かの堅固なる防波堤によりて永久に君の信仰を見るのであります。廣井勇君の信仰は私の信仰のごとくに書物には現れませんでしたが、それにもはるかに勝りて、多くの強固なる橋梁、安全なる港に現れています。

しかしながら、人は事業ではありません、性格であります。......廣井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したにすぎません。しかしながら、いかなる精神を以て才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。世の人は事業によって人を評しますが、神と神による人とは、人によって事業を評します。廣井君の事業より、廣井君自身が偉かったのであります。日本の土木界における君の地位はこれがために貴かったのであります。廣井君は君の人となりを君の天与の才能なる工学を以て現したのであります。......君の貴きはここにあるとして、君の事業の貴きゆえんもまたここにあるのであります。事業のための事業にあらず、勿論名を拳げ利を漁る為の事業にあらず、「この貧困国の民に教えを伝うる前にまず食物を与えん」との精神のもとに始められた事業でありました。それがゆえに異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります」
(出典:『廣井勇伝』(工事画報社1930))

廣井が1905(明治38)年に発表した『The Statically Indeterminate Stresses in Frames Commonly used for Bridges』はニューヨークのVan Nostrand社より出版され、橋梁工学、構造力に画期的進歩をもたらし、国際的にも高く評価されている。1927(昭和2)年出版の『日本築港史』(丸善)は、世を去る1年前、築港を通して技術の発展の跡を正確緻密に技術史的に披瀝(ひれき)した名著である。1921(大正10)年中国上海港改良技術会議に日本代表として出席した廣井は、英米仏ら6カ国から派遣された委員の作成した浚渫計画案の欠陥を、自ら慎重な調査データを根拠として鋭く指摘し、ついに原案の実行を保留させたという。

"生きている限りは働く"ことをモットーとしていた廣井は、東大在職中に提案された定年制に反対したが、教授会では多数決で満60歳定年が決定した。定められた年にあと3年を残していたが、廣井は自己の主張が容れられなかったこともあり、1919(大正8)年6月、満57歳に達せずして東大を辞した。1928(昭和3)年10月に世を去った翌1929年10月、除幕式を行った廣井の胸像は、小樽公園の丘、後にその麓の平地(運河公園)に移されたが、永久にその傑作"小樽港"を見守っている。

廣井は、明治土木界の重鎮として、日本の土木工学確立の礎を築いた。それは単に学術の高さのみならず、小樽築港に見られる明治期を代表する偉大なる事業を完成した。しかし、重要なことは、その事業に際しての廣井の姿勢であり、心構えである。この築港工事中(1897~1908)、彼は毎朝誰よりも早く現場へ行き、夜もまた最も遅くまで働いていた。現場では半ズボン姿で自らコンクリートを練っていた。コンクリート供試体の強度試験に当たっては、100年後まで強度をテストするように用意し、その後長く現在も毎年その強度が測定されている。廣井がつねに将来を見据える姿勢、将来まで責任を持っていたことがうかがえる。

彼は実学を常に重んじ、"設計を重視する人は多く、それはシステマチックに方法論が確立されている。しかし、仕事を完全に遂行しそれを完成させることは必ずしも十分には評価されない"と述べ、"設計より施工、工程管理などのまとめの方が大切"と主張し、実践を尊重する技術観に徹していた。技術者の生き方として、筋の通った厳しさを堅持し、特に常に上席に憧れる官僚の立身出世主義には強く批判的であり、"技術者の本来の在り方を自省し、自らの技術力を錬磨し、技術を通して文明の基礎づくりに努力すべきである"と主張し、"生きている限りは働く"の信念を終生守り通した。晩年には「もし工学が唯に人生を繁雑にするのみならば何の意味も無い。これによって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、1回の労役を1時間に止め、それによって得られた時間で静かに人生を思惟し、反省し、神に帰る余裕を与えることにならなければ、われらの工学には全く意味を見出すことはできない」との名言を遺している。

札幌農学校学生時代、ウィリアム・ホイーラーという良き師に恵まれた廣井は、クラークの築いた学の精神を体して同校を卒業した。ここでは教える者と教えられる者との人間的な信頼が強固に築かれており、当時全国に漲(みなぎ)っていた明治の日本ならではの高揚した雰囲気のもと、良き師とひたむきな学生が、人間的な信頼によって強固に築かれており、日本の国土開発を核とする近代化という共通の目標に向かってひたむきに立ち向かう燃焼があった。

明治という時代は、世界史においても特別な時代であった。青年の理想に逸早(いちはや)く欧米の科学技術水準に到達せんとする信念が、若きエリート集団に漲っていたのである。そのエリート集団の先頭に立っていたのが廣井勇であった。

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高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

1927年静岡県生まれ。50年東京大学第二工学部卒。55年東京大学大学院(旧制)研究奨学生課程修了。東京大学工学部助教授、教授を経て、87年退官。専門は河川工学。87~98年芝浦工業大学工学部教授。2000年IWRA(国際水資源学会)クリスタル・ドロップ賞、2015年日本国際賞受賞。著書に『国土の変貌と水害』(岩波新書、1971、2015復刊)『河川工学』(東京大学出版会、1990、土木学会出版文化賞)『川と国土の危機 水害と社会』(岩波新書、2012)など多数。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

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月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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