青山士(1878-1963)

万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

高崎哲郎(著述家)

技術は人なり

「技術は人なり」、「公共事業は国民の福祉向上をめざす」、「大事件の前には必ず小事件がある。技術者は小事件の段階でいち早く対処しなければならない」、「公共事業での手抜き工事は国民への背信行為である」。いずれも青山士(あきら)が後輩技師らに語ったことばである。

青山は、唯一の日本人土木技術者として7年半過ごしたパナマから帰国した後、晩年に至るまで自宅書斎の机の上に3人の恩師の写真を置いていた。無教会主義キリスト教指導者内村鑑三、東京帝大工学部土木工学科主任教授廣井勇(いさみ)、アメリカ・コロンビア大学土木工学科教授・アメリカ政府パナマ運河委員会技術顧問ウィリアム・H・バアである。3人の師は、人格形成期である青年期の青山に精神の支柱(モラル・バックボーン)を吹き込んだ。英語で言えばInspireしたのである。3師は期せずして「人生如何に生きるべきか」を知的青年に教えた。青山の人生は、もし彼らに邂逅(かいこう)する機会に恵まれなかったならば大きく異なっていたに違いない。

内村は人類愛と非戦の思想を教え青山にキリスト教への窓を開いた。青山は生涯無教会主義のクリスチャンであった。

内村と札幌農学校(北海道大学前身)の同期生である廣井は土木工学(Civil Engineering、青山は「文化技術」と呼ぶ)が「民衆のための高度技術」であること、技術者は自己研鑽につとめ身を清廉に処すべきこと、を叩き込みパナマ運河開削工事参加という稀有な機会を青山にもたらした。心友内村は廣井を「清きエンジニア」と讃えた。

アメリカ土木工学界を代表するウィリアム・バアは国籍・国境を超えて支援の手を差し伸べ、青山を国際感覚に充ちた日本を代表する土木技師のひとりに成熟させた。

最良の師に恵まれた青年は彼らの知性、キリスト教信仰を存分に吸収して自己の精神性を構築し、国民の生命財産を自然災害から守り福祉を向上させるという土木技師の責務を果たしていった。この精神こそが青山の生涯を貫く「通奏低音」である。

唯一の日本人技師としてパナマ運河工事参加

青山士は、1878(明治11)年9月23日、静岡県豊田郡中泉村(現磐田市中泉)の豪農の家に生まれた。少年は勉学に励むため東京に出て、府立尋常中学(現都立日比谷高校、以下いずれも旧制)から第一高等学校を経て東京帝国大学土木工学科に進んだ。高校時代に宿命的出会いがあった。無教会主義キリスト教指導者内村鑑三との邂逅である。内村の講演を聴いた青年は感激に打たれ、内村門下生になることを決意し、キリスト信仰の道を歩むことになる。

「私はこの世を私が生まれたときよりも、より良くして残したい(I wish to leave this world better than was born)」。内村が講演で引用したイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルのことばに人生の道を模索していた青年は深い感銘を受けた。青山は「内村の厳格な福音主義」を精神の支柱にすえる。「民衆への愛と奉仕」、「社会正義」、「非戦思想」である。内村の助言もあって大学では土木工学を学んだが、内村は大学生青山の人格を高く評価し、「青山君のような人物が土木技師になれば、賄賂などの不正や官僚の横暴は絶たれる」と語った。主任教授廣井勇の助言から「世界最大の土木工学的実験」パナマ運河(全長80km)の開削工事に参加する意を固め単身太平洋を渡る。1903(明治36)年8月。青山は大学を卒業したばかりの26歳だった。廣井が託したバア教授への紹介状が唯一の頼りであった。

1904(明治37)年3月3日、アメリカ政府は、パナマ運河建設に向けて海軍将校ジョン・ウォーカーを理事長とするパナマ地峡運河理事会(ICC)を正式に発足させる。巨大運河の建設事業は、軍隊(陸軍工兵隊)を投入しアメリカ政府直轄事業として展開されることになった。同運河工事は国防省(War Department、当時)が所管する軍事施設建造であることや幹部はアメリカ人技術将校に限られることに注目したい。

廣井の紹介状を受け取っていたバアは、ウォーカー理事長にとりなし、同年5月25日、青山にアメリカ国防省からパナマ運河工事採用通知が届いた。

「パナマ運河開削工事の技術者に1904年7月1日から月給75ドルで採用する」

外国人(日本人)技術者の採用という前例のない措置はバアの要請によって実現したのである。日本人技術者青山士が劣悪な異郷の環境に耐えて、まれに見る成果を上げるのはこれからである。

「闇の奥」熱帯雨林の7年半

1904(明治37)年6月7日、熱帯の夕日が燃えるパナマ大西洋側の港コロンに測量隊を乗せたユカタン号が接岸した。青山は、ドーズ班長が指揮するチャグレス川支流トリニダード川測量部隊の一員になった。「闇の奥」ジャングルとの戦いの始まりである。青山は異常な湿度と猛暑の中、テント生活を続けながら野外測量班の班員として蚊よけの網を頭からすっぽり被り、ダム候補地の測量と地質調査を続ける。

青山がパナマ運河に携わっていた7年半の間に死亡した現場労働者は約4,000人に上る。少なくとも現場作業員の10人に1人は、黄熱病、マラリア、チフスなどの感染症や事故で命を落としていることになる。こうして「泥と汗にまみれた」2年半の密林生活が経過する。

青山はジャングルでの測量生活から大西洋側(カリブ海側)の港湾建設現場クリストバル工区に移り、月給125ドルの測量技師補(Levelman)になった。ICCの評価によると、青山は「優秀な測量技師(Excellent transitman)」であり、月給150ドルとなる。外国人技術者では異例の昇給といえる。青山はパナマ運河開削工事に参加し幹部技術者らと共に働き彼らの言動に接して、和訳の「土木工学」ではCivil(文明的、民衆)のためのEngineeringのニュアンスが表現されていないことを遺憾に思ったという。彼は幹部技師の「率先垂範」を見習った。

1906(明治39)年6月、パナマ運河の心臓部のひとつガトゥン・ダムの巨大工事が開始される。測量技師として現場を指揮していた青山は、実力と勤勉な仕事ぶりが評価されて、大西洋工区の設計部(Design force)の10人の設計技師(Draftsman)のひとりに昇進した。ガトゥン・ダムや同閘門の測量調査と同時に閘門の設計を精力的に行った。青山の月給は175ドルに昇給する。今日の換算で約100万円の高給である。

この間、1908(明治41)年3月、日米政府は紳士協約を成立させ、翌年2月以降日本からアメリカへの移民を自主規制することになった。日米間に暗雲が垂れ込める。

青山は1911(明治44)年3月からガトゥン閘門の湖水側の翼壁(よくへき)、下流の中央繋船壁(けいせんへき)の設計と施工管理を手掛けた。中でもガトゥン村の給水施設である鉄筋コンクリート製のアグア・クララ濾過プラントは青山の担当である。運河中枢部は任せられていないことに注目したい。

同年11月11日、青山はパナマ運河がほぼ80%完成したところで、突然60日間の長期休暇を取って帰国する。その後辞表を送るのである。猛暑のパナマ滞在は7年半に及んだ。アメリカ西海岸を中心に反日運動が高まり、その影響はパナマにまで達した。パナマ運河工事のような軍事施設建設に日本人技術者が参加するのは難しくなった。

「負け菊を 独見直す 夕かな」

青山が後年自著『ぱなま運河の話』に書き込んだ一茶の句である。運河工事の完成を目前にしながらも、完成を見ずにやむなく帰国した青山の心境を語ったものであろう。

パナマ運河は青山帰国の翌年、1913(大正2)年9月26日にほぼ完成して、一部船舶の通行が始まる。

青山の青春は終わった。

高崎哲郎(著述家)

1948年栃木県生まれ。東京教育大学(現筑波大学)文学部卒。NHK政治記者などを経て、帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)。この間、自然災害(特に水害)のノンフィクション、土木史論、人物評伝など30冊余りを上梓(うち3冊が英訳)。東京工業大学、東北大学などで非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技術者(主に技術官僚)を講義し、各地で講演を行なう。現在は著述に専念。主な著作に『評伝 技師青山士』『評伝 工学博士広井勇』『評伝 国際人・嘉納久明』『評伝大鳥圭介』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

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月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

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近代土木の開拓者年表