新渡戸傳(1793-1871)、十次郎(1820-1867)

明治以前の大規模開拓プロジェクト

中野渡一耕(地方史研究協議会会員、元青森県史編さん調査研究員)

幕末期に珍しい新田開発

青森県十和田市は、三本木原台地の中心部に位置する人口約6万人の市である。町の中心部は碁盤目状になっているが、これは幕末期に始まった三本木原開発によるものである。この開発では、奥入瀬川上流から2本の穴堰(あなぜき)(トンネル)を含む約10kmにわたる用水路「稲生(いなおい)川」を引いて灌漑した。稲生川は、2006(平成18)年には農林水産省の選定する「疏水百選」のひとつに、14年には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産に登録されている。

工事が始まったのは、日本が開国した翌年の1855(安政2)年のことで、開発を指導したのは、盛岡藩の勘定奉行などを務めた新渡戸傳(にとべつとう)である。当時、すでに63歳の老境であったが、若い頃は父とともに追放され、一時期配流先で商人をするなど、当時の武士としてはユニークな経験を積んだ人物だった。

一般的に江戸時代の新田開発のピークは17世紀であり、幕末期にこのような大掛かりな開発が進められたのは珍しい。盛岡藩でも大規模新田開発は、奥寺新田(1679年ごろ)など北上川流域の藩南部が中心で、17世紀後半に集中している。18世紀には開発可能な地は少なくなりピークは過ぎていった。藩北部は寒冷で山がちで開発適地が少なく、藩政初期から馬産や、大豆などの米以外の特産物に頼っていた。三本木原は広大だが、火山灰土で水源がなく、わざわざ大規模な開発をする必要性を藩は感じなかったのである。

もっとも、藩も放置していた訳ではなく、奥州街道沿いに風よけの松を植えたり、また湧水を使った小規模な開発は行われていた。三本木原はいわば残された大地であり、新渡戸が開発に着手する前年には、当時の藩の実力者石原汀(みぎわ)が開発の可能性について、新渡戸に打診している。また洋学者の島立甫(りゅうほ)は、三本木原で綿羊を飼えばどうかと提案しているが、いずれも実現することはなかった。

開発の背景 人民撫育の考え

では、なぜこの時期に再び大規模な開発が行われたのか。直接のきっかけは1854(安政元)年に出された「十か年士の制」という、地方に住む侍(いわゆる郷士、盛岡藩では所給人(ところきゅうにん)という)から身分や家禄を取り上げる藩の政策があったといわれる。新田開発を行った者には、その分を家禄として給付し、再び武士に取り立てる、という条件が付いていたため、所給人たちが、かつてこの地方の代官を務め、また花巻周辺で新田開発の実績があった新渡戸に新田開発の相談を持ち掛けた。

三本木原開発は「御取分(おんとりぶん)新田」と言って、新渡戸をリーダーとして彼らが開発資金を出し合い、その出資額に応じて新田開発地を分配するという、株式出資にも似た前例のない方式で始まった。

もっとも、新渡戸が藩に提出した開発願書(十和田市新渡戸家蔵)によると、単なる所給人の救済や年貢の増徴目的にとどまらず、当時の言葉でいう「人民撫育(ぶいく)」の考えがみられる。当時の盛岡藩は、専売制強化による収奪強化で大一揆(1853年三閉伊(さんへい)一揆)が引き起こされ、さらに相次ぐ凶作や飢饉により仙台藩や松前蝦夷地への出稼ぎ、逃亡が絶えなかった。新田開発によって、農業生産を安定させ、他藩への出稼ぎ者を減らし、農民層を救済しようとする目的もあった。このようないわば下からの要請も見逃せない。

開発の経緯

ここで簡単に工事の経緯を述べたい。藩は1855(安政2)年8月に開発を許可し、新渡戸を「三本木新田御用懸」に任命して工事にあたらせた。藩も工事資金を出したが、わずか500両だけで、あとは貸与であった。ほかは先述の出資金(9,000両)のほか、新渡戸自身の持ち出しや、領内外の商人たちの援助で賄っていたと思われる。江戸勤務時代の人脈を利用して、上野寛永寺や京都東本願寺にも資金提供を依頼している。

用水路の特徴は、奥入瀬川と三本木原との20~30mの高低差を克服するために、上流から1,400間(約2,540m)、2,400間(約4,320m)という2つの穴堰を掘ったことである。工事にあたっては、新渡戸家の出身地花巻に近い、現北上市周辺の技術者たちが活躍した。同地では、鉱山技術を応用した穴堰工事(奥寺新田の用水路など)が江戸時代前期から行われていた。彼らは、ふだんは農民をしながら、代々技術を継承していた。新田開発自体は少なくなったが、用水路や穴堰のメンテナンスに携わっていたのである。

盛り土が決壊したり、落差を付けるため10.5mも掘り下げなければならないなど、難工事の区間もあったが、現十和田市中心部周辺までの用水工事が一応の完成をみたのが1859(安政6)年5月で、同月4日に初通水が行われた。この日を十和田市では「太素祭」(太素は傳の号)と名付け、先人の苦労を偲んでいる。以後も、本格的な通水に至るまで補修工事や分水工事が行われた。

三本木新町の建設 地域経済の拠点に

用水が完成すると、次に着手されるのは開田工事と新田の拠点となる新町の建設である。1860(万延元)年に当時の藩主により「稲生町」と命名されたこの町は、単なる新田村ではなく、地域総合開発の拠点という性格を持っていた。

この町の建設を指揮したのは、工事途中で江戸勤務を命じられた父・傳に代わって三本木新田御用懸になった長男の新渡戸十次郎である。かの新渡戸稲造の父である。十次郎は父以上に藩の経済吏僚としての側面が強く、勘定奉行、目付、御用人などを歴任している。稲生町建設にあたり、十次郎が藩に提出した献策書『三本木平開業之記』によると、もともと当地で盛んであった大豆や馬、海岸部で生産される〆粕(しめかす)の流通の拠点にする構想のほかに、瀬戸物焼き、養蚕、馬鈴薯、イワシ網、薬草、硝石など、新規の事業を含む多岐にわたっている。養蚕は開国に伴う輸出の増加に、硝石(火薬の原料)は幕末の軍需に対応したものであろう。そのため、京都から瀬戸焼き師、福島から養蚕師を呼ぶなど、各地から技術者を招致した。

この構想は、いわゆる国益主法という、藩内の生産力を高め、他領への資金や労働力の流出を防ぐという、経済的自主性の強化を目的としていた。三本木での産業振興策はそのモデルになるものだった。新田開発願書にあった人民撫育の考えは『三本木平開業之記』でも顕著で、産業が少ないので出稼ぎや人口調整(堕胎や嬰児殺しなど)が行われているのを防ぎ、他領からも人を呼んで、三本木を労働力の受け皿にしたいとしている。移住した人々の心の拠り所を作るため、神社仏閣を造ったり(浄土真宗信者の入植も図っている)、祭礼や諸芸能の実施、さらには遊郭の誘致まで行っている。三本木の祭礼では遊女たちが花を添えた。

産業振興策について、瀬戸物焼きのように原料に恵まれず、うまく根付かなかったものもあるが、馬市のように旧来の市場をしのぐほど成長したものもあった。

さらに、三本木は奥州街道沿いにあることから、宿場町としての整備のほか、当時日本に頻繁に出没するようになった外国船に対し、沿岸防備のため藩北部の政治的・軍事的拠点にしようとする考えがあった。そのため、江戸にいた盛岡藩南部家の分家大名を移転させ、「城下町」とする構想もあった。実際に1864(元治元)年に幕府へ陣屋地として届け出ている。幕末の混乱のため実現はしなかったが、もう少し幕藩体制が続けば、「三本木藩」が誕生していた可能性もあった。

その後の三本木開発

十次郎は新田開発地の生産力を高めるため、稲生川の北側にもう1本用水を構築する第2次上水計画を持っていた。さらに太平洋沿岸の百石(ももいし)(現おいらせ町)周辺まで開発しようとしたもので、実際に1866(慶応2)年に工事が開始された。しかし、まもなく明治維新の動乱を迎え、十次郎も翌67(慶応3)年12月に失脚し、失意の中で病没する。父・傳は、なおも開発に意欲を見せ、新政府に開発の実施を申請するが、許可されることにはならず、1871(明治4)年にこの世を去る。

明治初期には、せっかくの開発地も相当に荒廃したようだが、1876(明治9)年に明治天皇の巡幸の視察先に選ばれたことから、再び開発の機運が高まる。明治政府は、北海道開拓をはじめとして、那須疏水、安積疏水など国営による開墾を進めていったが、三本木原は火山山麓台地開墾のモデルになるものだった。84(明治17)年には民間の三本木共立開墾会社(のち三本木開墾株式会社と改称)が設立されて開発を引き継ぎ、百石までの用水路を完成させた。かの澁澤榮一も経営に参加している。さらに昭和戦前には食糧増産のための国営開墾として引き継がれていくのである。

このように三本木原開拓が開発主体は変わりながらも継続していったのは、それが完結した開発ではなく、その時々の政治・経済状況によって不断に開発が求められていたことを意味するだろう。新渡戸傳・十次郎親子は、藩政時代にその基礎を作った人物として高く評価される。なお、十次郎の長男七郎(稲造の兄、1843~1889)も、技術者として安積疏水や那須疏水の工事に携わっている。

現在は、三本木原は県内有数の穀倉地帯である。稲生川は町のシンボルとして、今日も流れている。

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中野渡一耕(地方史研究協議会会員 元青森県史編さん調査研究員)

1968年青森県生まれ。筑波大学人文学類卒。専攻は日本近世史。青森県立郷土館勤務時代に特別展「稲生川と土渕堰」担当。青森県史編纂に事務局職員及び委員ととして約20年携わる。主な論文に「三本木開拓地における製革業について」「幕末期三本木開拓地における祭礼と諸芸能について」など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

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