丹下健三(1913-2005)

海外での日本人建築家の活躍の先駆け

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

丹下評価をめぐる3つの視点

戦後日本を代表する建築家・丹下健三を評価する際、3つの視点が挙げられる。1つ目に広島平和記念公園、香川県庁舎、国立代々木競技場、日本万国博覧会(以下、大阪万博)お祭り広場に至るまで数々の傑作を実現したこと、2つ目に東京大学建築学科丹下研究室において世界的な建築家や日本を代表する官僚らを育て世に送り出したこと、3つ目に戦後日本の建築家が海外で活躍する道を切り開いたこと、である。

特に丹下が海外での日本人建築家の活躍の先駆けであったという指摘は3つ目の視点に該当する。論を進めるにあたって丹下による国内作品群について振り返ると、丹下は絶えず建築・都市・国家を一体的に把握し、新しいビジョンを提示してきたと言える。例えば、広島平和記念公園では原爆投下によって亡くなった人々の慰霊と平和への希求がテーマとなり、香川県庁舎では地方における戦後民主主義を具体化することがテーマとなった。更に国立代々木競技場では戦後日本の復興と平和外交を世界に向けて発信することがテーマとなり、大阪万博では高度経済成長の果実を会場計画として可視化することがテーマとなった。丹下は戦後日本の危機的状況と絶えず向き合いながら、自らの建築的課題に引きつけて、あるべき姿を「見える化」してきたと言える。

丹下門下の高弟の1人である建築家・磯崎新は師の一連の取り組みを「建築・都市・国家のメガストラクチャー」と総称した。1970年代以後、磯崎は「建築の解体」を主張して丹下のメガストラクチャーを徹底批判し、ポストモダンの口火を切ったことは広く知られている。しかし、1950~60年代にかけて西欧列強の植民地から独立した中近東やアフリカの為政者の目には、非西欧圏に属する丹下が構想した「建築・都市・国家のメガストラクチャー」が眩く映り、新しい国家建設の象徴にふさわしい表現に見えたのである。

総じて丹下の傑作と評される国内作品群は戦災復興から高度経済成長期に提案され、常に戦後日本の重要課題への回答となっていた。そして1973年のオイルショックを契機に日本国内では「成長の限界」(ローマクラブ、72年)が流行語となり、丹下の手法は磯崎のみならず新聞紙上でも厳しく批判された。しかしその頃、石油高騰に沸く産油国(オイルヘブン)ではまさに近代の幕が上がろうとしており、丹下のアーバンデザインは大枚を叩いてでも輸入したい知的財産となり得たのである。

日本から輸出されるアーバンデザインとその類型化

丹下が海外で取り組んだプロジェクト数は自著の中で公表されているだけで152あり、それらの中にはナイジェリア新首都都心計画(1979~82年、敷地面積425ha)など、巨大なアーバンデザインが数多く含まれている。本稿ではこれらの全てを取り上げることは不可能なため、特徴的なものを以下6つに類型化してみた。

(1)王族・為政者のための宮殿及び関連施設建設
(2)国際スポーツ大会のためのスタジアム建設
(3)イスラム教と仏教の聖地計画
(4)既成市街地の震災復興計画、再開発
(5)未開発地区(タブラ・ラサ)の都心建設計画
(6)発展途上国における大学キャンパス計画

第1の類型はダマスカス国民宮殿(シリア大統領官邸、1981年竣工)、サウジアラビア王国国王宮殿(82年竣工)、キング・ファイサル財団コンプレックス(84年竣工)などが含まれ、プレキャストコンクリートによる大胆な架構に瀟洒な大理石がふんだんにあしらわれた宮殿が実現している。

第2の類型はニューヨーク・スポーツセンター(フラッシング・メドウ・スポーツパーク、1967~68年)やクウェートスポーツセンター計画(69年)などが含まれ、いずれもオリンピックなどの国際競技会場として丹下が計画立案を依頼されたものである。しかし、その多くは計画段階で頓挫し、実現したものとしてはシンガポール・インドア・スタジアム(89年竣工)が挙げられる。

第3の類型はネパールのルンビニ釈尊生誕地聖域計画及びルンビニセンター(1983年竣工)、サウジアラビアのメッカ巡礼のための聖地ムナ計画(73~74年)が含まれ、丹下は各宗教の開祖にちなむ聖地のデザインを依頼されている。

第4の類型は既成市街地を対象としたアーバンデザインであり、旧ユーゴスラビア(現在の北マケドニア共和国)のスコピエ都心部再建計画(1965~66年)、スコピエ中央駅(73年竣工)、アメリカのバルティモア都市再開発都市計画(73年)などが挙げられる。日本での再開発と同様に複数の地権者が複雑に絡み合い、実現が困難なテーマであった。しかし、シンガポールにおける超高層ビル群の設計(80~86年竣工)では、対象敷地が既成市街地とは言え土地所有制度が異なるため、開発は短期間でスムーズに行われた。

第5の類型はイランのテヘラン新都市開発基本計画(1975~81年)、ナイジェリア新首都都心計画(80~82年)、同国会議事堂(89年竣工)などが挙げられる。これは全く未開発の広大な敷地を対象とした開発計画であり、為政者の意図を反映しやすい敷地であった。

第6の類型は大学キャンパス計画で、アルジェリアのオラン総合大学(1989年竣工)、ヨルダンのヤルムーク大学(79年)、シンガポールのナンヤン工科大学(86年竣工)、バーレーンのアラビアン・ガルフ大学(89年竣工)など、さまざまな国で実現している。

本稿では第4、第5、第6の類型から1つずつ典型事例を挙げ、日本国内での取り組みと比較しながら紹介し、丹下の海外プロジェクトの特徴と意義を考えてみたい。

旧ユーゴスラビアのスコピエ都心部再建計画

1963年7月26日、旧ユーゴスラビア(以下ユーゴ)南部のスコピエで大地震が発生し、市街地の大半に被害が及んだ。ユーゴ、マケドニア共和国、スコピエ市の3者は協働して国際的な協力を仰ぎ、65年初頭に国連がスコピエ都心部を対象とした復興計画の国際コンペを行った。このコンペに丹下チームも参加し、見事1等に当選する。丹下の当選案は鉄道駅・高速道路が接続する中央業務地区(シティ・ゲート)と、城壁のような高層アパート群(シティ・ウォール)を組み合わせた案で、3次元的な未来都市そのものであった。また地元ユーゴ、ザグレブのミシュチェヴィチチームが2等に入選した。コンペ終了後、丹下チームとザグレブチームは丹下らによる当選案を基にしつつも共同チームを作り、現実の状況に立脚した復興構想を練る運びとなった。

丹下はスコピエ復興コンペに勝利する20年前、広島の戦災復興都市計画の立案に参加していた。しかし、地権者らの同意が得られず、建築家の構想が現実の都市を前に無力であることを思い知った。1952年当時、東京大学建築学科での講義の冒頭、丹下は「Planningとは都市を対象として計画を考えるのであるが、それ自身も白紙の上に線を引くのではなくして、都市という歴史的現実に対してPlanされる」と述べ、既成市街地はいかに破壊されようとも決して白紙ではないことを吐露している。

スコピエの都市形成史や民族問題を深く理解しないまま当地に乗り込んだ丹下チームは、自らの案を実現させようと意気込んでいた。具体的には、当選案を既成市街地の諸条件になじませながら市議会への中間報告資料の作成に取り組もうとした。しかし、様々な利害関係者が現れ、徐々に民族問題の複雑さが露わとなり、地元のザグレブチームは旧来の近代都市計画手法の継承に重きを置いたため、両チームの意見調整が難航し、広島復興都市計画と同様に丹下の当選案はラディカルさを徐々に失っていった。

市議会への中間報告後、丹下チームは東海道新幹線駅の設計に携わった山崎兌(とおる)の協力を得てスコピエ中央駅の設計を進めた。同様に丹下は勝田高司・東京大学生産技術研究所教授の協力を得て、シティ・ウォール内の環境アセスメントを行い、可能な限り日本からスコピエへの技術移転を試みた。

丹下は自著『一本の鉛筆から』の中でスコピエの復興計画に触れて、各地区の建物の高さなどを詳細に定め、その通り法律となり、建設も続けられたが、「もう1歩進めて建物の材料や色、そして窓や屋根の形なども指定していたら、もっと調和のとれた街になっていたろう」と振り返っている。広島の戦災復興都市計画立案で得た知見や高度経済成長期の最新技術を踏まえ、日本から遠く離れた被災地スコピエの復興計画に参画したことは大変誇らしい国際貢献であった。しかし、当地の複雑な利害関係や歴史背景に直面した丹下の当選案はみるみる萎んでいき、似て非なるものとして実現したのである。

イランのテヘラン 新都市開発基本計画

テヘラン市の都心部にあるアッバス・アバド地区は、かつて軍用地として利用された未開発エリアで、面積は約500haに及んでいる。この地区には自然の美しい起伏のある丘陵地が残されていたが、その周辺はスプロールした市街地が建設されつつあった。

1973年秋、イラン王宮は丹下とアメリカの建築家ルイス・カーンを招き、両者が協働してアッバス・アバド地区に新都心を建設するためのマスタープランを提案するよう求めた。計画に求められた主たるものは、次の3点である。1つ目に15万人の就業人口を収容する都心業務地区及び市の行政中心地区を設けること、2つ目にイラン文化の伝統を保存、象徴する文化地区を設けること、3つ目に4万5,000人のための住居地区を設けること、であった。丹下の分析によれば、アッバス・アバド地区は南に接する既存の都心から、北の高級住宅地区に至る南北軸と、将来のテヘラン大都市地域形成への東西発展軸、特に西方に伸びようとするこの東西軸との交点に存在し、テヘラン大都市圏の中心地区となる、と想定された。

丹下にとって自然が残る郊外エリアの巨大開発は日本国内で経験済みで、大阪・千里に広がる約100万坪(330ha)の竹やぶに万博会場を計画することに近しかった。また、丹下は西山夘三・京都大学教授と共に大阪万博会場計画に取り組んでおり、同業のライバルと協働することにも免疫ができていた。

計画当初、カーンはフィラデルフィアで、丹下は東京でマスタープランを作成したが、1974年2月にテヘランでのイラン王室とのミーティングで、カーンと丹下の案が持ち寄られた。これらの案をもとに、テヘランで丹下とカーンは数日間話し合い、自然の美しい地形とその起伏を最大限に残すこと、この地区をテヘランの南北軸と東西軸の交差する新都心であることを構造上明確にすること、などを合意して、互いの設計を進めることになった。しかし、カーンが不慮の事故で亡くなり、丹下が最終案をまとめた。その後、このエリアの開発はイギリスの開発会社に継承され、現在に至る。

丹下とカーンは互いに異なる文化背景を持ちつつも、イランの伝統を現代の建築家の視点から再解釈し、これまでにない新しい都市デザインを協働して作ろうとした。特に丹下の提案では、これからの経済発展が期待されるテヘランにおいて、人口過密や交通の混乱を回避する有力な手法としてCivic Axisを提案し、日本国内での都市デザインの経験を生かそうとしたことが窺われる。一方のカーンの提案は丹下のそれとは対照的に、彫刻的な造形群と丘陵地とを対峙させ、神秘的な空間の創出に腐心している。カーンの設計手法の背景にゾロアスター教からの影響を指摘する識者もいる。2人の建築家の大胆で勇壮な発想が可能だった理由の1つに、複数の地権者が混在する既成市街地ではなく、施主であるイラン王室が管理する広大な未開発地であったことが挙げられ、こうしたプロジェクトは短期間に実現する可能性もあった。一方、王室内の意見対立や政変でいつでも設計者が切り替わることも覚悟する必要があった。実際には1978年にイラン革命が発生し、丹下はテヘラン市内で進められていた高級ホテル計画を中止に追い込まれた。

アルジェリアのオラン総合大学

1970年の大阪万博を訪れたアルジェリアの国家建設公団総裁・アウシッシは、大阪万博会場の完成度に感銘を受け、翌年、丹下にオラン総合大学建設プロジェクトへの参加を依頼した。計画の規模は、理工医系大学(学生数1万人)、大学病院(1,200床)、3つの学生寮(3,000人)であった。当時、アルジェリアは62年にフランスからの独立を勝ち得たが、長きにわたる植民政策のために識字率がわずか25%であった。また高等教育を担う教員数のみならず、国家の経済発展を担うエンジニアや医者の数も不足していた。このため、大学建設は将来の国家運営に直結する重要課題であった。

オラン総合大学の建設プロジェクトでは、日本・アルジェリア共同でアカデミックプラン(高等教育のカリキュラム)をゼロから立ち上げ、かつキャンパス全体のマスタープランと各施設の設計が求められた。アルジェリアでプロジェクトの概要説明を受けた丹下事務所のスタッフ・山本浩三は帰国後、日本の文化庁などを廻り、アカデミックプラン立案のための日本側メンバー選出を協議した。その結果、大阪大学医学部教授で後に同大学総長となる山村雄一に協力してもらえることになった。

また施設計画は、施主側が主張する2つの課題(市民との触れ合いを持つ開かれた大学、各学科の縦割りを排して有機的に相互の関連をはかる総合大学)を、敷地面積約500ha、延べ床面積約39ヘクタールの施設群の中に如何に実現するかがテーマとなった。検討の結果、丹下は東京計画1960で試みた都市軸を選択し、立体格子状のコミュニケーション・ネットワークを持った空間構造を用いることとした。

しかし、アルジェリアは建設産業が黎明期で、これだけの規模の施設群を作るための砂や砂利さえ準備できなかった。このため、日本からゼネコンが工事に参加することになり、オラン市東端に接する300haの敷地に、工事に必要なプラント建設から工事がスタートした。言い換えれば、戦後日本の建設会社が海外進出する足がかりは、政府開発援助の他に、丹下を筆頭とする有名建築家のプロジェクトも挙げられ、当該地域の王族や為政者からの信頼を得ることで、その後の大型プロジェクト受注に大きな影響を与えたと推測される。

建国から間もないアルジェリアにおいて、丹下が総合大学のソフト・ハードの立ち上げから参加し、日本のゼネコンの海外進出を後押ししたことは、建築分野における国際協力として特筆すべき成果であったと評価できる。

また、丹下自身は日本国内の大学関連施設として津田塾図書館、立教大学図書館、東京大学本部棟など単体施設を実現しているが、大学キャンパスを手がけることは少なかった。その背景には、日本では明治以来、帝大・地方大・私大の制度が確立し、丹下が名声を博する1960年代には高度経済成長を支える人材の供給システムがソフト・ハード共既に構築されていたことが挙げられる。

小結

本稿では建築家・丹下健三の海外における取り組みを6つに類型化しながら振り返り、後半では3つのプロジェクトを取り上げた。それらの対象敷地は、東欧、中近東、北アフリカと異なる地域に属し、政治体制も各々異なる。そうした国々から見て、第2次世界大戦の敗北からいち早く立ち直り、奇跡的な経済発展を成し遂げた日本は興味深い国であったと考えられる。特に、宗主国であった西欧列強と距離を置きたい発展途上国からすれば、非西洋に属する日本の象徴的なプロジェクトを次々と実現させた建築家・丹下健三に注目が集まったことは想像に難くない。

既成市街地の復興や未利用地の巨大開発はどの国のどの時代においても難しい課題であるが、世界各地から丹下に大きな期待が寄せられ、それらに誠実に対処したことによって丹下は国際的な名声を博した。建築家側からすれば壮大なコンペ案の数分の1も実現せず、割に合わない仕事の連続であり、国内での輝かしいプロジェクトの焼き直しに過ぎないという厳しい批判にさらされるリスクもあった。しかし、長いスパンでこうした取り組みを振り返った時、都市計画に関するソフト・ハードの輸出、国内建設産業の海外進出という重要な側面を持ち、現代日本の課題を先取りしていたことに気付かされる。

21世紀の日本の建設産業はこれまで以上に海外進出を進めていくものと思われる。その際、設計者や建設会社が関与するプロジェクトが利益や名声の獲得にとどまらず、進出先の国の文化・経済・産業構造に如何に貢献するかは重要な課題であり、半世紀前の丹下の取り組みがその先駆的事例になると考えられる。

  • 現在のページ: 1ページ目
  • 1 / 1

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築史家・建築家)

1973年宮城県仙台市生まれ。東京大学工学部建築学科卒。同大学院工学系研究科建築学修了。工学博士、一級建築士。日本設計を経て2017年より現職。専門は都市デザイン。著書に『群像としての丹下研究室』『丹下健三とKENZO TANGE』『TANGE BY TANGE 1949-1959』ほか多数。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

全編を読む

総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

全編を読む

【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

全編を読む

【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

全編を読む

【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

全編を読む

【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

全編を読む

【廣井勇】 現場重視と後進の教育

高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

全編を読む

【工楽松右衛門】 港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

全編を読む

【島安次郎・秀雄・隆】 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

全編を読む

【青山士】 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

高崎哲郎(著述家)

全編を読む

【宮本武之輔】 技術者の地位向上に努めた人々

大淀昇一(元東洋大学教授)

全編を読む

【八田與一】 不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

全編を読む

【新渡戸傳・十次郎】 明治以前の大規模開拓プロジェクト

中野渡一耕(地方史研究協議会会員、元青森県史編さん調査研究員)

全編を読む

【丹下健三】 海外での日本人建築家の活躍の先駆け

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

全編を読む

近代土木の開拓者年表