八田與一(1886-1942)

不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

台湾最大の不毛の大地への挑戦

八田が渡台した1910(明治43)年の日本の人口は5,000万人弱だったが、5年後には5,300万人近い人口に膨れ上がった。その結果、食料不足の深刻な状態が続いていた。

ついに1918(大正7)年には富山県で発生した米騒動が全国に波及した。そこで政府は、台湾を日本の食料供給基地にすべく台湾総督府に食料、特に米の増産を促した。その総督府も人口の増加と南部の工業化に伴う電力不足の解消という課題を抱えていた。

この2つの課題を解決するため、灌漑用のダムと水力発電用のダムの適地調査を実施することにして土木局に依頼した。土木部の山形要助課長は、桃園埤圳に全力で取り組んでいた八田を呼び戻すと言った。

「桃園は順調に進んでいる。君がいなくてもなんとかなる。別の調査を早急にしてほしい。発電用と灌漑用のダムの適地を見つけてきてほしい」

八田を中心に若き技師が適地探しのために台湾全島を調査した。風土病があり、道なき道を踏破する調査は厳しかったが、水力発電用のダムの適地は、国弘長重技師により発見された。台湾中部の湖、日月潭である。この工事は台湾電力株式会社を設立し、堀見末子技師長の指導・監督の下で1919(大正8)年に着工された。一方灌漑用ダムの適地については、相賀照郷嘉義(かぎ)庁長の要請から始まった。相賀は「桃園埤圳のような灌漑施設を嘉義にも造ってほしい」と山形に談判して引き下がらないため、2週間の期限付きで八田が調査することになったのである。相賀は非常に喜び、支庁長や外勤警部補を案内役に14カ所の適地を調査した。八田は、嘉南平原の調査で広大な大地が不毛の大地として放置されているのを目の当たりにした。さらに日々の飲料水にも事欠く農民の生活環境にも愕然とした。

貯水池が造れる場所は曽文渓の支流、官田渓だけであることも分かった。八田はこの台地に水路を引けば、不毛の大地が台湾最大の緑野に変わるはずだと考えた。総督府に帰任した八田は、基本計画を作り、山形に提出した。「官田渓埤圳工事計画」である。書類に目を通し終えた山形は一言、「馬鹿」と叫んだ。「2万2,000の桃園埤圳だけでも大変なのに、7万5,000の灌漑だと、この馬鹿者が大風呂敷を広げやがって......」

八田は山形から「馬鹿」呼ばわりされることには慣れていた。山形が落ち着くのを見定めて説明を始めた。説明を聞き終わった山形は、納得したのか「下村長官に上げてみる」という。数日後、下村宏民政長官に呼ばれ「米の増産とサトウキビの増産をするための灌漑施設を考えてくれ」と要請を受けた。八田はサトウキビ12万トンの増産のため、灌漑面積を15万haに拡張した。新たな水源には台湾最長の河川・濁水渓からの取水を考えて計画書を作り提出した。下村長官は日月潭水力発電計画と官田渓埤圳計画の2つを国会に提出した。その結果、電力会社案には予算が付いたが、灌漑計画案は調査不十分という理由で、再度調査して提出することになった。

4万5,000円の調査費が付いたため、各班長に阿部貞寿、齋藤己代治、佐藤龍橋、小田省三、磯田謙雄を指名し総勢60人の作業員と共に嘉義高砂ホテルに陣取り不眠不休で半年間調査に没頭した。調査は測量に始まり、烏山頭(うさんとう)ダムや給排水路の支線、分線まで行い、設計図と共に予算書を作成して再度国会に提出するためである。

設計図と予算書を携えた八田は、部下に見送られ嘉義駅から上京、台北に着くと総督府の会議室に腰を下ろした。下村長官をはじめ相賀土木局長、山形土木課長以下技師たちが八田の説明を聞き終わると、多くの技師がその工事規模の大きさに驚嘆した。灌漑面積15万ha、給水路1万km、排水路6,000km、工事期間およそ6年間、必要経費は事務費を入れて4,200万円という。「水源は、どうする」と山形が口火を切った。「濁水渓からの直接取水で5万2,000ha、それに官田渓に造るダムから9万8,000haの灌漑を考えています」と答える。「ダムの規模は」と聞く。「有効貯水量約1億5000万トンのダムを半射水式(セミ・ハイドロリック)で造ろうと考えています。これがその設計図です。全部で300枚余りあります」。ダムの設計図を見て、技師全員が我が目を疑った。堰堤長1273m、堰堤の高さ56m、底部幅303m、頂部幅9mの巨大な堰堤の断面図が描かれていたのである。東洋はおろか世界にも例がない規模のダムを、33歳の技師が設計していたのである。「八田の大風呂敷」が真価を発揮していた。局長以下、ほとんどの技師が質問を終え、静寂が会議室を包んだ。下村長官がおもむろに口を開いた。「この規模の工事は、内地にはあるのか?内地に無いとすれば、巨大工事を2つも台湾でやるのは愉快じゃないか」。この言葉に、今度は土木局全技師が我が耳を疑った。「日月潭水力発電工事」と「官田渓埤圳新設工事」という巨大工事を土木局が1度に背負い込むことになるのである。「金のことは何とかする。工事をするからには、必ず成功させてくれ。八田技師頼んだよ。ところでダムの人造湖はまるで堰堤に生えた珊瑚樹そっくりだな。北の日月潭に南の珊瑚潭というのはどうだろう」。

下村長官は機嫌良く会議室を後にした。これで総督府土木局内での審議は終わったのである。巨大な灌漑事業が嘉南平原で動き出そうとしていた。八田案は明石元二郎総督の決断を経て第42帝国議会で審議された。米騒動の苦い経験をしていた議会は7月の追加予算で通過成立させたのである。この巨大工事は総督府の直轄工事ではなく、民間工事として国が補助金を出し、総督府が工事全体を監督する方式にした。そのため「公共埤圳嘉南大圳組合」が設立され、八田は総督府から組合に出向し、烏山頭出張所長として工事を指揮することになった。

烏山頭で起工式が行われた1920(大正9)年は、日本が台湾を領有して25年が経過した節目の年であった。「台湾州制」律令第3号により、行政区の廃庁置州が行われ、これまでの12庁から台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁の5州2庁に変更された。同様に打狗は高雄へ、打猫は民雄へと地名の変更も行った。

嘉義から台南に跨がる南北92km、東西32kmの台湾最大の嘉南平原は、雨期には洪水が、乾期には干魃(かんばつ)が襲い、さらに台湾海峡に臨む大地は塩害という三重苦に見舞われる不毛の大地として見捨てられていた。当然ながらそこに住む40万の農民は、「看天田」という雨水だけに頼る農業しかできず、飲み水にも困る生活を強いられていた。この不毛の大地に貯水量1億5,000万トンの巨大なダムを築き、濁水渓からの直接取水を入れて総延長が1万6,000kmの水路を網の目のように走らせ15万haの大地を台湾最大の穀倉地帯に変える巨大プロジェクトが開始されたのである。

工事は4カ所に分けて行うことにした。1つは曽文渓から取水するための烏山嶺隧道掘削工事、2つ目は濁水渓からの直接取水工事、3つ目は烏山頭ダム構築工事、最後が水路をネットワーク化する給排水路工事である。これらの工事が広大な嘉南平原全域で行われるのであるが、最も重要なのが烏山頭ダムの建設で、この工事現場の責任者は、当然ながら設計者である八田與一があたった。

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、80年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。著書に『台湾の歩んだ道-歴史と原住民族-』『台湾を愛した日本人 八田與一の生涯』(土木学会著作賞)『日本人に知ってほしい「台湾の歴史」』『台湾を愛した日本人Ⅱ』『KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯』など。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら『台湾を愛した日本人Ⅲ』で磯永吉について執筆中。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

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【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

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工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

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小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

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【青山士】 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

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豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

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近代土木の開拓者年表