八田與一(1886-1942)

不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

4つの新手法で難工事にあたる

八田は工事を始めるにあたって、驚くべき行動に出た。これまで誰も実践しなかった手法を考え、実施した。

第1に大型土木機械の大量導入である。この工事は人力より機械力が成否を決めると考え、現場の職人が見たことも使ったこともない大型土木機械を、渡米して大量に購入した。

購入費用は400万円であった。烏山嶺隧道と堰堤の工事費の総額が1,600万円であったから、機械購入費は4分の1にもなった。ドラグラインスチームショベルのうち大型ショベルをブサイラス社より5台、小型ショベルをマリオン社より2台購入。エアーダンプカーは、キルボルン社とウエスタン社から合わせて100両も買った。大内庄から土砂を運び、蒸気により荷台を傾かせて土砂を落とし堰堤を築くための台車である。この他エキスカベーター、軌道式スプレダーカー、ジャイアントポンプなどを購入し、ドイツからは56トン機関車12両、ドラグラインショベル2台、20馬力巻揚機1台、コンクリートミキサー4台も手に入れた。烏山嶺隧道工事用には、大型削岩機、坑内ショベル、大型エアーコンプレッサーを注文した。堰堤築造工事だけで47種類の多さである。これだけ大量の大型機械が、1つの工事で使用される例は、日本では初めてのことであった。この大型土木機械の採用は、その後の台湾開発に威力を発揮しただけでなく、土木技術者の思考回路を変えるコペルニクス的影響を与えた。

2番目は「セミ・ハイドロリック(半射水式)工法」の採用である。堰堤の構築にセメントをわずか0.5%しか使わないアースダムを水で構築するという。地震の多い台湾、粘土質の烏山頭の地には、この工法が最適であるとの結論を研究結果から出していた。土木官僚や山形課長も賛成はしなかったが、当時の八田はひるむことなく論破して世界最大のセミ・ハイドロリック工法で挑んだ。その工法といい1億5,000万トンの貯水量といい1935(昭和10)年にアメリカのフーバーダムが完成するまでの5年間は、世界一の規模を誇った。完成後90年を経た今日、幾度となく巨大地震が台湾を襲ったが、烏山頭ダムは破壊されることなく現役で活躍し、今日でも嘉南平原を潤し続けている。八田の技術の勝利であり、模倣する時代から脱却した日本土木界における金字塔であった。後にこのダムは「八田ダム」として、世界的評価を受けることになる。

3番目は安心して働ける「従業員宿舎の建設」である。実に人間的な施策だった。従業員が安心して働ける宿舎を、工事現場の原生林を切り開き68棟もの宿舎を造り、200戸余りを新築したことである。宿舎ばかりでなく、従業員の子弟が通う学校、病院、購買所、風呂、プールに弓道場、テニスコートまで造った。工事を請け負った建設会社の倉庫や事務所、それに烏山頭出張所を加えると、常時1,000人余りの人が暮らす街が出現した。外部から働きに来る人を含めると2,000人近くになるため、台南州は急いで交番を造ったほどであった。

「安心して働ける環境無くして、良い仕事は出来ない」という八田の哲学によるものである。当然ながら八田夫妻も住み、子供と共に10年間を烏山頭で過ごした。

最後は「3年輪作給水法」の採用である。15万haの大地を潤すには。濁水渓や烏山頭ダムの水をもってしても1度に給水できるのは5万haが限界であった。そこで八田は嘉南平原に住む農民が、ことごとく水の恩恵を受けるためにはどうすれば良いかという難問に直面した。技術者はダムを造り水路を敷けばそれで終わりという考えは、八田にはなかった。廣井教授の「橋はそれを利用する者のためにある」という、利用者第一の考えが八田にもあった。それに、水に苦しむ農民の姿を見て育った農家出身の八田にとって、同じ大地に住む農民が水の恩恵を受ける者とそうでない者に差別化されることは耐えられないことであった。

下村長官が求めていた増産は、米とサトウキビだったことを記憶していた八田は、水を必要とする時期が異なることに着目した。15万haの大地を3ブロックに分割し、さらにその5万haを3分割、そして末端の農地まで3分割を実施した。3分割されたA区画には1年目に米を、B区画には野菜などの雑作物を、C区画にはサトウキビを植えることにした。当然ながら2年目にAは雑作物、Bはサトウキビ、Cは米という具合に3年で一巡する給水法を考案した。この「3年輪作給水法」によって、1度に5万haしか給水できなかった水で15万haへの給水を可能にしたのである。八田は土木技師から1農民になりきっていた。この方式は、1930(昭和5)年に給水を開始してから90年を経過した今日も、姿を一部変えながら守り続けられている。

八田技師を襲った多くの試練

「嘉南大圳新設事業」は必ずしも順調に推移したわけではない。八田をして苦悩する出来事が襲っている。

1922(大正11)年12月6日、八田が工事の中止を考えた事故が工事現場で発生した。烏山嶺隧道掘削工事中に入口から90m掘り進んだところで、噴出してきた石油ガスに引火し大爆発を起こしたのである。この事故で50人余りの作業員が死傷した。工事を始めて2年目のことであった。八田は打ちひしがれ、遺族の家を1軒ずつ廻り、土下座までして詫びた。その時、台湾人の遺族から「亡くなった者のためにも、工事を必ずやり遂げてほしい」という言葉に励まされ、決意新たに工事を再開した。

ところが半年余りたった1923(大正12)年9月1日、東京を直下型の巨大地震が襲った。関東大震災である。台湾総督府から多くの義援金が送られたため、工事の補助金が減額される事態になり、従業員の半数を解雇せざるを得なくなった。部下が優秀な職員は残してほしいと頼むが、八田は悩んだ末に優秀な職員から解雇した。「優秀な者は就職口があるが、そうでない者は、路頭に迷う」と言って、退職金を渡しながら涙を流したという。解雇した職員の再就職先は、八田の奔走によって、組合より給料が良いところに全員を就職させている。その後、満額の補助金が付くと、希望する者は全員再雇用したため八田に惹かれる従業員が多くなっていった。烏山頭工事に携わる者は「八田一家」と言われ、八田を「親父」とまで言う職員まで現れた。震災の影響で工事期間と予算が見直され、すべての工事が完了したのは、着工から10年後の1930(昭和5)年であった。その間に烏山頭で亡くなった者は家族を含め134人にもなった。八田は殉工碑を堰堤の下に造り、日本人、台湾人の区別なく死亡順に名を刻んだ。

5月10日には竣工式が行われ、ダムの放水門から激流になって流れ出た水が、1万6,000kmの給排水路になだれ込んだ。水路を流れくる水を目にした農民は、信じられない思いで叫んだ。「神の水だ。神が与えてくれた恵みの水だ」。この時から、八田は「嘉南大圳の父」として嘉南40万の農民から慕われ尊敬されるようになる。神の水がすべての水路に行き渡るのに3日間を要した。その3日間、烏山頭では3,600人近い日本人や台湾人の従業員による祝賀会が続いた。世紀の大事業は終わった。

八田は家族と共に8月には烏山頭を去り、再び総督府の技師として活躍する。翌年の7月には、蔵成信一を発起人代表とする校友会から八田の銅像が届き、ダムを見下ろす丘に設置された。

完成から3年後には、15万haの不毛の大地が、蓬莱米、サトウキビ、野菜による3年輪作給水法によって緑野に変わった。総督府の考えた食糧増産計画は成功を収め、米も砂糖も日本内地へ大量に移入されるようになった。その結果、嘉南40万の農民が、経済的に豊かになり生活が一変したのである。その上、二束三文だった土地は高騰し、工事費を上回る価値を生んだ。台湾有数の化学メーカー、奇美グループの創業者である許文龍氏は「台南では街の人より農民の方が豊かなのが不思議であった」と少年時代を語っている。

八田が勅任官になり2年がたった1941(昭和16)年12月8日、対米交渉で追い詰められた日本は、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を連合艦隊に発し対米英戦争が始まった。戦雲は軍人だけでなく、八田をも巻き込んだ。1942(昭和17)年4月20日、陸軍から米軍が破壊したフィリピンの綿作灌漑施設の調査命令が届いたのである。八田は3人の部下を同行し、「南方資源開発要員」として、宇品港で陸軍に徴用された大型客船・大洋丸に乗り込んだ。大洋丸は1,010人の民間技術者、34人の軍人それに300人余の乗組員を乗せて5月5日午後7時30分出港、滑るように瀬戸内海を南下した。8日、五島列島沖にさしかかった時、米国潜水艦の発射した4発の魚雷を受け、大洋丸は有能な技術者を道連れに東シナ海に没した。八田56歳の悲劇であった。悲劇はまだ続く。1945年9月1日、3人の娘と共に台北から烏山頭に疎開していた外代樹(とよき)夫人がダムの放水プールに身を投げ自死した。45歳の若さであった。台湾永住を決めていた夫妻のことを知った組合は、ダムを見下ろす丘に日本式の墓碑をつくり夫妻を納骨し、除幕式を行った。以降、組合は八田の命日5月8日が来るたびに、毎年墓前にて追悼式を行ってきた。2019年も300人余りが参加して、盛大に行われた。

文末に、八田の言葉を掲げ、結びとしたい。

◎1,000人を超える職員の健康と、安心して働ける環境無くして大きな仕事はできない
◎他利即自利(他人が利益になることは、自分の利益にもなる)
◎大きな仕事は、少数の優秀な者より平凡な多数が成す
◎リストラは優秀な者から、優秀な者は就職が可能
◎技術者を大事にしない国は、滅びる
◎大きな仕事は、若くて経験と気力があるうちにすべき
◎人間は皆同じ、差別からは何も生まれない
◎遊びの中から新しい発想が生まれる

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、80年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。著書に『台湾の歩んだ道-歴史と原住民族-』『台湾を愛した日本人 八田與一の生涯』(土木学会著作賞)『日本人に知ってほしい「台湾の歴史」』『台湾を愛した日本人Ⅱ』『KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯』など。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら『台湾を愛した日本人Ⅲ』で磯永吉について執筆中。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

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月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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近代土木の開拓者年表