田邊朔郎(1861-1944)

卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

工部大学校に入学

田邊は1861(文久元)年、徳川幕府で砲術の教育をしていた高島秋帆門下の西洋砲術家・田邊孫次郎の長男として江戸城下で誕生したが、田邊の誕生の翌年に父親が急逝したため、長崎海軍伝習所3期生であった叔父の田邊太一が後見として指導した。沼津兵学校の教授に就任した太一に同行して田邊も沼津兵学校付属小学校に入学するが、1871(明治4)年に太一が岩倉遣欧使節団に同行することになったため、再度、東京に転居する。

1873(明治6)年に帰国した太一を横浜に出迎えたとき、外国汽船の蒸気機関を見学する機会があり、工学に興味をもつようになる。そこで15歳になった75(明治8)年に工学寮付属小学校に転校、2年後に工学寮から改称された工部大学校に進学し土木工学を専攻する。工部大学校は明治政府が設立した技術官僚養成の教育機関で、初代校長は大鳥圭介であるが、実質はグラスゴー大学を卒業したばかりのヘンリー・ダイアーであった。

この工部大学校には土木、機械、造家、電信、化学、冶金、鉱山の学科が設置され、現在の文部科学省所在地である東京都千代田区霞が関3丁目という都心に校舎が建設された。それぞれの分野には外国から高給で教師を招聘し、校舎は早急に自国の人材を育成したいという政府の期待を表明する壮麗な洋式建物であった。1877(明治10)年に工部大学校に改称されるが、田邊は工学寮から計算すれば第5期生になる。

校長ダイアーを筆頭に、教師は地質学のジョン・ミルン、物理学のウィリアム・エアトン、建築学のジョサイア・コンドルなどイギリスから招聘され、授業も卒業論文も英語であった。学費不要のため全国から優秀な若者が入学し、アドレナリンを発見した高峰譲吉(化学)、電気工学を開拓した志田林三郎(電信)、東京駅を設計した辰野金吾(造家)、電球灯を普及させた藤岡市助(電信)など、日本の産業基盤を確立した人々が卒業した。

卒業設計を自身で実現

1877(明治10)年に田邊が工部大学校に進学した時期は、最初2年で基礎、次期2年で専門を学習、最終2年で現実の地域を対象に卒業設計をする制度であった。そこで「東京湾築港計画」を東京府知事に提案するが採用されなかったため、「琵琶湖疏水工事計画」に変更、実地調査のため81(明治14)年10月に京都に出発する。当時は東京と横浜、神戸と大津の区間しか鉄道は開通しておらず、横浜から大津までは徒歩の移動であった。

その時期、北垣知事の意向により、すでに京都府庁では琵琶湖から京都に導水するための疏水計画の検討が進行しており、掘削予定の路線の調査も開始されていた。田邊は実地調査に2カ月間従事し、年末に帰京するが、現地で右手を怪我してしまい、英語の論文と精密な設計図面すべてを左手のみで完成させるという根性を発揮している。当時の若者が新興国家の発展のために並々ならぬ意欲を持っていたことが理解できる。

田邊は1883(明治16)年5月に工部大学校卒業と同時に京都府御用掛に採用され、7月から卒業設計を自身で実施することになる。6年の教育で巨大事業を設計し指揮できる人材を育成できた明治の教育水準は大変に高度であった。田邊の工費見積りは60万円であったが、内務省土木局は中途半端な工事にならないよう125万円に増額する。当時の政府の土木事業予算総額が年間100万円であり、疏水計画の壮大さが理解できる。

第1疏水を見事に実現

琵琶湖疏水は田邊が工事を監督して1890(明治23)年に完成した「第1疏水」と1912(明治45)年に完成した「第2疏水」からなる。第1疏水は大津の三保ヶ崎から湖水を取水し、約730mの開渠を通過して延長2436mの長等山トンネルを通過、再度、約850mの開渠を通過してから520mの諸羽トンネルを通過、約2500mの開渠、さらにいくつかのトンネルを通過して蹴上に到達する。

蹴上から南禅寺前まで約580mの区間は36mの落差があり、小舟の運搬のためにインクライン(傾斜鉄道)が設置された。疏水の重要な役割は導水以外に舟運を可能にすることであり、そのため水路の途中には水位を調整するための閘門がいくつも設置されていたが、最後は小舟を搭載した台車をケーブルで牽引する方法が採用された。これは戦後まで利用されたが、1960(昭和35)年に稼働を停止した。

1885(明治18)年6月に琵琶湖疏水起工式が挙行され、田邊は翌年2月に疏水事務所工事部長、次年4月に全体の責任者として巨大工事を監督する。現代と相違して大半が人手による工事は難事であったが、とりわけ当時の日本最長の長等山トンネル工事は困難で、工期短縮のため両側から掘削すると同時に、中間地点付近から深度50mの竪坑を掘削して、その底部からも両側に水平に掘削する工法を採用している。

明治時代の初期には、このような工事の現場を監督する技手は不足しており、それに対応するため、1日の工事を終了してからの夜間、田邊自身が講師として現場で工事を担当する職員を教育し、また、それらの職員が現場で参照できる小型の参考書籍も田邊本人が執筆している。このような努力の効果もあり、5年が経過した1890(明治23)年4月に延長19.5kmの第1疏水が完成した。

田邊の功績はこれだけではない。北垣が疏水を構想した重要な目的は産業育成であった。当初は疏水の流水で水車を駆動して繊維産業などを振興する計画であったが、アメリカで水力発電が開始されたとの情報を入手し、1888(明治21)年にアメリカを2カ月間視察して蹴上に水力発電所を建設した。この電力により前述の蹴上インクラインは駆動され、95(明治28)年には日本最初の電気鉄道も京都に開通することになる。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

1942年愛知県生まれ。65年東京大学工学部卒業。71年東京大学工学系大学院博士課程修了。78年工学博士。名古屋大学工学部教授、東京大学工学部教授、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授、総務省総務審議官などを歴任。専門はメディア政策。著書に『縮小文明の展望』『先住民族の叡智』『航海物語』『転換日本』など。趣味はカヤック、クロスカントリースキー。2004年ケープホーンをカヤックで周回。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

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【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

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【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

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【工楽松右衛門】 港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

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近代土木の開拓者年表