田邊朔郎(1861-1944)

卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

広範な活躍をした人生の後半

1890(明治23)年4月9日に琵琶湖畔の大津閘門で、明治天皇と皇后の臨席のもと疏水完工通水式が挙行され、田邊が通水を指揮した。しかし工事は順風満帆ではなく、事故が発生したときには議会が田邊の罷免を要求し、北垣が一蹴したこともある。それでも病没なども合計して17名が殉職している。田邊は責任を痛感し「一身殉事萬戸霑恩(殉職した人々の恩恵を多数の人々が享受している)」という慰霊の石碑を自費で建立している。

工事そのものへの批判もあり、最初に計画を政府に説明したときも反対があった。福澤諭吉は疏水工事を風景や寺社などを破壊する軽挙と批判している。また工事資金不足の一部を京都市民から徴収したため、北垣は「今度来た(北)餓鬼(垣)は極道(国道)」と非難の貼り紙をされたりもしている。しかし、この工事の価値はイギリス土木学会から最高の栄誉とされるテルフォード・メダルを授与されたことが証明している。

この完成とともに田邊は帝国大学工科大学教授に就任、榎本武揚夫妻の媒酌で北垣の長女しずと結婚する。1896(明治29)年には北海道庁長官となった北垣から勧誘され、大学を辞任して北海道庁鉄道部長として道内の鉄道建設に尽力する。1900(明治33)年には京都帝国大学教授、16(大正5)年には京都帝国大学工科大学学長に就任、2年後に58歳で退官する。以後も各地の鉄道建設計画の指導をするなど活躍し、1944(昭和19)年に84歳で逝去した。

明治の若者が活躍した源泉

これら俊英を教育した工部大学校の校長ダイアーは日本の若者が異常な情熱で勉強する様子に感動し、帰国してから原因を究明するが、その回答を新渡戸稲造の『武士道』に発見し、1904(明治37)年に出版した『大日本~東洋の英国』に引用している。「日本変貌の指導的原動力は物質資源の開発や国富の増加ではなく、ましてや西洋の習慣の模倣でもない。劣等国として見下されることを許容できない名誉の感覚である」

幼少の時期からの教育とは関係のない学問をわずか6年だけ英語で勉強し、先進諸国と対等か、分野によっては先行する国々を凌駕する業績を達成した明治の若者の意気の根底に存在した精神は名誉であったと理解すると、様々な分野で現在の日本が低迷している原因が見透せる。田邊の業績が素晴らしいことは間違いないが、それを感心するのではなく、その背後にあった気概を感得することこそが現在必要とされていることである。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

1942年愛知県生まれ。65年東京大学工学部卒業。71年東京大学工学系大学院博士課程修了。78年工学博士。名古屋大学工学部教授、東京大学工学部教授、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授、総務省総務審議官などを歴任。専門はメディア政策。著書に『縮小文明の展望』『先住民族の叡智』『航海物語』『転換日本』など。趣味はカヤック、クロスカントリースキー。2004年ケープホーンをカヤックで周回。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

全編を読む

総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

全編を読む

【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

全編を読む

【ヘンリー・ダイアー】 エンジニア教育の創出

加藤詔士(名古屋大学名誉教授)

全編を読む

【渡邊嘉一】 海外で活躍し最新技術を持ちかえる

三浦基弘(産業教育研究連盟副委員長)

全編を読む

【田邊朔郎】 卒業設計で京都を救済した技師

月尾嘉男(東京大学名誉教授)

全編を読む

【廣井勇】 現場重視と後進の教育

高橋裕(東京大学名誉教授、土木史家)

全編を読む

【工楽松右衛門】 港湾土木の先駆者

工楽善通(大阪府立狭山池博物館館長)

全編を読む

【島安次郎・秀雄・隆】 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン

小野田滋(工学博士・鉄道総合技術研究所担当部長)

全編を読む

【青山士】 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理

高崎哲郎(著述家)

全編を読む

【宮本武之輔】 技術者の地位向上に努めた人々

大淀昇一(元東洋大学教授)

全編を読む

【八田與一】 不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師

古川勝三(愛媛台湾親善交流会会長)

全編を読む

【新渡戸傳・十次郎】 明治以前の大規模開拓プロジェクト

中野渡一耕(地方史研究協議会会員、元青森県史編さん調査研究員)

全編を読む

【丹下健三】 海外での日本人建築家の活躍の先駆け

豊川斎赫(千葉大学大学院融合理工学府准教授、建築士家・建築家)

全編を読む

近代土木の開拓者年表