古市公威(1854-1934)、沖野忠雄(1854-1921)

「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

古市公威の工科大学学長就任と内務省での活躍

1880(明治13)年の帰国後、内務省土木局勤務となった古市は、86年まで河川・港湾の修築工事の設計、工事監督に従事した。それらは、修築中であった阪井港(三国港、九頭竜川河口)の施工、札幌市防御のための2kmに及ぶ堤防と護岸の新設、水門1カ所の築造を中心とした豊平川水害防御計画・設計の策定などである。その後、信濃川、阿賀野川、庄川などの工事監督に就き、とくに信濃川では現地に赴任して長岡から新潟にいたる約90km間の修築計画を策定した。河身改修は直轄、堤防は新潟県が負担するもので、85年度に着工した。

だが、古市が信濃川修築事業を現場で進めることはなかった。1886(明治19)年5月に帝国大学工科大学の学長に就任したのである。帝国大学工科大学は、同年3月の帝国大学令で東京大学が帝国大学に改組された際、東京大学工芸学部と工部大学校が合併して成立した大学である。東京大学は、古市が学んでいた東京開成学校(その元は幕末に設立された蕃書調所、洋書調所)を前身とするもので、工部大学校は工部省により77年に創立されていた。工学寮の廃止にともない帝国大学に吸収されたのである。

なぜ、古市が学長に選任されたのだろうか。その背景には、河川事業を積極的に進めていこうとの政府の方針があったと考えられる。内務省の制度としては、1886(明治19)年7月に土木監督署官制が制定され、全国を6区に分けて直轄河川事業の施工と府県土木事業の監督を所管とする監督署が置かれた。河川工事は直轄による低水工事のみならず、府県による防御工事も積極的に推進しようとしたのである。河川事業推進のためには、技術者が必要である。政府は、高級技術者育成のため帝国大学工科大学生50名に86年度から90年度まで学費を貸与し、内務省に勤務させることを定めた。このこともあり、1年間東京大学で数学の講師を務め、また実践経験もある古市に学長の白羽の矢が立ったのだろう。古市の就任は、河川事業推進に必要な技術者を養成しようとする政府内務省の意向が強く働いたものと考えられる。

学長となった古市は、ここの教育以外にも活動の場を広げていった。1888(明治21)年、東京市区改正条例が公布されたが、その委員を委嘱され、東京都市計画、なかでも築港、水道の事業に深く関わっていった。また、事業を進めるには、多くの中堅技術者も必要である。このため87年工手学校が設立されると、この教育に古市は積極的に関与し教壇にも立った。

さらに、1888(明治21)年12月から10カ月にわたり内務大臣山縣有朋のヨーロッパ諸国視察に随行し、山縣の知遇を得た。このことも関係したのであろうか、第1次山縣内閣が89年12月に成立すると、翌90年6月内務省土木局長に就任し、工科大学学長は兼務となった。さらに、94年には土木技監となった。

この間、土木会規則と鉄道敷設法が公布された。この敷設法の制定について、鉄道を担当する鉄道庁がこの頃、内務省の配下にあったことが重要だろう。河川改修また道路改修は内務省土木局が担当していたが、鉄道部局もこの時期、同じ内務省の管轄に入ったのである。ここで、内陸輸送をどのように進めていくのか内務省内で幅広く議論され、それをふまえて内陸輸送は鉄道で進めるとの方針が確立されたと考えて間違いないだろう。このとき、土木局長の任にあったのが古市である。

さて、1896(明治29)年、国直轄による洪水防御工事(高水工事)を目的とする河川法が制定された。90年に帝国議会が開設されると、国庫による堤防修築など治水を求める請願が全国から行われた。第1回帝国議会に寄せられた請願数は142件に達し、地租軽減および地価修正の438件に次いで多く、全請願数1,048件の1割以上であった。また、議員からは治水(洪水防御)工事の促進を求める建議がたびたび行われ、政府直轄による治水の要望が熱心に展開されたのである。とくに淀川の改修は議会内への強い働きかけがあった。

淀川では、洪水防御を求める淀川改修運動が1885(明治18)年の大水害後から本格的に始まった。熱心な請願運動が進められ、91年には大阪府会で改修決議が行われ、翌92年には淀川治水対策同盟会が公的なものとして成立し、同盟会から請願・建白が行われた。

1895(明治28)年、日清戦争が終結すると、さらに淀川改修の期待が高まった。しかし政府は、対ロシア戦に備える軍備拡張が急務であり、治水は国家にとっても地方にとっても重大な事業に違いないが、時期到来まで待つほかないと強く拒絶した。それらが一転して96年度から淀川改修事業の着工を決めたのである。国直轄工事を行うには新たな法律が必要として、同年4月河川法を制定したが、帝国議会で論議されたのはわずか2週間であった。そして議会での答弁に立ったのが、土木技監兼土木局長であった古市である。

制定の背景として、対ロシア戦に備えて機械施工技術の確立があったと考えられる。同じ1896(明治29)年、鉄道作業局による中央本線笹子トンネルが、その翌年には大阪市により大阪築港事業が着工された。これらの工事のためフランス、イギリス、ドイツなどから浚渫船、掘削機、機関車などの施工機械が購入され、機械力を本格的に駆使する大規模工事が展開されたのである。

沖野忠雄と河川改修

淀川改修計画は、現地の監督署署長であった沖野忠雄によって進められていた。その計画の核心は、上流琵琶湖からの流出を調整する南郷洗堰、大阪港築造と一体となった大阪市内での放水路の築造であった。

それまでの沖野の経歴をみると、1883(明治16)年内務省入省後、86年に「富士川改修計画意見書」を作成、また信濃川、北上川、庄川、阿賀野川の修築事業に従事した。そして89年大阪土木監督署署長となって木曽川、淀川を担当することとなった。木曽川はオランダ人技師デ・レーケによって計画が策定され、その工事を進めていったのである。一方、淀川では、デ・レーケによる先行計画を参考としながらも、日本人技術者が中心となって策定した初めてのものである。

淀川の計画は、1894(明治27)年に「淀川高水防禦工事計画意見書」として提出され、古市ほか9名よりなる技術官会議で審査され、若干の修正が命じられて本計画となった。工事は沖野の指導のもとに進められ1911(明治44)年度に竣工した。この工事とともに沖野は、大阪市から大阪築港工事長を委嘱され、竣工まで尽力した。大阪築港計画はデ・レーケによって計画されたが、古市、沖野など9名よりなる築港調査委員会の審査をへて着工となった。沖野は、施工機械を本格的に導入する初めての大規模工事である淀川改修工事と大阪築港工事を1日交代で、トップとして指導した。ここに、日本での機械施工力が確立された。なお、それに先立ち沖野は大阪市上水道敷設の工事長も委嘱され、竣工に導いている。

河川法の成立後、即座に国直轄により治水事業が全国的に展開されたのではない。1907(明治40)年までに着工された河川は、00年の利根川をはじめ07年の信濃川まで計7河川であった。信濃川では、古市が作成した修築計画は全面的に見直され、大河津分水を中心とする計画となった。明治政府は、膨大な海陸軍の臨時拡張費が優先されるなど財政からの強い制約のもと、工事対象河川をきびしく絞って進めていったのである。

これらの河川に対し沖野は、1897(明治30)年土木監督署技監、1905(明治38)年には土木局工務課長兼務となり、全国の直轄河川改修の指導的役割を担った。帝国議会での直轄事業に対する技術的答弁は、ほとんど沖野が行った。

古市は、1898(明治31)年7月、土木技監兼土木局長と工科大学学長を辞任した。同年6月、大隈重信内閣が成立したことが契機となったとされているが、「事業を進める制度は制定した、あとは現場で実務経験の豊富な沖野に任せた」との思いがあったのだろう。古市と沖野は「君と僕」で呼び合う関係だった。さらには、古市は古市なりに官を去って新しく道を求めての転進だったろう。

だが、同年11月第2次山縣内閣が成立すると、逓信次官として官に復帰し鉄道建設に関わっていった。この後、1903(明治36)年3月鉄道作業局長に就任、同年12月には京釜鉄道株式会社総裁として風雲急な朝鮮半島に渡りロシア戦に備えて鉄道建設に献身し、竣工させた。そして日露戦争後の06年には総督府鉄道管理局長に就任し、翌年6月までその任にあった。

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

1948年埼玉県生まれ。1973年東京大学工学系大学院修士課程修了。専門は国土史学。工学博士。建設省技官(1973年)東洋大学国際地域学部教授(1999年)などを務める。主な著書として『戦前の国土整備政策』『足尾鉱毒事件と渡良瀬川』『利根川近現代史』『遷都と国土経営―古代から近代にいたる国土史』など。

この記事が掲載されている冊子

No.60「技術者」

日本の近代化はごく短期間で行われたとしばしば指摘されます。国土づくり(土木)では、それが極めて広域かつ多分野で同時に展開されました。明治政府はこの世界的な大事業を成し遂げるために技術者を養成。その技術者や門下生らが日本の発展に大きな役目を担いました。
今号は、60号の節目を記念し、国土近代化に重要な役割を果たした「技術者」に注目しました。海外で西洋技術を学んだ黎明期から日本の技術を輸出するようになるまで、さまざまな時期における技術者が登場します。
時代を築いたリーダーたちの軌跡を見つめ直すことが、建設、ひいては日本の未来を考える手がかりとなることでしょう。
(2020年発行)

座談会:近代土木の開拓者

樺山紘一(東京大学名誉教授、印刷博物館館長)
月尾嘉男(東京大学名誉教授)
藤森照信(東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長、建築史家・建築家)

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総論:近代土木の技術者群像

北河大次郎(文化庁文化財調査官)

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【古市公威と沖野忠雄】 「明治の国土づくり」の指導者

松浦茂樹(工学博士・建設産業史研究会代表)

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